【第71章・君臣の道】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)
第七十一章 君臣の道
冬の空が次第に明るくなる中、吉之助と竜之進は本所に向かって急いでいた。
「吉之助さんも無茶をするなぁ。御前様の最後のひと言、聞きました? もし津軽様を止めることが出来なければ、これ、ですよ」と言って、竜之進が右の拳を腹に当てて横に引く。
「仕方ないだろ。あそこで黙っているわけにも行くまい」
諫言役と言えば本来は間部だ。しかし、彼は御前様・近衛熙子を苦手としている。最初は気付かなかったが、付き合いが長くなるにつれ分かってきた。間部は綱豊の横に熙子がいると極端に言葉数が少なくなる。蛇に睨まれた蛙に近い。
「とにかく、津軽様が聞き分けのいい方であることを祈るのみだ」
「津軽様って、山鹿流もそうだけど、他でもどっかで聞いたなぁ」
「ほら、鶴御成のとき、鷹狩そっちのけで釣りをしていた殿様がいただろ」
「ああ、あの人か」
「しかし、こんなことになるなら、釣りの件を出羽守様に密告して、潰しておけばよかった」
「はっははは、ですね」
永代橋が見えてきた。赤穂の浪人たちはこの橋を通過したという話だが、途中、行き当たることはなかった。彼等は今、どの辺りだろうか。すると、竜之進がおもむろに言ってきた。
「ところで、あの本所亀沢町の坂東様の件ですがね」
「うん?」
「あれって、盗賊団ではなく、赤穂の浪人だったんじゃないでしょうか」
「何だと?」
「だって、あの辺りで二階があるのはあの屋敷だけでしょ。てっきり裏の金貸しを狙った盗賊の仕業だと思ったけど、逆を向けば、通りひとつ挟んで松坂町の吉良様のお屋敷も丸見えでしたよ」
「つまり、夜襲の事前偵察だったと?」
「あの時は思いもしませんでしたが、こうなってみると、そっちの方が説得力ありませんか」
「なるほどな、その通りだ」
「しかし、不味いなぁ」と、竜之進がそこで顔をしかめた。
「何が?」
「だって、私、一人斬ってますよ。あ奴、死んだかな?」
「はっはは。竜さんに斬られて今回の夜襲に参加できなかったとしたら、化けて出るかもな」
「ちょっと、冗談じゃありませんよ」
「なぁに、気に病む必要はない。あの時、我らは御前様の御用で動いていたんじゃないか。つまりは主命だ。武士として為すべきことを為した。恨まれる筋合いはないよ」
「ですよね。よかった」
橋の袂まできたところで吉之助が言う。
「さて、ここで別れよう。竜さんは、隅田川の西岸から両国橋経由で向かってくれ。すでに津軽勢が吉良屋敷を出ている場合、行き違ってしまったら大変なことになるからな」
「分かりました。では」
周辺の武家屋敷はどこもすでに門が開かれ、門番が立っている。警戒態勢を取りつつも慌てず騒がずという雰囲気だ。町人区画も静謐を保っている。夜が明けて間もない。通りに人が出て来るまではもう少し時を要する。
本所松坂町の吉良屋敷の少し前で奉行所の与力に誰何された。吉之助は腰に二本差しているのは勿論だが、青々と月代を剃り、羽織袴の姿である。堂々と名乗り主命遂行中である旨を告げて押し通った。
屋敷の前は無人、正門は開け放たれていた。中に入り、目隠しとなっている松の大木の脇を抜けると、玄関まで見通せた。その瞬間、すべての音が消えたように思えた。十四、五の遺体が地面に並べられている。どれも顔だけは血の汚れを拭き取ってあるが、服は斬られたままで血まみれだ。
討ち死にした吉良の家臣か。それにしても、こんなところに・・・。
その無神経さに不快感が込み上げる。しかし、すぐに己の浅はかさを恥じた。赤穂の浪人たちが狙ったのは前当主の首。戦闘は屋内でも行われ、いや、むしろ屋内こそ主戦場だったに違いない。どこもかしこも滅茶苦茶になっているのだろう。もし綺麗な部屋が残っていたとしても、負傷者の手当てが優先か。
並べられた死者たちに向かって合掌してから歩を進めた。が、最後の一人の顔に目が行った瞬間、再び足が止まった。
あっ、小林殿!
