【歴史旅 九州編①】
サラリーマン生活のリタイアを機会に放送大学に入ってから約一ヶ月。
歴史の勉強とかが楽しくて何十年ぶりにノートを作ったりして勉強に勤しむ毎日です。
しかし勉強すれば現場を見たいというのは致し方の無いところ。ましてや歴史となればなおさらですよね。そこでゴールデンウィークが終わり観光客も少なくなった時季を選びフィールドスタディに出かけました。「書を捨てよ街に出よう」です!
(『書を捨てよう!』ってさっきノートとか言ってたやんかと言われそうですが、もう聴きたくない、聴きたくない(笑))」
フィールドスタディ第一弾は九州です。
田原坂古戦場
西南戦争は明治10年に西郷隆盛が明治政府に不満を持つ士族(薩摩士族が中心)を率いて起こした日本で最後の内戦であり、明治新政府が初めて経験した近代戦争です。
田原坂はその西南戦争の最大の激戦地でした。
西南戦争の経過を簡単に述べると維新の元勲であった西郷隆盛は政争に敗れ故郷鹿児島(薩摩)に下野。共に下野した薩摩士族達は西郷を担いで決起し反乱を起こします。薩摩以外の不平を持つ士族を含めて三万人に膨れ上がった反乱軍は薩摩から熊本城に攻め込みますがこれを落せず、熊本城の北にある田原坂で政府軍と激突、1ヶ月に及ぶ激戦の末、敗れた反乱軍は九州を転戦し、鹿児島城山で西郷隆盛が自刃して反乱は終息しました。
実際に田原坂を歩いてみると道の狭さに驚きます。反乱軍はこの坂に潜み政府軍を迎え撃ったのですが政府軍の心境になって歩くと、こんなところから敵が現れて撃たれたらもうアカンというよりサッサと逃げたいなと思いました、
坂の全長は1キロ位ですが登り切ったところに資料館があります。
資料館には歴史上貴重な資料もあったのですか嬉しいことに顔ハメやコスプレもあります。
私はこんなの大好きです。
熊本城
熊本城は言わずとしれた戦国大名、加藤清正の御城です。地元の人も加藤家の後永らく肥後を統治した細川家よりも上に見ているようで「清正公さん」と敬い、親しんでいます。
先日の熊本地震で天守閣を始め大きな被害を受けましたがゴールデンウィーク前に天守閣が公開されました。
熊本城は真っ先に反乱軍に城を囲まれてからも2ヶ月以上を耐え抜きました。戦国時代の城が近代軍隊の攻撃を耐え抜いたと言うことはそれだけ加藤清正の築城が優れていたと言えるでしょう。熊本城の美しさは天守閣もさることながら精緻かつ豪放な石垣にあります。
これは織豊時代の複雑な石垣組「虎口」と関ヶ原の戦い以降の大砲攻撃を意識した広い堀と石垣を組み合わせたパノラマ的な風景にあるのでしょう。
そしてこの組み合わせは反乱軍からの防衛にも抜群の効果を発揮したと思います。
集団と組織
この西南戦争での研究テーマは明治維新の中核戦力であり、日本最強と言われた薩摩士族が平民を中心とした政府軍に敗れてしまったのは、なぜかということでした。
薩摩の氏族は平民を中心とした政府軍を馬鹿にしていて自分達が決起すれば明治政府などは簡単に瓦解するだろうと思っていたわけです。実際に反乱軍は局地的な戦闘では圧倒的に強く彼らが日本刀を振るって切り込みをかけると政府軍は蜘蛛の子を散らすように逃げて行ったようです。
しかし彼らは組織的な意思決定や動きが出来ず、集団の理屈で勝手に退却してり攻め上がったりして大きな戦略的な敗北を重ねました。そして何よりも彼らはそもそも何のために戦うのか、目標は何なのかと言う今風で言うところのビジョンやミッションを統一出来ませんでした。
いわば彼らは強い集団ではあったけれども組織としては0点だったと言うことです。
一方で政府軍は個人的にも集団的にも決して勇猛果敢というわけではありませんでしたが統一された武器や命令体系の下、例え逃げたとしても戦線を崩壊させるようなことはせずあくまで上官の指示は最低限守っていました。
そして明治政府は国家の近代化と言う明確な方針を持ち、そのためにこの機会に不平を持つ士族を根絶やしにしたいと言うミッションを持って国の力を総動員したわけです。
私は西南戦争をして日本において組織の集団に対する優位を歴史的に証明下大きなエポックだと思ってます。
多分明治政府は近代的戦争と言うものが国家総動員のイベントであること。国民を組織化することこそが日本を近代国家にするためのメルクマールであると思い知ったと思います。
明治10年(1878年)に起こった西南戦争から今は150年経ちます。
世の中には「ガバナンス」とか「内部統制」とか組織化を意味する言葉が満ち溢れ、それを商売とする人までいるのですが現在の政府や組織は当時の明治政府を上回る方針やミッションを持っているでしょうか?