「ぬかにくぎ」にはわけがある
「糠(ぬか)に釘(くぎ)」という慣用表現があります。
糠床に釘を刺しても全く手ごたえがありません
張り合いのないことや効果のないことを意味します。
同じような表現に「のれんに腕押し」があります。
どちらも小学校の国語で習う表現です。
ですから、小学生でも言葉の意味を知っていますが、
糠がどのようなものかは知らないと思います。
おそらく、現代のほとんどの小学生は実際に糠床を
見たことがないのではないでしょうか。
もちろん小学生ばかりではありません。
大人でさえ、見たことがないと思います。
かつて日本では、どこの家の台所にも糠床がありました。
たいていは流しの下に置かれました。
昔の日本の家屋は、夏の高温多湿をしのぐために、
風通しがよくなるように設計されていました。
糠床にとっては、流しの下が一番過ごしやすいのです。
冬の間は寒さに眠っている糠床も、夏には大活躍します。
キュウリでもダイコンでもナスでも美味しい糠漬けができます。
最近は、トマトやオクラやズッキーニの糠漬けもあります。
その代わり、毎日糠床を管理するのがたいへんです。
中までかき回して空気を入れなければなりません。
それを怠ると、表面にカビが生えてしまいます。
せっかくの糠床が台無しになります。
昔は、糠床を駄目にする嫁は離縁の口実になりました。
糠床を管理できなければ、嫁として失格でした。
昔のお嫁さんはたいへんだったのです。
それに比べて、うちの嫁は...。
一方、娘が嫁入りするときに実家の糠を持たせる習慣がありました。
嫁ぎ先の糠床に混ぜて新しい糠漬けの味を作るのです。
糠床は、半永久的に生き続けます。
野菜から出る水分を取り除き、炒り糠と塩を足せばよいのです。
糠床の微生物たちは、何億年も死に絶えることはありません。
糠漬けは美味しさも大事ですが、見た目も大事です。
美味しそうに漬けなければなりません。
とくにナスの鮮やかな紫色を保つのは大切なことですが、
じつは、ナスを色よく漬けるのはなかなか難しいことです。
ナスの濃い紫色は「ナスニン」という色素によるものです。
アントシアニン系の色素で、ポリフェノールの一種です。
明治生まれの化学者、黒田チカ氏が発見しました。
日本人女性として二人目の理学博士になった偉人です。
植物の色素について研究し、ナスニンを発見しました。
それにしても、ナスニンとは何と愛らしい名でしょうか。
ナスニンは水溶性の色素ですから、
水に溶けると色が抜けてしまいます。
高温の油でナスを揚げると色がよくなるのは、
ナスニンが流れ出ないからです。
では、糠漬けのときはどうすればよいのでしょうか。
ナスニンは、鉄イオンと反応して安定化する性質があります。
そのため糠床に鉄釘を入れておくと紫色を保つことができます。
「ぬかにくぎ」は、効果のないことではありません。
ナスの糠漬けにとっては意味のあることなのです。
黒豆を煮るときに鉄釘を入れるのも同じ理由です。
アントシアニン色素が鉄イオンと反応します。
つやつやとした黒豆に仕上がります。
しかし、料理に鉄釘を使うことに抵抗を感じる人もいます。
衛生的ではないと嫌がる人もいます。
そこで、今は調理用の鉄球が市販されています。
ナスの糠漬けにも黒豆にも使われています。
もしかしたら、近い将来「ぬかに鉄球」という慣用表現が
新しく生まれるかもしれません。
「鬼に金棒」と同じ意味で。
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