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藤井光「爆撃の記録」展

原爆の図丸木美術館で開催中の藤井光「爆撃の記録」展を見てきました。
東京大空襲と戦争記録の継承のために計画された「東京都平和記念館」は石原都政下の1999年に予算が凍結されました。その展示のために収集された5000点あまりの遺物は、今も都内の倉庫にしまわれたままです。東京空襲の生存者330名分の証言映像もそこに含まれています。

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今回の展覧会では、都への資料開示請求によって得られた証言者の氏名リスト(ほとんどが黒塗りとなっている)、一部の証言の概要、記念館の設計図や展示構想図などを展示しています。写真が入っていないフレームには、爆撃を受けた都内の地名だけがキャプションで添えられています。記念館の凍結という政治決定がもたらした〈展示の不在〉について考えさせられます。


私の目を引いたのは証言者が都に提出した同意書のフォーマットでした。ここには「東京都平和記念館(仮)」が行う撮影に同意すること、その映像は記念館が必要と判断する場合を除いては第三者に提供されることはないということが明記されていました。この同意書が根拠となって20数年間も貴重な証言映像がお蔵入りにされているようです。しかし解釈の仕様によっては第三者、すなわち「東京都平和記念館(仮)」の代替となるような施設や場所での展示に供することは可能なように読めます。同意書の宛名は事業主体である東京都生活文化局の局長名です。局長が必要と判断しさえすればお蔵入りは避けられたのではないか。
生き残った人たちが遺言のように語った証言映像を放置しつづけている本当の理由はなんなのか。政争の具となった記念館に関連するものにできるだけ蓋をしておきたいという事なかれ主義が深く横たわっているような気がしてきます。
資料開示請求によって得られた白々しいA4のコピー用紙が展示空間に並ぶことで、行政手続的な冷血さが際立ちます。証言者の氏名を黒塗りにするって、なんなのでしょう。


しかし一方、では、もし記念館が計画通りに創設されていたのなら、私はそこを訪れただろうか。そこに展示されたかもしれない映像からいかほどのものを受け取ることができたのだろうか、ということも考えてしまいます。見る者の責任にまでこの展示の批評は及ぶようです。存在したかもしれない記念館をめぐる断片の展示から、あり得たかもしれない私と記録物との関係を想像させる展示でした。


また、ひときわ私にとって大切だったのは、平成8年度に行われた証言映像の撮影に関する調査報告書の抜粋が展示されていたことです。そこには、撮影クルーが細心の注意を払って証言者に接したことが書かれていました。証言者を緊張させないように、監督・製作・撮影・録音の4名で、証言者のリラックスできる自宅などのプライベートな空間で撮影したこと。照明やピンマイクなど、証言者を萎縮させる機材の使用をできる限り避けたこと。レンズの寄り引きすら最小限にとどめたこと。撮影の前に事前に電話でのやり取りを重ねて関係性を築いたこと。話の筋を整理したり、情報の曖昧さなくすためその場で確認するなどの努力を監督が行ったこと。撮影は証言者の高齢に鑑みて最長3時間程度にとどめたこと。撮影を終えるとどの証言者もどっと疲れた様子だったことなど。この報告書からは、この証言映像が証言者と撮影者の共同作業によって編まれたことが伝わってきます。

報告書の執筆者は展示からはわかりませんでしたが、330人の証言映像の撮影を指揮した渋谷昶子監督によるものかもしれません。インタビューの名人だった渋谷さんの顔が浮かびました。(なお、証言撮影は東京都映画協会が受託し、βカムで収録したようです。)


藤井光「爆撃の記録」展は、原爆の図丸木美術館で6月13日(日)まで行われています。
https://marukigallery.jp/4261/

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