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【第69章・討ち入り】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

第六十九章  討ち入り

「しまった。寝過ごしたか!」

 狩野吉之助は妻の志乃に肩をゆすられて跳び起きた。命懸けの一戦を前にさすがに寝付きが悪く、その分熟睡していた。慌てるのも無理はない。しかし、外はまだ暗い。冬の早朝七つ(ほぼ午前四時)である。

「ふう、驚いたぞ。何事だ?」
「島田様が、竜之進様が戸口にいらしています。火急の用件だと」
「竜さんが?」

 吉之助が寝巻のまま土間に出ると、竜之進が立っていた。寒さしのぎに長合羽を羽織っているが、彼も寝巻のままだ。ひどく慌てた様子である。

「おお、吉之助さん。大変だ。大変なことが起きた!」
「川越藩に何か動きが? 或いは火事か」
「いや、どちらも違う。押し入った。赤穂の浪人どもが、本所松坂町吉良様のお屋敷に押し入ったんですよ!」
「何だと、屋敷に直接か。いつ?」
「今です。今、正に戦っている」

 気付くと、おりんが背後に来ていた。冷えないように志乃がおりんの背中を優しくさすっている。吉之助は、先日おりんと交わした会話を思い出して歯噛みした。

「先生。赤穂の浪人が吉良様のお屋敷を襲うって本当?」
「馬鹿な。誰が言ったんだ?」
「誰でもなけいけど、一昨日左兵衛様のところに行ったとき、ちょっと裏手に回ったら、何人も浪人がいて。女中さんに尋ねたらさ、ご隠居様の護衛なんだって」

「ほう。しかし、屋敷が襲われるなんてことはないと思うぞ」
「どうして?」
「いいか。大名でも旗本でも、武家屋敷ってのは、ただ住んでるわけじゃない。公方様からお預かりして、その場所を守っているんだ。つまり、屋敷のひとつひとつがお城の出丸みたいなものだ。そこを攻撃してみろ。ご公儀に戦を仕掛けるのも同然。当人たちは勿論、親類縁者まで、謀反人として打ち首だよ。そんな馬鹿なことをする奴がいるものか」

「ほんと? じゃあ、あの浪人たちは?」
「家老の小林殿の話では、上野介様は、近々米沢に移られるそうだ。その道中の護衛だろう。赤穂の連中が狙うとすれば、その道中に決まっている」
「あの勝沼宿のときみたいに?」
「その通り」
「じゃあ、江戸に残る左兵衛様は大丈夫だよね? 安全だよね?」
「うむ。安心していいと思うぞ」

 不用意な言葉だった。しかし、後の祭りである。見れば、おりんが睨んでいる。その目には野性の怒りが見えた。そうだ。この子は、本来こういう子だ。

「左兵衛様を助けなきゃ。あ、あたし、行ってくる!」
「馬鹿を言うな! 殺し合いの最中だぞ。それに、左兵衛様だって立派な武士だ。むざむざやられはしない。志乃、私は竜さんと間部様のところに行かねばならぬ。おりんを絶対に家から出すな、いいな!」
「はい!」
 志乃は力強く応じ、両手でぎゅっとおりんの肩を抱き締めた。

 吉之助と竜之進が間部の御用部屋に駆け付けると、間部はいつもの裃姿で端然と座り、部下たちに次々指示を出しているところであった。

「間部様。まだ夜も明けぬのに、第一報はどこから?」
「北町奉行所です。日頃の根回しが功を奏しました」
「その後は? 我らも本所に行って見て参りましょうか」
「いや。すでに不寝番の者を走らせました。さらに私の配下を行かせます。すぐに殿もお出ましになるでしょう。お二人はここに居て下さい」
「承知しました。あっ、別働隊のご家老には?」
「内藤家下屋敷にも伝令を出しました。とりあえず、安藤様だけ至急戻るようにと」