吉良家の若当主・左兵衛義周の絵画指導でこの屋敷を訪れた際、毎回出迎えてくれた家老の小林平八郎である。主君思いのさばけた人柄、好印象しかない。
左袈裟に斬り付けられたようだが、致命傷は恐らく右脇腹の。槍で突かれたか。浪人どもめ、容赦ない。家老まで討ち死にとは、さ、左兵衛様は? 左兵衛様はご無事であろうか。
同時におりんの顔が頭に浮かんだ。するとそこで、火事装束に近い軽武装の侍が二人近寄って来た。狼狽えるな。己の役目を思い出せ。吉之助は敢えて胸を張った。
「甲府藩士・狩野吉之助と申す。主君・松平中納言様の命によりまかり越した。津軽采女正様にお取次ぎ願いたい」
二人に付き添われて進む。玄関まで来ると、式台に床几を据え、天神髭の偉丈夫が腰を下ろしていた。甲冑こそ着けていないが、陣羽織をまとい手には皆朱の槍。吉之助をギロリと睨んだ両の目には、怒りの炎が見えた。
半時(一時間)後、吉之助は無事に浜屋敷に戻った。
綱豊は寝直しているとのこと。取り敢えず間部に報告し、その後は手分けして情報収集に奔走。夕刻、持ち寄った情報を皆で検討していると、御前様・近衛熙子から呼び出された。
吉之助が急ぎ例の東屋に行くと、熙子は背を向けて腰掛に座っていた。彼女の視線の先には赤く染まった江戸湾。空も半ばまだら雲に覆われ、赤く複雑なグラデーションが劇的である。そして、熙子がまとうのは檜扇と大小の菊をあしらった華麗な打掛。最高級の緞子が夕陽を浴びてキラキラと光り、後ろ姿だけでも神々しい。
石段を上がり、東屋の手前で片膝を付いて頭を下げた。
「狩野吉之助、お召しにより参上いたしました」
「待っていました。それで、津軽はすぐに納得したのですか」
そう言った熙子だが、顔は依然として海に向けている。
「はっ。最初はいたくお怒りのご様子でしたが、民を案じる殿のお言葉を伝えると聞き分けて下さいました」
舅を殺害された采女正の怒りは凄まじかったが、威圧感で言えば、目の前の鳳眼の女性の方が強烈だ。吉之助は冷静に弁じ、説得することが出来た。
「そうですか。狩野、此度はよく止めてくれました。わたくしも少し急ぎ過ぎたようです」
「姫様・・・」
熙子の脇に控える平松時子が悲し気な顔をした。彼女には主のあせる気持ちが痛いほど分かる。この時、京都の朝廷も荒れていた。東山天皇と霊元上皇が激しく対立し、しかもあろうことか、熙子の実父・近衛基煕がその対立を煽るような動きをしていたのだ。
熙子としては、一刻も早く綱豊を将軍職に就け、幕府を立て直すと共に、その力を背景に朝廷内の争いを収めたいと考えていた。
熙子は、時子の顔をチラリと見て言葉を続ける。
「焼けた家屋敷は建て直せばよい、か。思えば、わたくしは、政を正したいと言いながら、民の存在や民の暮らしというものを実感として分かっていないのです」
「御前様ほど高貴なお生まれであれば、無理からぬことと存じます」
吉之助は、熙子の傍に置かれている銅製の手炙りに目をやった。全面に華麗な唐草文様が施されている。さらにその中では、一片で庶民のひと月分の食費にも相当する最高級の備長炭が惜し気もなく焼かれていた。
「しかし、それでは困るのです。それでは、己の殻に閉じ籠り、現実を見ようとせぬ今の者と何ら変わらないではありませんか。わたくしが殿と作る新しい世は、新しい政は・・・」
