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考える葦

1 天下万民の法
 世界にはさまざまな国が存在する。地理的な要因、歴史的な要因、宗教的な価値観、様々な背景を持って、現在に至っている。いずれの国家もその現状に至った経緯は、概ね複雑なものであり、それによって形作られた、国体というものは、容易には変わらない。
 経済力がついて、国力が上がってくると、大体、「自国の制度こそ絶対だ。」と考えるようになりがちだが、豊かであることだけが、国体の良し悪しを決めるものでもなさそうだ。
 日本なんぞは、これほど平和で治安が良くて自由なのに、2022〜24年度世界幸福度ランキングでは、143カ国中51位だった。

 これは、近年急成長した国が発祥の、とても有名な昔話。「昔々、天に使える軍隊の猛将だっった、斉天大聖・孫悟空は、厳しい鍛錬の末、一息で10万8千里(秒速40万キロ=光より速い)を飛ぶ、觔斗雲(きんとうん)を手に入れた。すると、お釈迦様が競争を挑んできたので、これを受けた。エイッと、一っ飛び、あっという間に地の果てと思われる不思議な柱に至ったので、これに落書きをしたところ、それは、お釈迦様の指だった・・・。」
 どのような武器を持とうと、技術を持とうと、すべからく万国を統べることなどないのだ。にもかかわらず、多くの国家元首が、觔斗雲を手に入れる事に夢中になっている。では、万国を統べる制度なら存在するのか?いや、民主主義にも欠陥が有り、権威主義にも利点が有る。制服がない学校より制服のある学校に行きたがる人がいるように、自由や平等だけが全てでもない。

 おそらく釈迦の指を超えるものは、まだ見つかっていないと考えるべきなのだろう。 

 従って、我々は、どのような国体も否定できない。だから、国際法では、どのような国家であっても、「内政不干渉」の原則が存在するわけである。
 しかし、個人の自由同様、国家の行動について、すべてを自由として肯定することはできない。それは万国の万国に対する闘争を意味し、弱肉強食の「野生」の社会へ至る道である。
 一定の秩序ある国際社会を維持するためには、どのような事情を抱えていようとも、国家として、守るべきルールや侵してはいけないルール、すなわち、「天下万民の法」というものが存在するのも事実である。
 その中の一つを端的に表している名文があるので紹介しよう。

 日本国憲法 第十三条「すべて国民は、個人として尊重される。 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
 基本的人権の尊重。そして、大方のことは「自由」。freedom!ただし、それは、公共の福祉に反しない(分かりやすく言うと、他人に迷惑をかけないこと)、と言う制限を持つ。
 国家も同じ、まず、基本的人権は尊重する。奴隷的扱い、非人道的扱い、裁判なしでの服役・監禁はしない。ただし、それ以外は自由だ。内政不干渉、どの国も自分の国の運用に口を出される筋合いはない。私の家のカーテンのデザインに文句を言うことはできない。
 次に、他国に迷惑をかけたらアウト。外国船が行き交う狭い海峡近くにいかつい基地を作るのもアウト。私の家のカーテンも、街の風紀を乱すような淫らなものや、または、通行人が気分を害するようなおぞましいデザインだったらアウトだ。
 これで良い。これが一番分かりやすい。

2 人間は考える葦である
 西洋では、人間には食欲・睡眠欲・性欲という三大欲求があり、これら本能的欲求は、抑制するのが非常に難しいとされている。そして、時に人間は弱く、欲望に負けて罪を犯す。しかし神は、正直に告白し贖罪を誓えば許すという。
 どうも、我慢強い東洋人の私には、考えが甘々に思える。オリンピアンクラスなら9割、庶民の我々でも、6割はこの程度の本能を制御できないとは思えない。

 一方、韓非子は「人間は利益を追求するもの」と説いた。親が子を育てるのは、老後の助けを期待してのこと、家臣が君主に仕えるのは給料を得るため。孔子の「孝」や「忠」も、利益追求が目的であると断じた。そのため、彼は、非情の思想家と呼ばれた。
 しかし、欲望に負けた人間を、悔い改めたからといって簡単に許してしまう西洋の神とやらは、被害者から見れば非情を超えて無情だろう。