 赤穂藩元城代家老・大石良雄を頭とする四十七名の浪人が、本所松坂町の吉良邸に討ち入ったのは、元禄十五年(一七〇二年)十二月十四日未明(現代の時刻表記では十五日の午前三時頃)であった。吉之助たちは、約半時(一時間)の差でこの事態に対応している。

 御成書院の上段之間に綱豊が出てきた。白い寝巻の上から防寒用の綿入れを羽織っただけの格好だ。近習が急いで手炙りに火を入れる。
 この時の綱豊、驚いたというより呆れた顔をしていた。
「ご府内の旗本屋敷に徒党を組んで押し込むとは、正気なのか。主が主なら、家臣も家臣だ」

「殿、落ち着いて下さい」
「分かっている。それで、押し込みの人数は?」
「最初の知らせでは、約五十名とのこと」
「ご、五十、だと。せいぜい十人ほどかと思ったが、大層な数ではないか。き、吉良は、吉良は大丈夫なのか」
 吉之助もその人数を聞いて息を飲んだ。それは最早個人レベルの凶行とは言えない。完全に部隊規模の軍事作戦である。

 その時、背後からドタドタと廊下を駆ける大きな足音が聞こえてきた。
「ご注進! 御用人様!」
「構わぬ。殿に直接報告せよ」
「はっ、申し上げます。先程、吉良屋敷に押し入った赤穂の浪人ども、吉良上野介様を討ち取った由にございます!」

 本所松坂町に到着した浪人部隊は、表門と裏門の二手に分かれて屋敷内に突入。火花散る激闘の末、遂に彼等が主君の仇と見做す吉良上野介を討ち果たした。

「馬鹿な。あり得ん。そ、そなた、その目で確認したのか」と綱豊。
「はっ。討ち取る現場を見たわけではございませんが、彼等はすでに吉良屋敷を出発。三列縦隊で行進中。そして、その先頭を行く者が持つ十文字の槍先には、上野介様と思われる御方の御首が・・・」

 その凄惨な光景を想像し、皆が絶句する。そこで、上段之間の横の襖がすっと開き、しっかり身なりを整えた綱豊の正室・近衛熙子が現れた。

「お、お照。た、大変なことに・・・」
「存じております。されど殿、よかったではありませんか」

「よかった?」
「はい。これで六義園視察はお流れに。殿が将軍職を手中にする好機とも思いましたが、やはり殿の御身を危険に晒すかと思うと、わたくし、怖くて怖くて・・・」
 熙子はそう言うと、左手を横の綱豊の膝に伸ばした。綱豊がその白玉のような手の甲に自らの手を重ねる。
「お照、そなた・・・」

 吉之助を含む家臣たちが、手を取り見つめ合う主君夫妻の様子を唖然と眺めていると、ふいに熙子が横を向いた。そして、両の鳳眼を輝かせて問う。
「それで、赤穂の浪人はどこに向かっているのですか」

「はっ。吉良屋敷を出て北へ。両国橋に向っていると思われます」
「地図を持て」
 吉之助と竜之進が夫妻の前に地図を広げると、すぐに熙子が覗き込む。すると、次の伝令が駆け込んで来た。

「ご注進! 浪人の一団、南に向かって動き始めました」
「なに? 先程は北と言ったではないか。北か南か、どっちじゃ?」と綱豊。珍しく苛立っている。

「はっ。両国橋手前の回向院にて境内通過を断られた由。橋の通過を諦め、南に転じ、隅田川沿いに進んでおります」
「そういうことか。それで、連中はどこを目指しているのだ?」
「殿。以前、亜久里が話していましたわ。浅野家の菩提寺が高輪にあると。何と言ったかしら?」

「御前様。それなれば、萬松山泉岳寺でございましょう」

 すかさず答えた吉之助。つい熙子と目が合った。慌てて頭を下げる。気のせいか、彼女の鳳眼にかつてない程の不穏な光が宿っているように思えた。

次章に続く

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