
形名参同 20181006_C/1
私の勤務先では、半期ごとに、職員が自ら三つの業務目標をたて、半期末にその達成率を自己申告する制度がある。
聞くところによると、十数年前、年功序列の牙城のようだった我が組織が、業績重視に転換を図る際、どこかの民間企業で採用されていたものを登用したのだと言われている。
しかし、導入当初からこの制度を疑問視する人が多く、毎年10月と4月の更新期になると、目標を設定する部下はおろか、それをチェックする上司まで、「面倒くさい」「この制度なんの意味があるんや」「こんな制度やめたらいいのに」と平気で漏らしている。
そもそも、当局の運用も変なのだ。
私はポジションに応じて具体的に書くようにしていたのだが、「あまり具体的なことは書くな、特に数値目標は書くな」と言われる。
数値目標については、役人という職業柄、公正を欠く行為の誘因となり得る意味で不適正というのはわかるが、具体的な目標を立てないというのが理解できない。
そして、予め参考として、系統別・職階別に例示された記載例をなるべくコピペするように言われるのだ。
私が張り切って、「今期はこれを成し遂げたい!」と書いても、「これは、例文で言うところの、これに含まれますよね?」との指摘を受け、抽象的なものに変換されてしまうのだ。
要は尖った目標が不都合なわけだ。
これでは、制度の趣旨を正しく理解出来る者なんて現れない。
部下職員達も、意味が分からないまま、毎回同じというのもなんだから、文例を適当に使いまわしているだけ。
しかも最近、この入力シート、過去に使用した文例をわざわざ参照できるように改良されたのだ。形骸化も甚だしく、嘆かわしく思う。
そして、先日、私の年下の上司が、「無意味な制度だ。やめた方が良い」という。
この上司は、現場実績が突出していて現職の地位にあるが、いわゆる体育会系で、頭を使うのは苦手だと自ら公言している。ただ人柄よく、何より勤勉で、人の話は聞く人なので、事後の栄達を願い、お恐れながら私から制度の趣旨を説明する事にした。
この制度の趣旨って一体なんなのか?
自分で目標を立てて、その達成率を報告する意義?
業績を評価するなら額や量が多ければいいのだろう。
上司の命令に従い、時にはアドリブを加えたにしても、より多額の、あるいはより多量の職務を遂行した者が評価されればいいわけで、「なんでわざわざ、先に目標を定めるべきなのか?」と。
「いやいや、目標も無く漫然と働いていたら、いろんなものを浪費してしまうんだ。近い目標を立てることで、大きな業績につながるのだよ。」という答えも有る。
因みに目標と目的は似て非なるもので、目的を達成するための一つ一つのステップが目標である。
そういうことで、各個が自己の職能において、当該期間の目標を立てることの必要性は理解できる。
しかし、それの達成率が、業績評価になるというのは理解しがたい。
よく言われるように達成率を評価対象とするのなら、予め達成見込みの高い目標を立てれば、達成率などいくらでも操作できるではないか?
