【創作まとめ】死とか恋とか信仰とか。

 創作まとめです。タイトルの通り、死んだり恋したり信仰したりしてる作品を選んでみました。
 現実には絶対ないようなロマンティックな話が好き。心中とかが好き。全体的に暗いです。
 ページが分けられないので、スクロール長くなってしまってごめんなさい。



『思い出』


 思い出、をテーマに昔部活で書いたものに加筆修正して、旧題『少女を捨てる』を改題しました。
 恋愛なのかよく分からないけど、「流浪の月」に感銘を受けた時に書いたもの。
 昭和イメージのパラレルだと思って下さい。



 「琴音さん」
 彼女は遠くを見ていた。縁側に腰掛けて、夏も終盤の入道雲から伸びるひこうき雲を眺めている。わきに置いてあるスイカは、一つも減っていなかった。
「アキ君、どうしたの」
僕が声をかけると、くすんだ紫の、美しい着物を身にまとった彼女は、ひらりと振り返った。その顔には、ふんわりとした人好きする笑みが浮かんでいる。うっすらと人為的に色付けられたくちびるが、彼女の顔色の悪さを助長させているようだ。
「スイカ、食べないのですか」
僕には、何を見ているのですか、と質問することは許されないような気がしていた。彼女のやわらかい部分に触れることは、神様との約束を破るみたいな、そんな強烈な罪悪感を僕に背負わせる。分かっていますよ。僕は意気地無しだ。
「最近のスイカは、甘すぎますのよ」
彼女はそう言って、また入道雲へと目を向けた。何となく、分かってしまう自分がいる。僕も縁側に腰掛けて、それを眺めた。僕と琴音さんの間は、ちょうど人一人分空いている。
 僕と琴音さんは五歳離れている。いわゆる姉さん女房というやつだけれども、あまりそのような感じはしない。どうしたって僕と琴音さんは赤の他人のままで、このまま行けば、家族になる日は来ないのだろうと思われた。
 縁側の先には、大きな庭が広がっている。鯉のいる池に、一面に花開く朝顔たち。彼女がここで担っている仕事は、朝顔に水をあげることと、鯉に餌をあげること。それだけだった。
「アキ君、ごめんなさいね。いつまでもこんな家に閉じ込めてしまって」
彼女は、僕と話すと一度は必ず、そう謝った。僕は決まって、「いえ、ここでの生活はそう窮屈ではありませんから」と返すのだ。そう言うと、彼女は困ったように笑った。いつものことだ。これで三百回目くらいだろう。
 本当に、ここでの生活はそうつまらないものでもない。ばあや達が大抵の家事はやってくださっているし、家もとても立派な日本家屋で、広さに困ったことはない。お義父さまが遺してくださった珍しい書物の数々は、僕にとってはまだまだ魅力的なものだ。いつかは飽きてしまう日が来るのだろうか。それまでに、彼女とこの家を出れたらいいなと思う。だけれど、そうなった時に、彼女は僕と一緒には来てくれないだろうとも思う。

 今日はなんだか、静かだった。いつもはドタバタと騒がしいばあや達もデパートに出かけたし、お義母さまも習い事の手芸教室に行ってくると言っていた。この広い家にいるのは、僕と琴音さんと、あと犬のポチくらいで、そのポチすらもぐっすりと昼から眠りこけている。
「ポチのやつ、ぐっすりですね」
「ふふっ、かわいらしいものね」
口の端をぶるぶるとさせながら眠るポチをぼんやりと眺めた。僕もなんとなく、スイカを食べる気にはならなくて、それは一向に減らないままだった。用意してくださすったお義母さまには申し訳ないけれど、仕方のないことだ。

