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悲劇のヒロインの「私」

女性は好きですよね。悲劇のヒロイン。
男性はヒロイズムが好きな傾向がありますが女性は悲劇のヒロインに浸るのが大好きです。
これは根深い複合的な観念によって支えられているので簡単には自覚できませんが考察してみましょう。

そもそも何故悲劇のヒロインを演じるかというと、逃避なのです。
まずは逃避したい状況(勿論それも自分で設定しています)があります。
立ち向かうのが困難だと感じる状況があるとしたら逃げたくなりますよね。
その時に「悲劇のヒロイン」という役どころを使うのです。
悲劇のヒロインは基本お姫様気質ですし、悲劇的な設定なので非常に思考がネガティブです。
つまり悲劇のヒロインは「非力なお姫様」という表現も出来ます。
非力であるが故に「白馬に乗った王子様」を心密かに待ち焦がれます。
この時前回の絶望している「私」の期待のループが回り始めます。
非力で自分で自分を救う力がないので(そう設定しているので)王子様に救って欲しい訳です。
しかもこの一連のことは無意識に処理されているためなかなか自覚できません。

それと同時になかなか「白馬に乗った王子様」が現れないことを悟ると、表面意識では頑張って現状打破を試みようとします。
しかし残念ながらそれも逃避になっていくのです。
何故なら、その現状打破というのは状況(勿論自分で設定しています)に立ち向かうのではなく、何かを試みることでひと時の自己満足という「餌」を得ながら実は巧妙に現実回避していくのです。
ここに重層構造こ根深さがあります。

思い出してください。
深く沈めた「悲劇のヒロイン」というDVD、でもスクリーン上の「私」は頑張って何とか現状を変えようともがいている。
いくらスクリーンを変えようとしてもDVDを入れっぱなしなら映像は変わらないですよね。

かくして「悲劇のヒロイン」によって隠ぺいされた非力な「私」は永遠に非力なまま温存されていく訳です。

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