実際、そのような設定が横行し、システムが形骸化しているため、この制度を取り下げる企業も増えている。と前述の上司も主張している。
そこで、表題の「形名参同」の説明が必要となる。
「形名参同」(けいめいさんどう)(by 四字熟語辞典オンライン All right r eserved)
口に出して言った言葉と行動を完全に合わせること。
「形」は行動、「名」は言葉、「参同」は比較して一致させること。
中国の戦国時代、韓非子ら法家が唱えた基本的な思想で、実際に起こした行動や功績と、臣下が言ったことや地位を比較して、それが合っているかどうかで賞罰を決めること。
韓非子は、冠係と衣係の逸話(「侵官之害」で検索願います。)に代表されるように、事あるごとに、職分、すなわち職権及び職務の範囲について厳重な線引きを求めている。職分に不足する実績はもちろんのこと、職分を超える行為も固く禁じている。
韓非子における形名参同の名(放った言葉)、即ち目標は、職分であり、届かない事も減点であるが、容易に届く事も減点なのである。
各個は、その職能から、自ら、一定期間内に完了可能な分量を正確に査定しなければならない。それがポイントなのである。
そしてもう一つ重要なことは、そもそも目標とは、先程も記述したように、ある目的が有って、そのためのそのステップであるのだから、自分が属する組織がどのようなビジョンを持ち、そのために自分の部署が求められている成果物とその期限を意識し、その上で、自分の目標を設定するべきなのである。
つまり、制度は良いものなのだが、「名」において、深い考えの無いことに問題があるわけだ。
とまあここまで説明したのだが、私の説明が悪かったのもあって、上司の方は、ちんぷんかんぷんの様子だった。
業績査定は上司の仕事、差し出がましく雄弁を振るっては立場がなかろうと、「私もある本で読んだだけで、よくわかってないのですけどね。」と付け加えたところ、「そんなに深い意味があるとは思えませんね。」とバッサリ切り捨てられてしまった。
「形名参同」若しくは「韓非子」という響きだけでも耳に残っていたら、いずれ幹部の寄り合いでも話題に出た時に思い出してもらえるかもしれない。
ただ、導入以来、一人として、このように、この制度の趣旨を説明している幹部を見たことはない。
実際、彼の言うとおり、我が組織も、他の企業からこの制度を登用するに当たり、「目標設定」という一面しか見ていなかったのかもしれない。
形名参同のポイントは、単なる目標設定でないことである。
単なる目標設定なら、査定の要素にならない。
重要なのは、組織のビジョンと戦略を理解し、自分の持ち場のアジェンダ(必須課題)を理解し、その達成のために、自分の職能(職権と技術)から、一定の期間内に何が出来るかを正確に査定することである。
形名参同は、いわゆる平社員(兵隊)だけが適用されるものではなく、むしろ上層部ほど、その設定は重要な意義を持つ。
ビジョンを掲げ戦略を展開する司令部、戦略を遂行するため人材資源を操作する現場指揮官、指令を実行し局地的成果を挙げる兵隊。それぞれに形名参同が有るわけだ。
因みに、我が組織では、現場指揮官が、その部署としての半期目標や、心掛け、あるいはスローガンといったものを掲げる、「部門マネジメント」という制度も導入されている。
これも、ビジョン・戦略から、局地的作戦を掲げろといっているわけで、なかなか素晴らしい制度だと理解している。
全体の構想、いわゆるストラテジーを理解する参謀を現地に派遣し、戦略的見地から作戦行動をマネジメントするアイデアは、ナポレオンが導入し、その時代において他を圧倒するに至った要因と言われる。
しかし、残念ながらこの制度も、幹部連中には不評なようで、定形文の焼き回しが目立ち、形骸化が進んでいる。
せっかくの制度も運用する上でしっかり趣旨を理解させておかないと、逆に時間と物資の浪費になるだけである。
経済学部を出て、「金融でも財政でもなく、税制こそが最も有効な経済政策だ」と息巻いていたころの私は、国家戦略を語ろうとしない、上司や先輩方に失望したり、酒席では、中央官庁のビジョンとストラテジーについて熱く語り、上司や先輩方でもやり込めてしまうところがあったが、出世コースから外れて以来は、求められない限りは語らないようになった。
ただ、若い人達には、表立って批判することは勧めないが、せめて、テンプレートを張り替えるだけの目標設定を続けるような事はないように願いたい。
ミケランジェロ・ブオナローティ「ピエタ」
「私は、大理石の塊に埋まっていた女神を取りだしたまで」
シビれる表現だ。まあ、彫刻家なら皆同じようなことを言いそうだが。
彫刻は、粘土細工と違って付け足しが効かない。絵画と違って塗り直しが効かない。
白い大理石の塊の中の彼だけが見える、その課題における最終的解決、すなわち「完成形」を目指して突き進むしかないのだろう。
何度も言うように、目標とは目的を達成するためのステップである。明確な目的の無い目標は、「完成形」を見ずにノミを振るうようなものだ。
それは、ある時には無駄な時間や労力を浪費することにつながるし、少なくとも「面白くはない」と思う。