 体感はもう何十分も経った頃、ふと琴音さんがゆっくりと口を開いた。彼女から自発的に会話をするなんて珍しいと思う。あの日から、彼女の口数はめっきり減り、瞳もだんだんと虚ろになったから。
「昔、三人でスイカに塩をかけて食べた日のこと、覚えていますか」
ああ。僕はこの時、察してしまった。彼女は、大人になろうとしているのだ。はっきりとした黄色のワンピースに、麦わら帽子を被った琴音さんを思い出す。少女が捨てられない彼女のことが、僕は結構好きだった。
「勿論、覚えていますよ。僕と琴音さんと、姉さんで水遊びをした日の帰りですね」
姉さんの話を琴音さんがするのは、僕が彼女と結婚してから初めてのことだった。左手の薬指に光るそれが、夏日に照らされてぎらぎらと下品に光る。
「アキ君も覚えてるのね。なんだかうれしいわ」
そう言いながら、彼女は目線を入道雲から朝顔に移す。うつろだった瞳に、朝顔の紫が溶け込んだ。きれいだな、と久々に思う。昔から彼女は美しいお姫様だったけれど、最近の表情はどれも人形みたいで嫌だった。
「覚えていますよ。僕だって、姉さんの弟だったんだ」
「そう、ね。ごめんなさいね……」
彼女は顔をふせてしまう。僕は別にそんな顔をさせたかったわけではないけれど、彼女だけ傷ついたような表情を見せることに腹が立った。彼女のことは好きだ。彼女の目に映っていなくても、僕は彼女を愛してる。でも、別に姉の寵愛を受けていたのは貴女だけじゃないんだと、大人気なくも言ってしまいたくなっただけなのだ。

 「あのスイカ、今のなんかに比べたら全然甘くなくて、塩をかけないと食べられなかったのが懐かしいですね」
 話が進まない気がしたので、今度は僕から話を振った。進まなくてもいいとは思う。彼女とお義母さまとばあや達と、ポチと朝顔と鯉。いい暮らしではないか。今はお義父さまの遺産頼りだが、僕がいずれ働きに出る。どうにでもなる。
 だけど、琴音さんがそれを望まない。だって彼女が今日、大人になる覚悟をしたのだ。少女を捨てる覚悟をしたのだ。彼女を縛り付ける思い出のしがらみから抜け出す覚悟をしたのだ。
「そうね。懐かしいわ……。今のスイカの方がきっと美味しいはずなのに、私はいまだに、あの甘くない、瓜みたいなスイカが忘れられないの」
「……あの日のスイカは、美味しかったから」
僕が返すと、小さく首肯して、また彼女は黙りこくった。僕も黙った。もう終わりかけの命を叫ぶ蝉たちのハーモニーに耳をすませる。
 ちりん、と風鈴がなった。田舎の風は、夏とて涼やかなものだ。
「…‥夏子ちゃんに、申し訳が立たないわね」
また体感数十分が経った頃、彼女は絞り出すように言った。琴音さんは泣いていた。だけど、僕に涙を拭う権利はない。
「それは、僕もです」
姉さんが遺したものを、僕たちは何も大切にできていない。あの日。彼女たちの逃避行に、僕は全てを任せたくなった。彼女たちが報われない世界なら、消えてしまえ! なんて、柄にもなく思ったのだ。
「……あの日のこと、覚えてる?」
「忘れられるわけないでしょう」
「そうよね。……あの時、どうして私たちに手を貸してくれたの」
彼女の高い鼻が、陽の光を浴びて深い陰影を作る。涙に濡れ、翳った横顔すら美しい。その孤高な美しさが、彼女を息苦しくさせ続けるのだろう。
「琴音さんと、姉さんが幸せになれない世界なんて消えてしまえばいいって、本気で思ったんですよ」
僕は本当にそう思った。今思えば、僕も、琴音さんも、姉さんも考えなしで、若気の至りに過ぎなかった。だけれど、ただの考えなしの若者でいるには、姉さんは賢すぎたし、琴音さんは色んなものを背負い込みすぎた。僕は、なんだったのか。分からないけれど、彼女たちが、僕の唯一の希望だった。
「姉さんと琴音さんが、あの街を越えて、どこか静かな海辺で暮らしてくれたらいいなと思った。夢物語でも」
また彼女の紫の瞳から、雫が一粒落ちた。彼女の人間らしい表情は、どこまでも見慣れているようで、どこまでも他人のものみたいだった。
 今思えば、彼女を笑わせるのはいつも姉さんだったのだ。
「それは、それが叶わなかったのは、私のせいね」
琴音さんは自嘲気味に足を投げやった。履いていた下駄が、からんころんと音を立てる。
 蝉の声が五月蝿いというのに、風鈴の音といい、下駄の音といい、風情あるものはよく通るものだ。
 あの日も、こんな快晴だったと思い出す。入道雲が大きくて、ひこうき雲が伸びて、絶好の失踪日和で、この後、夕立が来た。
「姉さんのこと、忘れられませんか」
彼女のやわらかな心にナイフを突き立てた。僕は今日、初めて、神様との約束を破る。彼女は泣き笑いのような表情で、かぶりを振った。
「忘れなければ、いけないのよ」

