【第81章・義士の手紙】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)
第八十一章 義士の手紙
古利根川沿いに北上する日光街道、杉戸宿手前の茶店でのこと。二人の旅人が縁台に腰を下ろして見惚れているのは、うららかな春の景色ではなく、店前で客引きに精を出している看板娘。すると、店主が注文した茶と菓子のセットを運んで来た。
「お待たせしました」
「おお、ありがとよ。ところで、この元禄饅頭、どうすんだ? 名前を変えるのか」
「何のことです?」
「知らないのか。昨日で元禄は終わったぞ」
「えっ、元禄が終わって何になったんで?」
「ほう、何だったかな。ほう、ほう、ほう」
すると、もう一人が湯呑を取り上げながら言った。
「ほうえい、だよ」
「字は? どう書くんだ?」
「知るか」
新元号の宝永は、中国五代十国時代の晋(後晋)で編まれた歴史書「唐書(旧唐書)」を出典とする。実は前回の改元時にも朝廷側が挙げた候補の中にあったのだが、幕府が拒否したという経緯がある。
それはともかく、看板娘の威勢のいい声も耳に入らぬが如く、一人の侍が足早に茶店の前を通り過ぎて行った。その腰には三日月のように反りの深い大刀。新見典膳である。
彼は日光街道の幸手宿を目指していた。長身でがっしりした体格、物騒な雰囲気はそのまま。身なりも悪くない。ただ、かつては綺麗に剃り上げていた月代が伸び、総髪になっている。
彼は川越藩を出奔した後、正直、目標を見失った。
甲府藩とその藩主家に対する遺恨は消えてない。しかし、赤穂の浪人たちが吉良の隠居の首を欲したレベルで、現藩主・松平綱豊の首を取りたいかと問われれば、そこまでの執着はない気もする。
取り敢えず、己の剣を磨き直す、という分かりやすい理由を設定し、剣聖・塚原卜伝を輩出した鹿島の地を目指した。そして、かの地でしばらく修行に励んだ後、常陸(茨城県)から安房(千葉県南部)にかけて周遊していたところで大地震に遭った。
身を寄せていた網元も被災。成り行き上、漁村の復興を手伝うことになり、江戸に文を書いた。共に甲斐に潜入した川越藩の元の仲間に宛て、典膳が長屋に置き捨てにした金子が今も保管されているなら送って欲しい、と。
返事として小包が届いた。彼が残した二十両ほど入った紙入れの他、切り餅(小判二十五枚の紙包み)が二つ同梱されていた。川越藩の江戸家老から託された慰労金だという。
青山の奴、穴山様に報告したのか。
少々バツが悪いが、今となってはありがたい。そう思いつつ、荷物の中をよく見ると書状が二通あった。一通はむき身。もう一通は綺麗に懐紙に包まれている。ただし、封は切られていた。
まずむき身の書状に目を通す。驚いた。すなわち、懐紙に包まれたもう一通は、先日切腹して果てた赤穂浪人・不破和右衛門から典膳に宛てた手紙だ、とのことだ。
不破? 知らんな。なぜ俺に?
封が切られているのは、不破が預けられていた松山藩の目付が中を改めているからで、書状を届けられた川越藩でも穴山が文面を確認済みだそうだ。とにかく、急いで不破の手紙を開いてみた。
そうか。米原の禅寺で手合わせしたあの槍遣いか。何年前だ? 恐らく名乗り合ったとは思うが、よく覚えていたものだ。
赤穂浪人が切腹する数日前、穴山家老が主君の柳沢出羽守に代わって浪人たちが預けられている大名屋敷を視察した。典膳は警護のため同行していた。その視察場所のひとつ、伊予松山藩松平家の中屋敷に不破数右衛門はいたようだ。
広間での面談の際、不破は、穴山の斜め後ろで控える典膳に気付いた。文中に、思わぬ再会に驚くと同時に、御仏の引き合わせに違いないと感じた、とある。さらに、誠に不躾ながら、と前置いた上で、典膳にひとつの頼みごとをしていた。
すなわち、不破が浪人中、一時夫婦同然に暮らしていた女がいる。その女に最後の手紙を届けて欲しい。主君・内匠頭の不興を買って浪人した経緯もあり、親族や旧赤穂藩関係者には頼みにくい、とのことだ。
たった一度、刃を交えただけの間柄。そんな面倒を引き受ける義理もないのだが、典膳は行くことにした。当座の旅費と生活費として元々自分のものであった二十両は手元に残したが、穴山から贈られた五十両は世話になった網元に渡して旅立った。
目指すは、日光街道幸手宿。
女の名はお紋。不破の説明では、彼女は腕のいい髪結いで、宿場の表通りに店を構えている。経済的に自立した女性で、浪人時代の不破はむしろ彼女に食わせてもらっていた。そのため、金銭を贈る必要性を感じなかったのだろう。典膳が託されたのは手紙だけであった。
しかし、状況は大きく変わっていた。
手紙に記された場所に彼女の店はなく、ようやく探し当てたその住まいは、宿場の端のさびれた裏長屋であった。
戸を開ければ一瞬で奥まで丸見え。日当たりだけはいいせいで、粗末な暮らしが余計にはっきり見えた。一人の女が四畳半の板の間に薄っぺらい布団を敷き、横になっている。
「お紋とはそなたのことか」
女が静かに頷く。顔色が悪い。ただ、商売柄か、髪型は乱れていない。
典膳は用向きを伝え、土間に立ったまま手を伸ばして不破の手紙を彼女に渡した。彼女は布団の上に正座しようとしたが、急に咳き込んだ。しばらく苦しそうにしていたが、落ち着くと、手を合わせて感謝の意を示した。その肩は、悲しいほど細かった。
