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【物語の現場033】厳四郎と嵐子の故郷・柳生の里(写真)

「狩野岑信」の第三十七章で、新見典膳の助っ人が登場します。新陰流の剣士・青柳厳四郎(本名・柳生厳四郎)とその自称家来・水分嵐子です。

 写真は、二人が生まれ育った柳生の里(奈良県奈良市柳生町、2022.11.8撮影)。

 柳生藩に城はなく、写真右側の小山の上に陣屋がありました。現在は遺構のみ(左下の小窓)。

 ところで、柳生家は、高名な石舟斎の次男・宗矩が関ヶ原の少し前から徳川家に仕え、三代家光の下で大出世。一万二千石余りを得て念願の大名に。ところが、宗矩の死後、領地が子供たちによって分割相続されたため、大名の地位を失ってしまいます。
 幕府の大目付は旗本でも就ける役職なので大名に固執する必要もないと思いますが、この物語の時代には、本家とされる家が不足分の加増を受け、一万石ギリギリですが大名に戻っていました。

 訪れたのは秋。奈良市の中心部から柳生へのバスは2時間に一本程度。奈良国立博物館の正倉院展を見ながら時間調整。私は通常正倉院展に行ったときは、博物館を出た後、東大寺境内を散策し、最終的に正倉院の建物まで行くようにしています。ただ、この日は午後の山歩きに備えて休憩。

 県庁前からバスに乗り約40分。実際行ってみると、思っていた以上に山奥。しかし、とても静かで自然豊か。雰囲気のあるいい場所です。

 ちなみに、時代劇などに柳生忍者というのが出てきますが、個人的には、柳生の里にいたのは皆剣士であったという認識です。

 小さな領地ですから、人的資源としても経済力からも、剣士コースと忍者コースを分けて養成していたとは思えない。ただ、この山中で鍛えられれば、自ずと超人的な身体能力を持つ者も出たでしょう。その中で、特に嵐子のような身分の低い者には、適性に応じて一部忍者的な仕事もさせていた、というイメージです。

 従って、この後ちょっと、いや、かなり破天荒な言動を見せることになる嵐子ですが、忍者ではなく、あくまで新陰流の剣士なのです。


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