 空にどんよりとした雲が広がり、バケツをひっくり返したように雨が降り出した。──夕立だ。

***

 僕の姉さんは誰よりも賢かった。学校の勉強などで困っているところは見たことがなかったし、受験の時も、どんな学校だって行けますよと言われているのを聞いたことがある。 だけど、それだけじゃない。彼女は思想家だった。人間はなぜ生まれ、なぜ死ぬのか。なんのために生きるのか。そんなことを常に考えていた。人間というのは、いつもそんな考えを持っていると、どんな人でも鬱めいてしまうようで、それは姉さんも例外ではなかった。
 僕と姉さんの幼なじみは、深窓の御令嬢だった。大きな建築会社の娘で、立派な日本家屋の家に住んでいる、とても綺麗な女の子。家が近いという理由で、小さな頃から仲が良かった僕たちは、小さな田舎でやれることはやり尽くした。川遊びも、スイカ割りも、花火もやった。冬になれば雪だるまを作り、かまくらでお菓子を食べた。琴音さんと僕はその後風邪をひいたのに、姉さんだけは元気だったのが懐かしい。
 将来、会社を継がなければならないという彼女の家は厳しかったけれど、僕と姉さんがいつも連れ出した。姉さんが作戦を考えて、僕が彼女を迎えに行く係だった。
「アキ君は王子様みたいだね」
今日も今日とてと手を掴んだ時に、彼女にそう言われた日から、僕は彼女に恋をした。だけど、彼女の目線の先はいつだって姉さんであることは、分かっていた。

 ある日、僕と姉さんは引っ越すことになった。両親が事故で亡くなってしまったのだ。僕たちは高齢の祖父母に引き取られることになり、琴音さんにはろくに挨拶も出来ぬままに田舎を飛び出した。十七と十二の子供ができることなど、何一つなかった。
 僕の手には、まだお姫様のやわらかい手の感覚が残ったままだっていうのに。
 姉さんは元々明るい人ではなかったけれど、ますます表情に影が滲むようになった。仕方のない事だったとは思うけれど、僕はなんだかやるせない気持ちになる。

「琴音と、どこか遠くに行きたい」

 姉さんが十八になった時、初めての見合いの話が来た。その日、姉さんはそう言って、僕の部屋で泣いた。僕は姉さんが泣いているのを初めて見た。止められるのは僕ではないのだろうと分かっていた。
 自分たちの老い先が短いことに焦った祖父母が、見合いの話を持ってきたことに、なんの悪気もない。けれどそれは、元々参っていた姉さんを現実の海に突き落とすには十分すぎたのだ。夢想家の姉さんはいつだって、琴音さんと二人で生きていけたらそれで良かっただろうに。
 昔、三人で川遊びをした時。みんなで瓜みたいな甘くないスイカに、塩をかけてかぶりついた日だ。姉さんが少し席を外している間に、琴音さんは呟いたことがある。中学三年生だった彼女たちは、小四の僕にとってはずっと大人で、正直話は難しかったけれど。
「本当は、会社も継ぎたくないし、こんな家も抜け出したい。……私、夏子ちゃんとふたりで、静かに海辺で暮らしたかった」
川の先に広がる、広い海に目線を向ける彼女。僕は呆けた顔をした。彼女は困ったように笑って、ごめんね、と掠れた声で囁いた。姉さんに比べて頭の出来が悪かった僕でもわかった。ふたりは、ふたりで幸せになるべきだって。

