短編小説)ぐるぐるマフラー
「人って、一日に十分でも一人になる時間が必要だと思うわけよ」
実家の玄関に仁王立ちする妹の春香が、早口でまくしたててくる。
「だから、年末にお姉ちゃんが帰って来てるってお母さんから聞いて、わたしはもう五ヶ月も美容院に行ってなくて、四歳の男の子ってめちゃくちゃ元気で」
そう言うと春香は隣に立つ息子の公太の手を離し、ぐいっと前に押し出してきた。
「必要なものは、このリュックに入っているから」
青い小さなリュックサックを渡される。
「いいこと、公太。雪子おばちゃんと留守番しててね」
小さな首がこくんと頷く。
春香はそれを見届けると、勢いよく玄関から出て行った。
嵐が去ったあと、残されたのはわたしと年賀状の写真でしか成長を知らなかった甥の公太の二人。父は忘年会だと昼から出かけ、母はデパートにおせちといった正月の買い出しに行き留守だった。
公太が玄関にちょこんと腰かけ、器用に靴を脱ぎだした。
「一人で脱げるの?」
「うん」
リュックとおそろいの青い靴には電車の絵が描いてある。
「小さい靴だね」
公太の隣にしゃがんで、もう片方の靴を脱ぐ様子を眺める。
「おれの靴、父さんに買ってもらった」
こんなに小さいのに、『おれ』だって。
ぷぷぷと思いながらも、その横顔にどきりとする。
公太は、母である春香には似ていない。
「お父さんと仲良しなんだ」
「うん。父さんも小さいとき、トーマスが好きだったんだよ」
「そうなんだ」
トーマスって、汽車の名前だろうか。
わからない癖に相槌を打ち、靴を脱いで立ち上がった公太の手をとる。
公太の手は驚くほど小さいけど、骨はしっかりしていた。
「手袋はしないの?」
「うん」
「マフラーは?」
公太がツンと上を向く。
「あれは赤ちゃんがするもんだ」
「……そうなんだ」
わたしからしたら公太は限りなく赤ちゃんに近い存在だけれど、彼は彼なりの矜持があるらしい。
そもそも公太は薄着だ。なんなら、家の中にいたわたしの方が着こみ厚着である。
「あのさ。おじいちゃんもおばあちゃんもお出かけしているから、公太は雪子おばちゃんと二人なんだけど、いいかな」
「そっか。しかたないな」
公太がやれやれといった顔でわたしを見上げた。
なんだか、遊んであげるのは「おれ」だといわんばかりの返事だった。
妹の春香とわたしは三つ違いだ。
わたしは大学から地元を出て一人暮らしを始め、卒業すると就職もそこで決めて働きだした。
一方、春香は地元の短大を出ると、地元の会社に就職して、そこで知り合った矢崎直哉と彼の転勤による遠距離恋愛を挟み結婚した。
春香の夫となった直哉とわたしは、同じ小学校で同級生だった。
それだけでなく、中学生になってからはつき合いもした。
期間は短く、わずか一か月足らずだった。
別れた原因は直哉の引っ越しだ。
春香から結婚の話を聞き、相手が矢崎直哉だと知ったときは言葉に詰まった。
もちろん、わたしからは何も言ってはいない。
結婚式で直哉と顔を合わせると思い憂鬱だったわたしは、春香からの「式や披露宴はせずに入籍だけにする」との報告に救われる思いがした。
結婚後、すぐに公太が生まれ春香は忙しそうだった。
向こうから連絡がきたときは返したけれど、それ以外は距離を置いた。
お正月の帰省も、理由をつけては時期をずらし、春香とかち合わないようにしていた。
春香に会いたくなかった。
公太が生まれてからは、さらに。
その感情についても、深く考えたくなかった。
答えを見つけたくなかった。
曖昧なままで、放っておこうと思った。
――つい、この間までは。
和室に入った公太が、わたしが渡した青いリュックを開ける。
「トーマス」
公太が機関車のおもちゃを取り出す。
「パーシー。ヘンリー」
「いろんな名前があるんだね」
へぇ、と思い機関車を手に取ろうとすると、ダメダメと公太に叱られた。
「並べてんだから、触っちゃダメ」
そう言うと公太は、畳の上に汽車を横一列にずらりと並べた。
青や緑色の、長かったり短かったりする機関車がずらりと並びだす。
「客車。貨車」
次に公太はそう言うと、並べた機関車にそれらを付け出した。
公太はその並びがちょっとでもずれると直し、ずれると直しを繰り返しながら器用に並べる。
「並べるの上手ね」
「大きくなったら、汽車の運転手になるから」
運転手と並べるのがどう関係するのかわからないけど、ともかく感心しながらわたしは公太の姿を眺めていた。
三十分は過ぎただろうか。部屋の暖房のせいか、喉が渇いてきた。
「ねぇ、公太。何か飲む? お茶、ってことはないか、子どもだから牛乳?」
そう尋ねると、公太がぱっと振り向く。
「カルピス!」
「冷たいんでいいの?」
「あったかいの! あのね、母さんはね、あったかいカルピスを作るのがうまいんだよ」
「あったかいカルピスか」
公太のリクエストに応えるべく、わたしは彼を台所に連れて行った。
冷蔵庫を開けると、四角い紙パックのカルピスがあったのでそれを取り出す。
やかんに水を入れ火にかける。
公太が戸棚を開け、汽車の絵の付いた小さなカップを出した。
慣れてる。
そりゃ、そうか。
きっと、日頃からこの家に公太はよく来るのだ。
そこで、おや、と思う。
だったら、美容院くらい、公太を母に預け、行けるのでは?
