“THE LAST OF US PART II”における倫理と救済
*扉絵:コグニティブ・フォートトーク、ビジョンクリエーター生成
*この論考には“THE LAST OF US PART II”のネタバレが含まれる。
本稿では、結局“THE LAST OF US PART II”とは何だったのかという事を、思想的背景から解き明かして見ていきたい。なお、翻訳上の問題が存在するため、参照先は全て原文とする。
以下、本文。
まず、この物語の核となるアビーの物語を探る。アビーはアンダーソン博士の娘であり、元ファイアフライだ。ファイアフライはアンダーソン博士の仮説の元、免疫保持者を探し出す。その免疫保持者がエリーであり、検査の結果、博士の仮説は裏付けを得て治療法が現実味を帯びる。アメリカ全土に蔓延した奇病の治療法は崩壊しつつある文明の荒廃における希望であり、しかしジョエルがエリーを「救う」ことでアンダーソン博士が殺され、希望が失われる。悲劇に見舞われたファイアフライは瓦解し、アビーは復讐心を胸にソルトレイク組としてWLFに参加する。
WLFに参加したアビーは復讐心を糧に自らを律し、訓練を重ねて剛腕の戦士となる。彼女はスカーとの抗争の中で頭角を現し、“Isaac’s top Scar killer”としてWLF戦闘部隊の主力にまで上り詰める。そしてトミーの情報を得たアビーは、ソルトレイク組七人と共にジャクソンに辿り着き、劇的な遭遇を経てジョエルを殺す。復讐は完遂され、思う存分ジョエルをなぶり殺したアビーは、しかし悪夢から解放されるどころか悪夢が塗り重ねられる。
アビーの復讐は同行したソルトレイク組の一行にも大なり小なり影響を与る。メルはオーウェンと二週間も会っておらず、オーウェンとアビーは互いに避け合う状態で、メルとアビーは復讐以来殆ど会話を交わしていなかった。そしてノラは毎晩ジョエルの悲鳴にうなされる。
このように暗澹たる日々の中で、アビーに変化が訪れる。殲滅戦を計画するアイザックの命令に背いて、かつての恋人であるオーウェンにかけられたダニー殺しの嫌疑を確かめるため、アビーは一人で隠れ家の水族館へ向かう。規律と任務に忠実であったアビーがその行動原理を変え始める。そして水族館へ行く途中、アビーはスカーに襲撃され、吊されかかったところで敵対勢力の子どもたちに救われる。アビーは負傷した子どもを置き去りにして水族館に辿り着くが、その晩に見た悪夢の実現を避けるため、子どもたちを救おうと動き始める。
アビーは自分が何をしているのかと自問しつつ、しかし負傷したヤーラを救うために動き出している。そして命令に背いて脱走状態であるにもかかわらず、アビーはヤーラを救うために危険を冒してWLF支配下の病院に手術道具を取りに行く。病院に行く道中で何故助けるのかとレブに問われたアビーは“I just… needed to lighten the load a bit.”と言い淀む。この取り繕って言った感のある発言は、後に何故助けてくれるのかとヤーラに問われて“I needed to. I had to.”へと変遷し、島でアイザックと対峙する際の“I’m not fucking moving.”へと変容して確固たるものとなる。子どもは、日常に流される大人に対して問いかける存在である。敵対勢力のスカーである子どもたちを救うために動き出すアビーは、事後認識としての言語が組み変わってその行動を確かなものにしていく。
ヤーラの手術が終わり、アビーとオーウェンが交わす会話の中に極めて重要な言葉がある。
「光を探せ」“Look for the light”はファイアフライの標語であり、アンダーソン博士の教えだ。そしてこの「光」は、天から降り注ぐ「神の光」ではなく、心から差し出でるラルフ・ワルド・エマーソンが提唱する「内なる光」“The Gleam of Light”である。各々が光を放つ蛍(Firefly)のように、各人(Fireflies)が内に宿す光である。