 実際問題、琴音さんは会社を継ぐための勉強をして、会社のための婿養子を迎えるのだろう。姉さんの見合いも、刻一刻と迫っている。僕は、僕のしたいままにしようと思った。僕の大好きな初恋の人と、僕の姉さんが、ふたりで幸せになればそれでいいと思ったのだ。
「姉さん、琴音さんに手紙、書きなよ」
姉さんはこくりと頷いて、朝顔の便箋に短く綴った。
『私と一緒に逃げて』
一年ぶりの連絡に、返事は思っていた何倍も早く返ってきた。
『ずっと、待ってた』
僕は貯めていたありったけのお小遣いを姉さんに渡した。そして、僕の自転車を琴音さんに貸した。僕のやった事は、それだけだ。
 その後姉さんと琴音さんは、たった二日だけの逃避行に出かけ、追っ手達によって追い詰められたらしい。ちっぽけだった十八の少女二人は、海で心中未遂をして、片割れだけ死んだ。運が良かったと言うべきか、悪かったと言うべきか、琴音さんは助かってしまったのだ。
 保護された時の琴音さんなど、もう思い出したくもない。憔悴しきったその顔には、この世の全ての絶望が詰まっているような気がした。僕の大好きな、初恋の人。そしてその日から、僕の大好きだった姉さんを奪った人になった。
「夏子ちゃんは、どこ」
そんなこと、自分が一番わかっているだろうに、毎日毎日そう狂ったように口にするようになった。彼女は精神疾患と診断され、田舎の実家に連れ戻された。その三年後くらいだっただろうか。お義父さままでもが亡くなった。
 会社を継ぐはずだった一人娘は気を病んで、夫は若くして亡くなってしまった。お義母さまの心労は計り知れないものだっただろう。そこで、僕に白羽の矢が立った。
「この子、もう普通のお人じゃ貰って頂けないだろうし、でも独り身でいさせるなんてねェ。アキ君もまだ若いから、申し訳ないのだけれど」
お義母さまは僕を広い客間に呼び出し、そう告げた。ああなるほど、そうなるのだなと思った。ずっと好きだった初恋の人のはずなのに、僕は何故だろう、何一つ嬉しくなんかなかった。
「娘をよろしくお願いします」
「いえ、こちらこそ。不束者ですが」
琴音さんが何も知らない間に、僕と琴音さんは結婚することが決まった。
 姉さんを裏切っているような気持ちになる。だけど、ここで彼女と彼女の家を捨て、僕が僕の道を歩んでも、きっとそんな気持ちにはなるのだろう。だったら、最後まで乗ってやろうと思った。どうせ最初から泥船なんだ。沈むまでお供してやろうと思う。
 琴音さんの仕事は、鯉に餌をあげることと、朝顔に水をあげることだけだ。今年も、綺麗に咲いている。

***

 琴音さんはくちびるを噛み締めたままだった。元々色の薄かったのに、噛んでしまうからどんどん白くなっていく。
「琴音さん、そんなに噛むと傷がついてしまいますよ」
僕がそう言うと、彼女はようやく気づいたかのようだった。彼女の爪も唇も、淡いピンクだったはずのそこは、この五年ですっかりボロボロになってしまった。
「ねぇ、アキ君。十八歳になった気分はどうだった?」
気づけば、あの日の姉さんと琴音さんと、同い年になってしまった。昔は、あんなにこの五歳差が憎かったというのに、あっという間だったと思う。
「大人って、思っているよりもずっと、嫌なものでした」
そう独りごつと、彼女はほんの少し嬉しそうに笑った。
「そうよね」
「だけど、僕はこの世界で生きていきますよ」
 彼女の大きな目が見開かれた。ずっと、お互いに踏まないでおいた境界線を踏み越えたのだから、僕は今日全てを伝えてしまおうと思う。ここからが、僕の正念場。いつの間にか、雨はもう止んでいた。
「僕が働きに出ますから、この家を出ませんか。次に住むところにも庭がありますから、そこには朝顔を植えましょう」
「アキ君」
「その指輪は外していただいて構いません。僕たちはこの世界で生きていくための、互助会のメンバーですから。ああでも、旅行くらいは行きましょうか」
「ちょっと待って、アキ君!」
僕がつらつらとこれからの予定を述べていくと、彼女はこの五年で初めてという程の大声を出した。
「どういうつもりよ。貴方、これから私という枷に縛られ続けて生きていくつもりなの」
声をわななかせる彼女の肩は震えていた。相変わらず、僕と琴音さんの間には人一人の隙間がある。
「僕は、琴音さんが好きだから」
ずっと寝かせておいた一世一代の告白も、彼女はきょとんとした顔で見つめるだけだった。僕は昔の、黄色のワンピースのお姫様に恋をしたけれど、くすんだ紫の着物の彼女も愛してる。
「僕と一緒に生きてください。貴女が今日、何を言うつもりだったかは分かっていますけど、僕は貴女と死ぬつもりはないし、貴女を一人で死なせる気もありません」
 彼女の表情を最初に見た時から、今日の話がどこに終着するのかなんて分かっていた。もう既に、ほんの僅かな死臭がしたのだ。生きながら死んでいた。そんな彼女に、僕は。
 僕はやっぱり、世界で一番馬鹿な男だと思う。彼女が少女を捨てる時、僕が最後に手を引くことを、許して欲しい。
「貴方、ずるいのね」
琴音さんが泣き笑う。するりと伸びた白い指が、左手の薬指にかけられる。ああ、指輪を外すのだ。そう思ったのも束の間、ただ彼女は指輪をひと撫でしただけだった。それは夕日に照らされてきらりと光る。
 夏はもう終わる。蝉たちのハーモニーももう終盤に差し掛かり、そろそろ朝顔も枯れるだろう。ポチがわんわんと吠える。そろそろご飯の時間なのだ。

