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【物語の現場055】大石内蔵助が妻子との別れ際に見た赤穂の海(写真)

 兵庫県赤穂市のほぼ中央を大きな川が流れています。千種川。JRの播州赤穂駅や赤穂城跡は川の西側に位置します。
 そして、東側のはずれが御崎というエリア。そこに国の名勝にも指定されている田淵氏庭園があります。実は赤穂へはその庭園を見るために行きました。年に二日だけしか一般公開されないため、なかなか機会に恵まれなかった。

 当日、ホテルのチェックアウトを済ませ、荷物を預けておいて路線バスで向かいました。そして、少し早めに着いたので周囲を散策。播磨灘を望む岬の上に神社が、伊和都比売神社。

 写真は参道からの眺望(兵庫県赤穂市御崎、2022.11.19撮影)。

 さて、写真の鳥居をくぐり、海側に坂を下って行くと「大石名残の松」という石碑が立っています(写真の小窓)。

 赤穂城を明け渡した後、大石良雄(内蔵助)はこの港から妻子を大坂表に送り出した、とのこと。前日に赤穂城跡や境内に大石邸の長屋門や庭園を含む大石神社なども見ましたが、大石ゆかりの場所としてはここが一番印象に残りました。

 大石はこの海をどんな気持ちで眺めたのでしょうか。

 ただ、私は大石という人間にあまりいい印象を持っていません。指揮官としての力量は凄い。一方で、何を考えているのか分からない、不気味な人物に思えて仕方ない。このことは、「狩野岑信」の第十八章で乙星太夫に代弁してもらっています。

 一番不思議に思うのは、浅野家が再興されていたらどうしていたか、ということ。

 大石は本当に用意周到な男です。彼は、討ち入りの準備と並行して浅野家再興の政治工作を行っていました。

 調べた範囲では、討ち入りの意図を悟らせないためのカモフラージュではなく、本気モードでやっていた。そして、一旦取り潰された大名家が再興されることは結構ありました。十分可能性のある話だったのです。

 しかし、再興されたとしても五万石そっくり戻るわけありません。大名復帰も難しい。過去の例から見て、数千石の旗本と言ったところでしょう。
 再雇用できる家臣はせいぜい四、五十名。新当主となる大学長広(内匠頭長矩の弟)は元々旗本でした。元からの家臣も放ってはおけない。そうなれば、旧赤穂藩士からは二、三十名でしょうか。

 つまり、討ち入りのために集まっていた連中でさえ、大半はあぶれてしまうわけです。

「めでたくお家再興が成りました。よって討ち入りは中止。はい、解散」

 そう言われて大人しく引き下がるでしょうか。亡君の仇を討とうなどという血の気の多い人たち。中には、「大学様など知らん。我らはあくまで内匠頭様の家臣であり、断固、上野介を討つ!」という者も出て来るはず。

 用意周到な大石がそのことを想定していないわけがない。恐らく彼は、再興後の浅野家の新体制についても腹案を持っていたでしょう。そして、自分の手元に誰と誰を残し、万一の際は誰をして誰を討たせるかまで考えていたような気がしてなりません。

 もし浅野家再興が成っていたら、赤穂事件の結末は、本懐を果たした四十七士の切腹ではなく、凄惨な同士討ちだったかも。

 いずれにせよ、大石という人は、状況設定は常に他人任せ。しかし、他人から与えられた状況の中で、淡々と最善手を打ち続けて行く。
 己を含め、全ての人間を盤上の駒としか見ていない。その上で、討ち入り、お家再興、それぞれが成功した場合、失敗した場合、ありとあらゆる可能性を考え、考えるだけでなく準備をしていた。もしかしたら、もっと物騒な選択肢も・・・。

 同じ切れ者でも、柳沢や間部とは根本的に違う種類の人間のように思います。今流に言うなら、百戦錬磨の戦国武将が太平の世に転生したような、そんな異質感を持ってしまうのです。