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【第63章・同じ空の下で】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

第六十三章  同じ空の下で

 元禄十四年(一七〇一年)三月十七日、殿中松之大廊下での刃傷からわずか三日、赤穂藩の江戸上屋敷が幕府に接収された。赤穂藩の国元にようやく事件の第一報が届いたのはその二日後のことであった。

 さらに五日。夜明け間近、駒込の川越藩下屋敷では江戸家老・穴山重蔵が自身の執務室で一睡もせずに方々からの報告書に目を通していた。
「ご家老。新見典膳、ただいま戻りました」
「おお、入れ。で、どうであった?」
「滞りなく。警備も隙だらけで、何の問題もありません」
「あそこは、主人も家臣も、大名としての自覚が足りんのだ。いや、済まなかったな。下らん仕事をさせた」
「いえ。しかし、よろしいのですか。将軍生母の弟を。しかもご府内で」

「それを言うな。あの好色爺、取り返しのつかないことをした。浅野と吉良の刃傷事件の裏に、浅野の奥方に懸想した桂昌院様の弟がいたなどと世間に知れてみろ、どうなる? 挙句、騒ぎが大きくなったことに怯え、こちらに泣き付いてきた。下手に関われば、我が殿まで巻き添えを食う。まったく、そなたの言った通り、さっさと殺しておけばよかった」

 典膳にはどうでもいいことだ。
「ところで、甲府藩のことはどうなりましょうか」
「しばし待て。今は刃傷の後始末でそれどころではない。まずは政を元の軌道に戻し、大名どもをなだめねばならん」

 江戸幕府は武士の政権である。初代家康が馬上天下を斬り従え、幕府を開いた。古今東西、軍事に関しては独裁の方が強い。明確な企図とそれを実行するための絶対的な指揮権がなければ戦には勝てない。
 草創期、幕府は一国の統治機構というよりは徳川軍団であり、完全に将軍による独裁体制であった。

 しかし、世が治まると、幕府が扱う政治課題は多様化し、利害調整も複雑化する。とても将軍一人ではさばき切れない。組織による統治が求められて行く。これが所謂、武断政治から文治政治への流れであった。

 文治の肝は、予見可能性と言っていい。

 これをすればこうなる、どこを押せばどう動く、ということが万民に分かるということだ。そのためには、幕府内における意思決定のプロセス、意思決定の材料(法令や先例)が明確でなければならない。

 柳沢出羽守はこの十年、君側の奸、虎の威を借る狐、さらには因循姑息な根回し居士、金権腐敗の元凶などと揶揄されながら、幕府に文治の手法を根付かせるべく努力してきた。
 それは一に彼の主君・将軍綱吉がそう望んでいたからである。ところが今回、幕府内の手続きを無視し、将軍の鶴の一声によって大名を切腹させてしまった。綱吉自身による盛大なちゃぶ台返しであった。

 これには、切腹を命じられた浅野内匠頭以上に柳沢が驚いた。そして、大名諸侯も震え上がったのである。

「このままでは、殿のこれまでの苦労が水泡に帰してしまう。事後的でもよい。浅野の切腹が幕府の正式な裁きの結果であるという体裁を整えなければならない」
「はあ」
 気のない返事をした典膳をジロリと睨み、穴山はため息を吐いた。
「まあ、よい。甲府中納言のこともいずれは処置する。それまで英気を養っておけ。大庭園も完成間近だ。作庭の手伝いでもしていてくれ」
「承知しました」

 それから半月ほど経った日の昼過ぎ、京橋の料亭・手嶌屋の奥座敷、大奥筆頭中臈・大典侍と笠間藩の新藩主・本庄資俊が密会していた。
 二人の前には京料理の豪華な膳。中庭に植えられた桜の木が七分咲きで美しい。その枝と枝の間、二羽のメジロが遊び戯れている。大典侍はその様子を眺めながら、資俊にしなだれかかった。

「若殿、いえ、笠間の新藩主様。しっかり抱いて下さいませ」
「ああ、愛しい人よ。私もようやく藩主となれた。しかし、父上のあの惨たらしい死に様を思い出すと・・・」

「ご心痛、お察しいたします。因幡守様は随分と気儘に遊んでおられましたから、何かと恨みを買っていたのでしょう。されど、あなた様は違いますわ。桂昌院様も仰せです。これからはあなた様が頼りだと」

「そうか。桂昌院様のためにもしっかりせねばな。本来、桂昌院様の血縁である我が本庄家こそ、上様をお支えするため、粉骨砕身せねばならぬのだ。父上は政に無関心であったが、私は違う。この後は柳沢如きの好きにはさせぬ」

「何と頼もしい。近々、正式に御側用人に就くことになりましょう。さらに従四位下豊後守にご昇進・・・」
「ま、誠に?!」
「はい。昨日、桂昌院様から上様に。決まったも同然ですわ」
「無論、そなたの口添えあったればこそ、だな」
「いいえ。わたくしなど無力な一女官に過ぎません。唯々、大恩ある桂昌院様の御ため、微力を尽くしているのみ。されど、これからは豊後守様とも力を合わせて働けるのですね。嬉しい限りでございます」
「殊勝なことよ。まったくそなたは、姿形だけでなく、心の内まで美しい」