 また、韓非子の言う「利益」とは、本能を満たすだけでなく、文化的な「冨貴」「名誉」「権益」を指す。つまり「孝」や「忠」も利益追求の一環であり、本能よりも高次の思考だ。

 「人間は考える葦である」というパスカルの名言について、多くの人は「人間はか弱いが、考える力を持つ」と理解しているだろう。

 しかし、この言葉が出てくる著書「パンセ」を読み進めると、彼はもっと壮大な主張をしている。「人間は考えることで大宇宙から隔離された。大宇宙とは一線を画する存在である。」らしい。彼が伝えようとしている事は、人間は偉いという事ではもちろんなく、「考えることができる人間は、大宇宙、つまり何も考えの無い、いわば「野生」とは一線を画せ。」と言っているのである。

 本能には勝てない?笑わせないでくれ。数百万年かけて大脳皮質を育んできたのはなんのためか。私たちは、武器を作り集団を統率できるようになった時から、理性を持ち、「野生」から一線を画さないと、自らの種を絶滅させかねない存在となったのだ。

 「大いなる力には、大いなる責任が伴う」(スパイダーマンより)

 考える力は偉大だ。だからこそ、「野生」とは一線を画し、せめて「利益」を求めるくらいの文明性を持つべきなのだ。そうすれば、「法治」を支える計算が生まれる。その次元まで来て、初めて「考える」ことが偉大と言えるようになるのだ。

3 教育は天下百年の大計
 以前にも話したことがあるが、法治主義の難しい点は、法は他人が決めた正義であり、必ずしも個々、個人の正義には一致しないことが問題となる。
 しかし、第1項で掲げた、基本的人権や、制限付きの自由の概念は、私たちなどから見れば、当然としか思えない。
 しかし、多くの国家で、この当然のルールをひた隠し、教えず、学ばさない。という卑劣な政策が取られている。自分の支配の礎にヒビを入らせないためだ。だから、抑圧された人民が、暴発してクーデターを起こし、その国主を倒しても、長い間、内戦が続くのだ。

 その昔、ソビエト連邦という大国が崩壊した。
 世界は、空席となった利権や資源を奪い合い、必ず大規模な内戦になると危惧した。
 しかし、ソビエト連邦は、粛々と解体されていった。
 指導者が偉大であったこと、当時、連邦を統率していたロシアが弱体化していたことや、もともと解体を望んでいた国が多かったことなど、さまざまな要因が考えられているが、それにしても、本当に暴力行為、略奪行為、虐待行為ということがほとんどなく、まるで、とてつもなく大きな集会が終わっただけかのように、粛々と彼らは解散していった。
 当時大学生だった私は、悲しくも最後のマルクス経済学の講師となってしまった教授から、こんな話を聞いた。
 「彼らのチャレンジは失敗した。私は、この資本主義の末路を知りながら、これを避ける方法をまた探さなければならない。だが、彼らのチャレンジは無駄ではなかったようだ。彼の国の国民は、イデオロギーの対決と競争の中で、たくさんの偉業を成し遂げ、誇りを持てるだけの教育を受けてきた。だから、衰えたかつての独裁者に仕返しをしたり、補償を求めたりするようなことは、少なくとも今の自分たちの利益にはならないことを理解している。」
 幸運なことに、この時は、みんなちゃんと「考える葦」だったわけだ。

 教育は、紛争を抑える必要条件にも十分条件にもなり得ないが、人と「野生」と切り離すことで、人は人らしく生きようとする。そうである事に誇りを持つようになる。

 もし国連が、本気で、この世界から、貧困や飢餓を取り除きたいと願うなら、かなりのウェイトをかけて、まず彼らを無学から救わなければならない。前述した通り、未開、または途上国では、誤った教育によって、「自分達は負けたら奴隷か家畜」「飢えて当然、死んで当然」と考えているのかもしれない。80年前、東洋にそんな島国があったっけ。

 まずは、紛争続く中、腹の足しにもならず、身を守ることもできない、「権利」だの「自由」だのという概念を理解させ、「野生」から一線を画した「考える葦」にしていくことが可能だろうか?