この作品は無神論者のアビーが信仰を回復または見出す物語ではない。なぜなら「光」と言う言葉とは裏腹に、作品中の映像演出としての「光」は、極めて抑制されているか殆ど無いと言ってよい。ゆいいつ「光」の演出が成されていると言える場面が、真っ新な手術着姿のアンダーソン博士が現れる夢だ。長い廊下の先の手術室から漏れ出る「光」に誘われて、アビーは微笑む父の姿を見る。
この「内なる光」こそがこの物語の象徴であり、読み解く鍵である。アビーは指導者であり父でもあるアンダーソン博士の死により「光」を喪失する。それは治療法の喪失とファイアフライの崩壊をも意味する悲劇である。「光」を失ったアビーは復讐に囚われ、WLFに参加してスカーとの抗争に明け暮れる。そしてヤーラとレブに触れるまで、アビーは自分が「光」を探すことを止めていた事実に気付いていなかったのだ。「光」を失った悲劇と、そのことすら忘却する二重の悲劇の中で、子どもであるヤーラと、トランスジェンダーでもあるレブに命を救われたアビーは再び「光」を見出していく。
シアトル二日目以降に描かれるアビーの行動は規律や計算に拠るものでは無く、衝動として発露する。悪夢を実現させまいと動き出したアビーは、自らの行動に戸惑い、その行動を思うように言い表せないまま、衝動に駆られて行動を完遂する。当初は命の恩人である子どもたちを置き去りにしたことを“Guilt”とし、呵責を和らげようとするかのような発言をするが、言い淀む様は本心を言い当てていないことを示す。そしてヤーラを救ったことで、それまでのWLFでの生活を省み、アビーは自分の中にある「光=父」を見る。
この時点のアビーは変化の途上にいる。その変貌ぶりはメルがアビーに投げかける猜疑心として現れる。そしてメルはアビーに呪いをかけ、ヤーラはアビーを受け入れる。腕を失ったヤーラを助けるアビーは、何故自分たちを現在進行形で助けるのかとヤーラに問われ“I needed to. I had to.”と答えるのだが、この解釈に「自分のためでもある」という未来の利害計算が入り込む余地はない。
ヤーラに問われたアビーはレブにも同じ事を聞かれたと答えるが、そこで言及されたのはヤーラを救った過去の行動原理の説明に過ぎない。また、アビーの行動は「内なる光」に突き動かされているが、認識としての言語はWLFで生きてきた規律と従属の枠組みに囚われている。悪夢から解放されるためにはそうする必要があった、しなければならなかったと言う台詞は、この時点でのアビーの危うさを示している。
しかし島でアイザックと対峙する中、あれこれと理由を挙げて自分の行動を正当化しようと試みたアビーは、ついに“I’m not fucking moving.”と言って撃たれることを厭わず、言語としてもWLFの枠組みを手放してゆく。これは紛れもなくアビーの自己変容の過程である。そしてアビーはレブとの関係性を通してエリー一行の殲滅を思い留まり、復讐の連鎖からも抜け出していく。
アビーの行動原理はジョン・デューイが提唱する教育哲学を踏襲する極めてプラグマティズム的なものであり、アメリカを舞台としたアメリカの作品として相応しいものと言える。またアビーは非常に優秀な生存能力と柔軟な心の作動を果たし、周囲の人間が復讐と抗争の濁流に飲まれていく中、次々と境を越えてその激しい流れを泳ぎ切る。
この「柔軟なアビー」と好対照に描かれるのがエリーである。
エリーにとっての「光の喪失」とは何か。それは和解の第一歩を共に踏み出したジョエルを失ったことだ。エリーの物語は、ジャクソンで開かれたパーティーの後のジョエルとエリーの会話に集約される。二年前、病院での真相を欺いてきたジョエルに絶交を宣告したエリーは、久しぶりにジョエルとまともな会話をすることで和解の契機を得る。その正に翌日に、ジョエルは殺される。