「随分と具合が悪いようだな。俺宛の書状によれば、不破には父親と弟がいるらしい。不破が一番苦しいときに支えたのはそなたであろう。遠慮することはない。その連中を頼ってはどうだ?」
「とんでもない。あたしみたない女がしゃしゃり出ては、あの人の名前に瑕がつく。だって、旦那。あの人はね、天下の赤穂義士・不破数右衛門なんですよ。総大将・大石内蔵助様のご嫡子・主税様と共に吉良屋敷の裏門から攻め込んで、誰よりも勇敢に戦った人なんです」
「・・・」
場所柄もわきまえず抜刀し、無抵抗の老人一人討ち取ることも出来ず、挙句、身は切腹、家は断絶。そんな愚かな主君のためでも、仇討ちとなれば正義なのか。正直、そこまで共感できん。
お紋は典膳の思いなど構いもせず、言葉を続けた。
「あの人の名は、百年先まで残る。いぃや、この日の本の国が続く限り、武士の鑑として残るんです。嬉しいじゃありませんか。大抵の人間は、自分が何のために生まれてきたのか知らずに死んで行くでしょ。でも、あたしは違う。あたしは、役割を果たしたんです」
「役割?」
「そうですよ。仏様があたしに下さった役割は、あの人を助けること。あたしはそれを果たした。それで十分、十分なんです」
「そうか」
お紋が不破の手紙を開いた。細長い糸のようなものが数本、彼女の膝の上に落ちた。彼女はその一本一本を注意深く摘まみ上げ、手紙と共に大事そうに抱き締めた。典膳はくるりと踵を返すと、お紋のむせび泣きを背中で聞きながら外に出た。
幸手宿は、将軍の日光社参のルート上でもあることから幕府の直轄地とされていた。江戸から十二里(約四十八キロメートル)、利根川水系の要衝でもある。従って、江戸期を通じて大いに盛んであった。
典膳は宿場内の剣術道場にしばらく逗留していたが、何となく気になり、もう一度お紋を訪ねてみた。すると、彼女の家の前に忌中の札が掛かっているではないか。見れば、土間で数人の男女が顔を寄せ合って何やら相談している。
「何かあったのか」
「あっ、旦那。えっと確か、何日か前にいらしていた・・・」
「そうだ」
「お紋さんねぇ、気の毒に、首くくっちまったんですよ」
「何だと?!」
「どこで聞きつけたのか。旦那の来た次の日、岡田屋の連中が来ましてね。旦那が金を渡しに来たんだと思ったんでしょう。踏み込んで家探しして。金はなかったみたいだけど、いい物を見つけたって騒いでたよ。お紋さんは、それだけは勘弁してくれって、泣いてたなぁ」
「それで?」
咎めるような典膳の視線に皆がたじろぐ。
「む、無理ですよ。あっしらじゃ、あ奴らには敵わねぇ。その・・・」
「それで、それでどうなったんだ? さっさと言え!」
「へい。連中が帰った後、様子を見て、気を落とすんじゃないよって。その時は、平気ですって言ってたんだ。でも、今朝、うちのかみさんが髪結いを頼もうと声を掛けたら、返事がなくて、それで中をのぞいたら・・・」
「そうか。で、その岡田屋ってのは何者だ?」
「高利貸しでさ。お紋さんは昔は表通りで髪結い屋を営んでいたんだ。ご存知でしょ?」
「ああ」
「お紋さんの店、流行っていたんですよ。それがさ、先日の地震で。この辺りでは家が潰れたりは無かったんだけど、宿場の何ヶ所かで火が出てね。それで、お紋さんの店も。しかもその時、灰を吸い込んで体を壊してしまったんですよ」
「そこに金貸しは関係ないと思うが?」
「ああ、それね。焼けた店、ちょうど改装したばかりだったんでさ。その時に借りた金の証文が運悪く岡田屋の手に渡っちまったんですよ」
赤穂浪士は今や天下の英雄。高利貸しの取り立て屋は不破数右衛門の手紙に気付いた。浪士の中でも不和は勇者として著名で、実際、目覚ましい働きをしている。その男が切腹間際に女に宛てて書いた自筆の手紙。不破の実家に持ち込めば大金になるとでも踏んだのだろう。
不破の親族がいくら強請り取られようが、それこそ知ったことではない。しかし、そうなれば、お紋が不破の手紙を売り渡したと思われるに違いない。それだけは許せん。場所を聞き、典膳は岡田屋に向かった。
「二度は言わぬ。死にたくなければ、不破の手紙を返してもらおう」
「ふざけ・・・」
典膳が長屋に戻ると、すでに棺桶が用意されていた。お紋の体を持ち上げ、体育座りのような格好で棺桶に入れる。痩せ細ったその体は、子犬のように軽い。両手を胸の前で組み、その上に取り戻した不破の手紙を載せてやった。手紙は血まみれ、髪の毛は散逸してしまったが。
長屋の連中の話では、宿場はずれに身寄りのない貧乏人や行き倒れなどのための共同墓地があり、荼毘にふした後、そこに埋葬するという。典膳は長屋の差配人に押し付けるように五両渡すと、後は振り返りもせず去って行った。
「人の役割か。仏がわざわざ一人一人にそれを割り振っているとも思えんが、もしあるとするなら、俺の役割とは何であろうか」
夕暮れ迫る日光街道幸手宿。新見典膳は群がる宿屋の客引きを袖にして街道に出た。どうにも胸がざわつき、夜通し歩くしかないと思ったのだ。
さて、彼は何処に向かうのであろうか。ともかく、好むと好まざると、彼の行くところ必ず血の雨が降る。この物騒な男が、己の真の役割を自覚するには、もう少しの時間とちょっとした出会いが必要であった。
次章に続く