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【物語の現場061】大典侍局が気に入った古伊万里金襴手とは?

「狩野岑信」の第八十六章で、大典侍局の前に出された伊万里焼(古伊万里)の中皿。金襴手と呼ばれるものです。

 江戸時代、伊万里焼は肥前佐賀藩の重要な産品でした。16世紀前半から肥前有田で生産が始まったとされます。当初は白磁に青一色で素朴な文様を描くだけでしたが、次第に技術が向上し、色を付けることも可能に。そして、江戸中期、世界中で高い評価を受けていた中国の景徳鎮窯の焼き物を手本に、さらに完成度を高める形で作られたのが、金襴手でした。絵付けした後に金を焼き付けて文様を表す技法で、金糸の織物(金襴)のように華麗な表現が出来ることからその名で呼ばれたのです。本編にも書きましたが、有力な輸出品として長崎の出島からヨーロッパに輸出されていました。

 一方、伊万里焼(古伊万里)の中に、現在「鍋島」と呼ばれるものがあります。佐賀藩の御用窯で作られ、将軍への献上品や他の大名家への贈答品として使われました。
 それはひとつの例外もなく、形状、磁肌から絵付けまで、ため息が出るほど美しい。ただ、あまりに完璧すぎて、見ていて息が詰まる。個人的には、多少人間味を感じられる金襴手の方が好みです。

 写真中央は大典侍局が使っていた皿のモデルで、我が家にある唯一の金襴手。古伊万里の器は日常的に使っていますが、これは基本鑑賞用。使うのは元旦のみ。大晦日に飾り棚から出すときにはいまだに手が震える。

 古伊万里色絵金襴手三果唐草文輪花中皿
 (元禄~享保頃、口径19.3cm×高3.4cm×底径11.8cm、自己所蔵)

 写真の右上は、大典侍局が赤兵衛に投げ付けた白磁の猪口のモデルです。

 柿右衛門白磁小猪口
 (元禄頃、口径5.5cm×高4.0cm×底径2.3cm、自己所蔵)

 そして、写真左上の小窓は、泉山磁石場(佐賀県西松浦郡有田町泉山、2010.12.28撮影)。

 佐賀藩が管理していた陶石の採掘場です。有名な柴田夫妻コレクションを所蔵する佐賀県立九州陶磁文化館を訪れた後、JR上有田駅に移動して周辺を散策しましたが、最後に寄ったのがここでした。

 水墨画のような趣のある景色。しかし、重機などない江戸時代、全て手作業。佐渡金山同様、過酷な労働環境だったようです。また、技術の流出を防ぐため、陶工もほぼ監禁状態で働かされたと伝わります。
 取って付けたような締めになりますが、伊万里焼(古伊万里)の生産に携わっていた全ての人々に心から敬意を表します。