 そこで大典侍が物憂げに斜め下から資俊を見上げた。彼女は、桃花眼であった。

 切れ長の形のいい目で、まつ毛が長く常に濡れたように見える。瞳は漆黒。そして、性欲が満ち、興奮してくると白目の部分がほんのり桃色に染まるのだ。その艶なる魅力に抗える男はまずいない。本庄資俊も堪らず、大典侍の体を力任せに抱き締めた。当然、隣室には寝床が用意されている。

 一時(二時間)後、大典侍は、布団の上で片膝を立てて座り、一人で酒を飲んでいた。そこに一組の男女。小男と大女、料亭の主人・赤兵衛と大奥からついて来たお熊である。

「あのボンボン、帰ったかい?」
「はい。おっと。姐さん、襦袢くらい着て下さいよ。目のやり場がありませんぜ」
 赤い布団の上に真っ白い肢体、胸どころか下半身まで丸見えだ。
「今更なにを。奥勤めは肩が凝るんだ。外に出たときくらい好きにさせておくれ」

「姐さん、風邪をひきますよ」
 お熊が笑いながら襦袢を肩から掛けてくれた。お熊は、十二のときに口減らしで丹波の山奥から妓楼に売られてきたが、巨体の上に見場も悪く山に返されるところであった。それが当時乙星太夫と名乗っていた大典侍の取り成しで下働きとして妓楼に残れた。以来の忠臣。
 そして、主人に従って大奥に入った。気苦労の多い大奥勤めにもかかわらず、食事が余程合ったのか、元々熊のような体格は縦横にますます大きくなり、今や女弁慶という貫禄である。

 赤兵衛がようやく顔を上げた。
「しかし、あの若殿もすっかり骨抜きですね。さすが姐さんだ。ところで、因幡守(本庄宗資)は誰が殺ったんですかね。床下から心の臓をひと突き。上と下は逆ですが、昔を思い出しませんか」

「そうだね。しかし、まさかね。はは、あの旦那、どこで何をしてるやら」
「さいですな。今の姐さんを見たら腰抜かしますよ」
「ふふ、体の相性は最高だったからねぇ。惜しいことしたよ」
「はいはい。しかし、それはともかく、お陰でこっちの仕込みは台無しですよ。毒の調達、配膳係の買収、とんだ無駄金を使っちまった」

「いいじゃないか。結果は同じだよ。それに、いい展開になってる」
「そうなんですか」
「ああ。浅野を即刻切腹させた例のお裁きさ。城内の連中、口には出さないが、将軍のやり方に不平満々だ。世間も同じだろ?」
「概ねそうですな」
「将軍の奴、そのせいで益々気鬱になってやがる」
「でも将軍は、中奥、でしたっけ? そこに閉じ籠り切りなんでしょ。他人の評判なんて気にしてないんじゃ?」
「違う違う。気になって仕方ないのさ。本性はただの小心者なんだよ。それでこの前、遂に三之丸に来た。桂昌院に泣きごとを言いにね」

 大奥の主は本来御台所(将軍の正室)である。しかし、綱吉の正室・鷹司信子は、結婚以来武家の気風に馴染まず、馴染む気すらなく、綱吉とは仮面夫婦であった。夫が将軍になってからもそれは変わらず、彼女は大奥のほぼ中央に位置する居室において同じ公家出身の取り巻きに守られ、花鳥風月を友として気儘に過ごしている。その為、大奥の実権は将軍生母・桂昌院が握ってきた。その上で、桂昌院は本丸から独立した三之丸の御殿を占拠し、そこに居座っているのだ。

「じゃあ、姐さん、将軍に初めて目通りを?」
「ああ」
「どんな奴です? 学問狂いって話だから、やはり、ヒョロヒョロした学者みたいな感じですか」
「いや、ガタイは結構いいね。まあ、青白くて神経質そうなところは想像通りかな」
「へえ」

 大典侍が目の前の朱塗りの盃に酒を満たし、一気に飲み干す。濡れた唇が一層赤く艶めかしい。
「何にせよ、あと一歩だ。これで一度でも将軍の手が付けば、晴れてあたしは側室様だ。そうなりゃ、もう、怖いものはない。今の世の中、天下を取るのに野っ原に数万の軍勢を集めて戦をする必要なんてない。あの城の中で、頂点にいるたった一人を、きゅっと握ってしまえば事足りる。それで総取り出来るんだ。ちょろいもんさ。はっはっはっは」

 赤兵衛は、そう笑い飛ばす女主に恐れを感じると共に、信じてもいた。彼女の美貌と胆力を。そして、何よりそのとてつもない強運を。

 はるか昔の唐の国、元は星の数ほどいる皇帝の妾の一人に過ぎなかったところから始め、邪魔者は皆殺し、最終的に自身皇帝にまでなっちまった女がいたという。この姐さんなら或いは・・・。

 典膳と大典侍、出会ったときは凶状持ちの浪人と最底辺に生まれた遊女。それが川越藩士と大奥筆頭中臈になっている。運命はいずれこの男女を再会させるのだが、今はまだ、同じ江戸の空を見ていることを二人とも知らない。

次章に続く

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