公太は初対面のわたしとも遊べるくらいだから、母にも当然懐いているはずだ。
美容院に行ってないと春香は言うけれど、母が預かってくれないとか?
なんだか妙だなと考えていると、やかんがピーと音を立てだした。
「うっるさ~い!」
ガスの火を止め、騒ぐ公太を食堂のテーブルにつかせた。
ではではと、カップにカルピスを注ごうと――。
「ねぇ。どれくらい入れるんだっけ」
公太はわざとらしくガクリと肩を落とし、「おれがやる」と、自分でカップにカルピスを注ぎだした。
「ねぇ。少し多すぎない?」
公太はカップの三分の一、あの甘ったるい液を注いだ。
「だいじょうぶ」
いや、全然大丈夫じゃない量でしょうとは思うけど。
濃かったら濃かったで考えればいいやと思い、コンロのやかんを手にしてふと止まる。
子どもの飲み物に、熱湯を注いじゃダメなんじゃない?
ダメだ、ダメ。やけどをしてしまう。
だったら、これくらいの子って、どれくらいの熱さがいいんだろう。
少し冷ましてから入れるんだろうけど。
……それって、具体的にはどれくらい?
やかんを手にあれこれ考えながら、公太の言った「母さんはあったかいカルピスを作るのがうまいよ」の台詞が浮かんだ。
春香は公太のために、ちょうどいい温度のあったかいカルピスを作ることができるのだ。
それだけでなく、あの機関車の名前や、公太の将来の夢。
公太が一人で靴を履いたり脱いだりするのも、全部知っている。
わたしが春香と直哉の結婚にこだわっている間、彼女は直哉の妻としての、そして公太の母としての日々を重ねていたのだ。
「わぁ、甘い」
公太の声に、はっとする。
結局お湯は一度違うコップに入れて冷ましてから、公太のカップに注いだ。
「もう少しお湯入れる?」
「うん」
公太がカップを差し出してきたので、別のカップに半分移してから、お湯を注いだ。
公太がそっと口をつけ、甘さを確かめるように飲んだ。
「おいしくなった」
「よかった。やっぱり、公太のお母さんじゃないとうまく作れないね」
わたしの言葉に、公太がにこりと笑った。
そのあと、近くの公園に行った。
子どもは風の子って本当なんだなと思いつつ、公太が滑り台に向かい走る後ろ姿を追いかけた。
公太は滑り台がとても好きなようで「おばちゃん見て!」と言いながら何度も何度も上っては滑っていた。
同じことを繰り返し喜んでいる公太を見て、子どものパワーを感じた。
そして、春香は毎日こんな風に過ごしているんだなぁと思った。
ぴゅうと風が吹き、公太が首をすくめる。
「寒いでしょう、おばちゃんのマフラーを貸してあげるよ」
「寒くない」
「だったら、追いかけっこだ!」
少しでも体があたたまるようにと、公園の出口まで追いかけっこをしたあと、わたしと公太は家に向かった。
家の前には、春香がいた。
いつから立っていたのだろう。
春香はマフラーを口のところまでぐるりと巻いている。
そして、わたしたちを見つけると、笑顔で駆けてきた。
「おかえりなさい!」
春香はそう言うと、自分のマフラーを外し公太の首に巻き始めた。
家はすぐそこなのにマフラーを巻く春香と、ぐるぐる巻きにされながらもとても嬉しそうな顔の公太。
家の門から母が顔を出し公太を呼ぶと、彼は母へ向かって走り出した。
首元が寒そうな春香がわたしに並ぶ。
「お姉ちゃん。……会いたかったよ」
その春香の声に、いろんな思いを感じた。
なんでも言葉にして明らかにすればいいってわけじゃないってことを、春香もわたしも知っている。
言葉にすることで、相手も自分も傷つくことがあるって知っている。
わたしだって、こんな感情は変だと思っていた。
春香の結婚相手が直哉だとわかり、妙な怒りを感じた自分自身に。
とっくに終わった思い出の恋なのに、どうしてこんな気持ちになるのだろうかと。
実は、今だって自分の感情がうまく説明できないのだ。
ただ、今年の初めに春香からもらった年賀状を改めて見返し、大きくなった公太を見て。
ふと、妹と公太に会いたいなと思ったのだ。
そして、春香が公太を預けていなくなり、公太と一緒にカルピスを飲んで公園に行って。
二人の時間を過ごしたことで、春香と直哉の息子だった公太のポジションは、わたしの甥へと変わった。
公太とわたし、二人の関係ができてしまった。
そこには、わたしのぐちゃぐちゃの感情は関係がない。
そして、わたしのぐちゃぐちゃの感情も、公太と過ごしたことでほろほろとほどけ、今は凪いでいる。
「ねぇ、春香。美容院に行ったわりには、髪の長さが変わってないような?」
「え? そんなことないよ。ほら、ここらへんとか」
春香が声を裏返しながら前髪をつまむ。
「……ごめんね、春香」
前髪をつまんでいた春香の手が、だらんと下がる。
「もう、お姉ちゃんてば」
ずびずびと鼻をすすりながら、春香が鼻の頭を赤くした。
そんな春香がなんだか健気で。
「しかたないな」
わたしはマフラーを外すと、妹の首にぐるぐると巻いた。
(おしまい)
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