 「スイカ、食べませんか」
 僕は声をかける。彼女は頷いた。やっぱり甘くて、美味しくて、僕はなんだか涙が出た。頬を伝うそれを感じながら、スイカにかぶりつく。ちらりと彼女の方を見やると、それはあちらも同じようだった。
一瞬だけ、あの日の塩味がした気がした。だけど涙を拭ってしまえばそればかりで、思い出は、思い出のままだった。




『私の神様』


 友達が太宰治の「駆込み訴え」を読んで感動して、わたしに"女性同士の先輩後輩"という関係性で、駆込み訴えのオマージュみたいなものを書いて欲しいとお願いされて書いたもの。未読なら先に駆込み訴えからお願いします。
 あまり百合と言いたくないけど百合です。


 
 先輩は、歪なひとだ。
 あなた、いびつって、どう書くか知っています? 私はむずかしいことはよく分からないけれど、この漢字にこの意味を与えた人はすごいと思う。だってその通り。不正なの。正しくないの。先輩は、涼やかな顔で正しく生きてる。正しさを演じている。でも私は知っている。先輩は、正しさを疑ってる。本当はだれよりも迷っている。可哀想な、ばかな人なのだ。
 周りの人はみんな、先輩の蜜を吸うだけの汚い虫。私だけは、知っている。先輩も知らない、先輩の迷いを知っている。私は、先輩が今みたいにすごく綺麗じゃなくても、私に手を上げるようなひとでも、きっと好きだ。あなたには分からないでしょう。私が狂っているように思えるでしょう。あなたは、可哀想な人。ほんとうの愛に出会っていないだけよ。私はそのくらい、先輩のことを愛している。いいや、愛しているなんて言葉じゃ表せない。表したくない。この世の何を使っても表現出来ないような、汚くて、神聖な感情を抱いている。
 みんな、恐ろしくないのだろうか。誰もがニコニコしている。腹の底ではみんながみんな、何を考えているのか誰もわかっちゃいないのに、平気な顔して笑いあっている。狂っている。そんな世界、狂ってる。だから、私はばかだけれど、読書が好きだ。人様の感情を知ることができるのなんて、本の中だけだから。たまに、こんなにくだらないことで毎日思考の海に溺れて泣いているのは、私だけなんじゃないかと思ってしまう時がある。私以外の人間がみんなロボットとか、人形とか、そういう心のない量産型のモノに見えてしまって、怖くなる。そんな時、本を読めば安心する。沈んで沈んで沈みきっている人間は、他にもいるのね、と思う。
 あなた、太宰の『駆込み訴え』を読んだことがありますか? 私、あれを読んで、救われた気がした。こんな歪で、汚くて、でも誰にも汚されない神聖な感情を、共有できることがあるのかと思った。全部ぜんぶ、私そっくりで泣きそうな気持ちになる。憎い。私をこんな風にした先輩が、憎い。でも、好きだ。愛している。ああ、もう自分の気持ちもよく分からない。気にしないでくれますか。でも、話を聞いてくれませんか。書いていないと、落ち着かない。怖い、こわいのです。書き残しておかないと、この忌まわしくて美しい記憶たちが、私のたくましい想像力の産物でしかないような気がしてくるのです。本当です。ほんとうのことなんです。
 全てはすべて、私の遅すぎる後悔の話です。