 我に策有り。
 簡単な書取りと、四則計算のドリルの入った「たまごっち」(生体認証付)を配って、できた点数分、お金や食料の配給を増やす。大人も子供もOK。ちょっと学ぶ事に熱心になってきたら、「基本的人権」と、「公共の福祉に反しない自由」を教える。
 悪くないプログラムだ。

 これを、国連教育プログラム・フェーズ1:「基本権」としよう。
 「人は生まれながらにして基本的権利を有し、公共の福祉に反しない限り自由である。」
 これが一本目。「言って良い。やって良い。話してくれ。訴えてくれ。」これが始まりだ。

 さて、次に、ウクライナ・ロシアやイスラエル・パレスチナ紛争についてだが、一応、彼らは、人権と自由くらいは知っている。知っていて、それが十分でないことを主張して揉めている。それぞれの正義に異論を挟むつもりはない。ただ、戦争は、軍隊同士だけでしろ。
 私の持論は、戦時の殺人は、正当防衛。武器を持たず、子供を庇っている母親の背中を打つのは「殺人」である。
 空爆の判定は難しいが、かつて、軍服を着用せずに作戦行動を行う者(つまりスパイ)は、武器を持っていなくても銃殺だった。つまり、戦闘員は、その証を身につけ、非戦闘員と明確な区切りつけること。これがルール。戦闘員も非戦闘員もお互い絶対近づかない。戦闘員が非戦闘員を盾に隠れることは反則。大義を持って戦う者のする事ではない。巻き添えを食った非戦闘員は敵を恨まず、その戦闘員を恨め。

 こうして、交戦各国が、ルールに基づいて、戦闘員・非戦闘員を明確に区切るのであれば、非人道攻撃は、明確に証拠を押さえることができるようになる。
 そこで、強烈な国際法を制定する。ターゲットは武器商人だ。P L法と同じように、彼らに生産者責任を負ってもらう。
 法「貴社が製造し、提供した武器が、非人道的な攻撃に使用された場合、貴社は、その被害者及び遺族に相応の補償を行うこととする。」
 戦犯兵士も悪いが、そんな気にさせた人を殺したくなる兵器も悪い。

 しかし、そんな法律が本当に制定できるだろうか?いや今の世の中じゃ難しい。
 前述の条件を満たし、非人道攻撃を証明できるようになれば、難しい話ではない。ただ現状では抵抗勢力が多すぎる。

 そこで、国連教育プログラムはフェーズ2:「世界平和」に入る。
 ここで、武器商人が、生産者責任を問われることは、それほどおかしな発想か?を問いかける。他にも、フェーズ2で盛り込みたい内容は有るが、フェーズ1の進み具合によっては、フェーズ2のテキスト案が、世界市場を揺るがすようになっているだろう。

 人間は考える葦である。しかし、その「考え」を決めるのは、結局、教育なのである。 

アンリ・マティス「ダンス」

 ニューヨークには、二つの有名な美術館がある。メトロポリタン美術館(通称MET)、ニューヨーク近代美術館(通称MoMA)である。METは、フェルメールから印象派。MoMAは、後期印象派からピカソといった具合に、パリのルーブルとオルセーのように時代が分かれている。
 どちらか一つにしか行けないのなら、METを選ぶのだが、この「ダンス」は、残念ながら、MoMAに有る。
 「いや、待て待て、この小学生のらくがきをなぜ観たいのか理解ができない。」となるでしょうね。
 
 92歳で没したピカソが晩年残した言葉「ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ」は有名だが、それは、全ての虚飾と野望を捨てた、無垢・無欲なものを指していたという。 

 色の魔術師と呼ばれたマティスの作品は、どれも挑戦的で、虚飾も野心も惜しげなく放出され、まるで「野獣に襲われている気分になる。」として、「フォービズム(野獣派)」と呼ばれた。
 ちなみにこの絵は、下書きで、エルミタージュ美術館(この美術館も超有名だが)に、清書版が有る。その絵と、この絵を比べた時、そこに加えられた、虚飾・野望が見え、その絵はもう「子供のような絵を描こうとしている“大人”」が垣間見えてくる。 
 だから、この絵は有名になったわけだ。

 しかし、この絵は小学生のらくがきのようだが、その4色だけで、人間は、自然から隔離されたものであるとこを表現できている。だから私は思う。天下万民が考える葦になる事は、それほど難しい事ではないと。

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