「光」の再生と喪失がほとんど同時に引き起こった悲劇の中で、エリーは狂おしいほどまでに復讐に囚われて心を亡くしてゆく。感情の激しやすさ故に自分自身を制御出来ないエリーは何度も下手を打ち、状況を悪化させる。ノラをなぶって吐かせたことで一線を越えたエリーは、妊婦のメルを殺めるまでに至る。そしてアビーに敗れ、見逃されて生還したエリーはフラッシュバックに苛まれる。もはや「光の喪失」が何だったのかすら思い出せなくなっている。更に、軽率な発言が元で復讐と精神的疲弊とディーナとの生活との板挟みとなる。
精神的に不器用なエリーは長閑な生活の中で傷を癒やすことが出来ず、アビーを追ってサンタバーバラへと旅立つ。そして武装勢力に囚われた瀕死のアビーと対面したエリーは、自分の血に触れてジョエルの復讐に突き動かされ、戦わないと言うアビーに戦うことを強いる。そしてアビーの凄まじい抵抗に遭う。
エリーはジョエルのために、アビーに復讐を果たそうとする。しかしアビーがジョエルに復讐を果たした理由を、エリーは自分なりに理解してもいる。アビーは殺された誰か(父)のためにジョエルを殺したのだ。そうであってもエリーの復讐は止まらない。殺すと疲弊すると解っているにもかかわらず、やめたくてもやめられない極限状態において、エリーの中でアビーの復讐の端緒であり自分が生きている原因としての「許しがたいジョエル」に対する和解の第一歩が思い出される。この瞬間、多くを殺してまでエリーを救い出したジョエルの行動が、ジョエルのために多くを殺したエリーの行動と重なりあう。エリーはジョエルの行動を理解すると共に、その帰結として引き起こるアビーの行動を受け入れる。そしてそのアビーがエリーを二度も殺さずに見逃した相手である事実と共に、エリーはアビーを押さえつける手を離すに至る。
この一連の流れがエリーに引き起こる急激な自己超越である。血を流して消耗したエリーは、恐らく認知レベルが低下した状態だったと思われる。この朦朧とした意識状態の中で、血に触れて蘇った血まみれのジョエルの映像を皮切りに、エリーの中でこれまでの記憶が急速に再統合され、エリーの脳裏に悲劇の前夜に見た「光」が思い出される。
非常に優秀な生存能力と精神的不器用さを持つエリーは、発作に振り回される。ボールドウィンの屋敷の階段を降りて開かない扉を叩き続けるエリーの悪夢は、核心部分を閉ざしてしまっていることを示す。そこにアビーの情報がもたらされて引き寄せられていくエリーは、危険なショック療法的過程を経てジョエルと和解する。こうして「光」を再生したエリーは、アビーとレブを救うのだ。
この物語に登場する人物が示す心の動きには無理がない。浅はかな皮算用で企図する行動は破綻してゆき、成し遂げられるそれぞれの行動は成さざるを得ないように仕向けられている。そして復讐は凄惨を極め、復讐の連鎖を生み出して問題を悪化させる。そのような極限状態においても、内から湧き出る衝動に従って成し遂げられる救済が描き出されている。何が正しいのか不確かな混沌とした世界で生き抜く倫理が埋め込まれている。
参考文献
Ralph Waldo Emerson, Essays — First Series, Project Gutenberg eBook-No.2944, 2001
John Dewey, EXPERIENCE AND EDUCATION, Internet Archive, 2016
ジョン・デューイ『経験と教育』市村尚久訳, 講談社学術文庫, 2004年
齋藤直子『<内なる光>と教育―プラグマティズムの再構築』法政大学出版局, 2009年
11/22 一部語句修正。
12/9 “The Gleam of Light”(Emerson)追記。
12/15 「蛍」の下りを追記。
12/20 一部語句修正。
12/22 一部語句修正。
8/7 冒頭の関連稿に関する構成変更。
9/9 エマソンとデューイに関する言及を明示(追記)。
エリーに引き起こる急激な自己[訂正:変容→超越]。