***

 先輩は本が好き。誰もいない、カビの生えたような図書室に訪れるのは、先輩だけ。カウンターで、本をひとりで読みふけっていた私に声をかけたのは、先輩が最初で最後だった。
「君、太宰が好きなの?」
本の背表紙を見ていたようだった。『太宰治全集 二』に栞を滑り込ませ、声のする方へ顔を上げた。分厚い瓶底眼鏡越しに見た先輩は、流れ星のような煌めきを放っていたのを、今でも覚えている。人々を魅了する、でも今にも消えそうな儚い光。そんな先輩が抱えていた本の背表紙には、『太宰治全集 三』と刻まれていた。
 私の校章の色を見て、年下だと判断したらしい先輩は、人好きする笑顔で朗らかに笑った。
「太宰、いいよね。あたしも好き」
 当時の私は、恥ずかしながら、尖っていた。文学に耽り、小さなことに一喜一憂しながら日々を過ごしている人たちを馬鹿にしていた。私はそんな、俗なものには染まらないと強く思っていた。高尚な思想と、難解な観念さえあれば良かった。それだけでは生きていけないと、心の底では分かっていながら、哲学に逃げ出した。『将来どうやってお金を稼いで生きていくか』よりも、『人は何故生きているのか』を考えた方が、よっぽど有意義だと本気で考えていた。気持ち悪かった、こんな自分が。結局はそれらを、自分の個性をつくるための道具にしか出来なかった自分が嫌いだった。でも今更、みんなのようになれない。素直に幸せになりたいと言えない。不幸こそが自分のアイデンティティなんだと、信じずにはいられなくなっていたのだ。
 だれか、私を救い出して欲しいといつも思っていた。
 つまり私は、太宰に並々ならぬ思い入れがあった。そんな痛々しい思想だとか、つまらない意地だとかを、太宰の文章は包んでくれるような気がしていたから。だから、最初先輩が、そう声をかけてきた時、私は、「どうせなんにも知らないくせに」と馬鹿にした。可愛らしくて、私にはないような煌めきを放っているような人が、私が救われるような文学に、靡くはずがないと思っていたのだ。浅慮だと思う。ばかだ。そう、私、ばかだったんです。
 私はそんな先輩に、「別に、そうでもないです」と返した覚えがある。素直に肯定することすら、恐ろしくなっていた。怖いのだ。自分がなにかを愛していると認めた時、それが私の最後の時のように思えて。私は、不幸でなければならなかった。幸せではないことが、私がわたしでいるための必要条件だったのだ。
「ふーん、そう。それ、元々は書庫の中にあったやつだよね? 開架じゃなくてさ。わざわざ出して、開架の本棚に置いたの、君でしょ?」
私はただ、驚いた。この図書室に、自分以外に人が来ていたことを初めて知ったのだ。来る奴といえば、名ばかりの図書委員だけれど、仕事もないから滅多に来ない。こんなにせっせと足を運んでいるのは、私だけだと思っていた。ちょっとだけ、本のセンスが古臭いのだ、この図書室は。でも。
「好きなんだよね」
凛とした先輩の声が、私の思考に続いた。私はもう情けないながら、びっくりしてしまって、椅子から飛び上がった。
「びっくりし過ぎじゃない? ふふ、あたしも好きなんだ。このセンス」
 先輩の細い指先が、『太宰治全集 三』の背表紙をなぞる。その行為ひとつが、宗教画のように美しかった。異界の生き物を発見した気分だ。神話とか怪談に出てくるような、未知の、神秘的な、人間に仇なすこわいいきもの。
「やっぱり、こわい?」
先輩がそう、微笑んだ。私は、その時の表情が今も忘れられないでいる。誰がどう見たって完璧なのに、完璧すぎて完璧じゃない。そんな顔。
 この人は、私を救ってくれるかもしれないという、くだらない直感が働いた。でも今なら、わかる。救われたかったのは、先輩だ。ごめんなさい、先輩。私があの時、一緒に死んであげられたら良かった、なんて、傲慢が過ぎるかもしれないけれど。そう思わずには、いられません。
「こわく、ない」
そう答えた時、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。そろそろ、息のしにくいあの場所に戻らなくてはならない。戻りたくない。帰りたくない。いやだ、いやだ。もっとこの人と話してみたい。生きている感覚を、聞いてみたい。
 すると、先輩が心底嬉しそうに笑って、私の手を引いた。

「ねぇ、あたしのお気に入りの場所に招待するから、一緒にサボろう?」

 先輩、私あの時、確かに救われました。私の手を掴んだ先輩の温もりが、まだ残っているような気さえする。先輩、私まだ何もお返しできてない。返したい。先輩から貰ったものが、たくさんある。でも、違うんでしょう? きっと私が何を言っても、先輩の絶望とか、葛藤とか、苦しみとか、そういうものを分かってあげることも、減らしてあげることもできないんでしょう?
 私、誰よりも先輩が好き。愛している。いや、愛していた。信じていた。傾倒していた。信仰していた。
 やっぱり、この無駄ばかりのつまらない、あなたがいないとくだらない人生なんて、あなたのために捨てられたら良かった。