「大きく異なると存じます」
「どこがですか」
「殿はあの様に、民の安全を第一とした判断をなさる仁者におわします。その殿を博識聡明な御前様がお支えになれば、必ずや、誰にとっても暮らしやすい世となりましょう」
「わたくしにそれが可能であろうか」
「無論のこと。恐れながら、御前様。この世に完璧な人間などおりません。誰にも欠点はございます。大事なのは、その欠点と向き合うこと。幸い、御前様におかれては、すでにご自身の足らざる点にお気付きであり、さらにそれを直視する勇気をお持ちです。であれば、足らざるところは他人を以て補えばよいのです。その為にこそ、我ら家臣がいるのですから」
熙子は、そこでようやく吉之助に顔を向けた。そして、小さくため息を吐いた。
「そうですね。狩野吉之助、これからも、思うことあらば遠慮なく申すがよい」
「承りました」
その時である。綱豊が近習一人を従え、御殿の方から小走りでやって来た。
「殿、どうされたのですか。そのようにお急ぎになって」
「お、お照、ああ、うん。おお、吉之助、無事であったか」
綱豊のそのひと言を聞いて、熙子が少し悪戯っぽい目になった。
「殿はもしや、わたくしがこの者を手討ちにするとでも?」
「い、いや、そうではない。そうではないが・・・」
「ふっふふふ、まあ、いいでしょう。殿、こちらにいらして下さい。共にこの美しい夕景を眺めましょう。狩野、用は済みました。下がってよい」
「はっ。では、これにて」
「お、おい、吉之助」
「殿、さ、お座り下さいませ。時子、ささを持て。温めてな」
御長屋に続く回廊まで来ると、竜之進が手を擦って寒さをしのぎながら待っていた。
「おっ、吉之助さん。無事でしたか」
「まあな」
「ちなみに、安藤様と鳴海様は、お手討ちの方に賭けてましたよ」
「間部様は?」
「間部様は、どっちかな? いつも通りの無表情ですよ」
「はっははは」
「ともかく、無事で何より。帰りましょうか」
「ああ。そう言えば、以前竜さんが言っていたことを思い出したよ」
「何でしたか」
「ほら、殿が将軍になったら、徳川の天下は御前様に乗っ取られるんじゃないかって」
「ありましたね」
「さっき確信した。必ずそうなる。しかし、それは悪いことじゃないと思う。あのお二人なら、きっと上手くやるさ」
「ですね」
「そうだ。新見典膳がいたよ」
「えっ、どこに?」
「本所松坂町。私が采女正様との会見を終えて帰るとき、入れ違いで川越藩の家老が来たんだが、その護衛の中にいた。凄い目で睨まれたぞ」
「やはり生きてたのか。出来れば今後は関わりたくないなぁ」
「まったくだ」
「それにしても疲れましたね」
「そうだな。しかし、問題はこれからだ。左兵衛様のこと、おりんに何と話したものか。頭が痛い」
赤穂藩元城代家老・大石良雄を頭とする四十七名の浪人は、高輪の泉岳寺で亡君の墓前に吉良上野介の首を供えた後、大方の予想に反して切腹しなかった。彼等は大目付・仙石伯耆守に自訴して出た。そして、伯耆守が派遣した徒目付に伴われ、増上寺の裏手、虎之門近くの伯耆守の屋敷に出頭。すでに夜の五つ(ほぼ午後八時)を過ぎていたと伝わる。
後世、様々な形で書かれ、語られ、また演じられるようになる激動の一日は、こうして終わった。
次章に続く