***

 先輩は、人の心がわかるのだと言った。俄には信じがたいことだけれど。先輩は、自分の意志でコントロールできないの、と悲しげに笑った。自分が知りたくないと思っていても、相手が自分のことを悪く思っていても、否応なしに分かってしまうものらしい。
 お世辞だらけのまどろっこしい人間関係が大嫌いだった私は、少しだけ羨ましかった。誰が好きで誰が嫌いか、はっきりしていていいと思ったのだ。でも、先輩は違ったみたいだった。先輩は、みんなと仲良くしたいと思っていた。自身が頑張れば、世界中の人と仲良くなれると信じていた。
 ああ、やっぱり、ばかな人。私、知っているんですよ。先輩は本当は、もうこれ以上傷つけられたくなくて、貝みたいに殻の中に閉じこもっていただけなんだって。人の悪意ばかり浴びてしまうから、怖くて悲しくて寂しくてたまらなくて、幻想のようなお花畑みたいな思考に縋りついていたんだって、知ってます。でも結局それも出来なくて、本と私だけしか友達がいなかった、可哀想なばかな人。なんて愛おしい。かわいらしい。そのまま、私のことしか考えられなくなってくれたら良かったのに。
 でも先輩は結局、最後まで文学だけを愛していたし、私だけが、最後まで先輩を愛していた。馬鹿みたいだ。憎い。憎たらしいったらありゃしない。私だけが取り残されたみたいじゃないか。先輩、私を見て。私は、あなただけを見ていた。あなたはひとりじゃなかった。でも、先輩は私を見ていなかったから、それに気づかなかっただけ。
 救われたかったはずなのに、すべてのものに背を向けて生きていた先輩。くだらない。こんな話、やっぱりやめておけば良かった。

***

 先輩、私、まだ覚えてる。先輩が好きだった変なジュースの名前。先輩が可愛がっていたけれど、車に轢かれて死んだ野良猫の名前。先輩が大好きな本の一節。先輩の筆跡。爪の形。細い足首。きれいなセーラー服。ぱっつん前髪。青白い頬。通った鼻。くすんだ、夜空の瞳の色。
 今の私を先輩が見たら、なんて言うんだろうと思う時がある。歪んでるって笑い飛ばすのだろうか。いや、そうしてくれたらどれだけ良かったことか。先輩は、絶対にそんなことをしない。生きるのが下手だから、受け止めきれないくせに全部受け止めようとする。ばかだ。先輩って、ばかだったんじゃん。
 だから、心配になる。こわくなる。その細い全身が、重すぎる重圧でぱきぱきと壊れてしまうような気がしてしまう。でも、壊してみたいような気もする。ぱきぱきと硝子細工が割れたみたいに、散り散りの破片になった先輩も、きっと美しいと思うから。私、どうしたらいいかよくわかんなくなっていたから、先輩を助けるときもあったし、先輩を傷つけることもあった。ほんとうに、先輩には優しくしたかったのに、傷ついているところすらも見せて欲しいと思ってしまった。でも、他の人に傷つけられるのは気に食わない。私以外に、先輩が傷つけられるなんて、許せない。
 先輩は人の心が分かるから、私がこんなぐちゃぐちゃな気持ちを抱えていたことを知っているはずなのに、淡々と私に笑いかけては私の頭を撫でた。なんでそんなに優しくするんだろう。なんで、なんでなんですか。私、先輩を傷つけてやりたい。ぐちゃぐちゃにしてやりたい。恐怖とか、苦痛とか、そういう感情を植え付けて、私のことしか考えられなくなればいい。そうやってずっと思ってた。なんで離れてくれなかったの。なのに、なんで私の思いどおりにもなってくれなかったの。そんなの、酷い。ひどい人よ。
 ごめんなさい、やっぱり嘘。私、先輩ほど優しい人を知らない。先輩ほど、人の事ばかり考えている人を知らない。だから、私も先輩に優しくしてあげたかった。世界中があなたを傷つけるけれど、私だけはあなたの尊厳を守ってあげられると思っていた。本当に、そうだから。信じて、先輩。
 ねぇ、先輩。私がもっと素敵で、あなたのことがもっと理解出来ていて、あなたに寄り添ってあげられたら、一緒に死んでくれたの? 私、先輩がいなくなってから、心にぽっかり穴が空いたみたいに、ヒューヒューと冷えた風が吹き抜けていく感覚がして、どんどん冷たくなっていって、酷いことしか考えられなくなってしまった。先輩に謝ることと、先輩が受け入れられなかった世界なんて、滅んでしまえばいいのに、なんて空想じみたことしか考えられない。
 あなたは、私を連れて行ってくれない。この裏切り者め。あなたといるのがいちばん楽しいって言ってくれたのに。あなたと出会えてよかったって言ってくれたのに。これからもずっと一緒にいれたらいいのにって、言ってくれたのに。この裏切り者め! ひどいのね、本当に。
 いや、ごめんなさい。嘘、嘘よ。私が裏切り者なの。私が、イスカリオテのユダ。
 今も、あの日の冷たい潮風が、私の心の穴を吹き抜けていく。心に痛覚なんてないはずなのに、潮が染みて痛いよ。耳の中で、あの波のさざめく音が聞こえた気がした。気持ちが悪い。私の中の亡霊のくせに、ずっと私を苦しめる。
 私はイヤホンを強くはめ直した。よく分からない流行りの曲を、とりあえず流している。音楽なんか好きじゃない。好きだったアーティストは、聴けなくなってしまった。先輩に、「この曲、いいね」って微笑まれたことを思い出すから、聴けない。
 バスの中は、誰も周りなんか見ていない。画面の先のなにかに、みな熱中している。誰も、人と分かり合う気なんてない。ほら、先輩。やっぱり今の時代、誰も人を理解する気なんてないんだよ。とりあえずみんな、誰かの悪口を言っておけばいいと思っているんだ。だから、先輩がいちいち傷つかなくたって、良かったのに。先輩は考え方が時代遅れ過ぎたんだ。この時代なんか、ちょっと妥協すれば簡単に生きられるようになったのに。先輩はそれが出来なかった。文芸だの、芸術だの、浪漫だのに傾倒し過ぎた罰だ。先輩の馬鹿。──ねぇ、先輩。ここは地獄だ。早く、連れ出してよ。あの時みたいに、連れ出してよ!
 美術館前のバス停で、たくさんの人が降りた。ここにも、行けなくなってしまった。先輩とふたりで行ったことを、思い出してしまうから。特別展のチケットが余ってるんだけど、なんてはにかんだ先輩の顔を、思い出してしまうから。先輩のせいで、もう日常生活もままならない。
 ああ、先輩になんて、やっぱり出会わなきゃ良かった。

***

 私と先輩が最後に会ったのは、二人で海に行った日だ。寒い冬の日だった。私はいつものように、冬期講習を受けている先輩を、図書室で待っていた。先輩と一緒に帰る一時間のために、私はひとりで三時間待っていた。阿呆だと思うけど、あの時間が一番幸せだった。楽しかったんだ。高校二年生ももうすぐ終わってしまうから、先輩は前よりも断然忙しくなった。先輩のお家は勉強熱心な家なのか、塾に行く日もかなり増えていた。だからこそ、この時間がどれだけ大切なことか。あなたには分からないでしょう。
 先輩はずば抜けて頭が良かった。誰もが驚くような高成績を、いつも取っていた。だから多分、余計なことも考えすぎたんだ。脳のリソースが有り余りすぎて、考えなくていいこと、考えない方が幸せなことに、リソースを割きすぎたんだ。例えば、『自分の存在価値』とか。
「今日はね、講習が終わったあとは三者面談があるから、ちょっとだけ遅くなるの。ごめんね」
先輩は申し訳なさそうに笑って、図書室を出て行った。笑っている先輩を見たのは、これが最後だ。次に全てを終えて図書室に帰ってきた先輩は、ぼろぼろと涙を零して泣いていた。
「せ、せんぱい……?」
私は帰ってくるなりカウンターに突っ伏して泣きじゃくる先輩に、何もしてあげられなかった。背中をさすることも、涙を拭うことも、優しい言葉をかけてあげることも出来なかった。ただ戸惑って、綺麗な顔が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていくのを眺めるしか無かった。ハンカチを差し出すことすら出来なかった。私はあんなに、先輩に救われていたっていうのに。
 先輩の嗚咽が一通りなり止んだ図書室は、静かにな った。自身のハンカチで顔を拭った先輩は、ただ一言、「もう全部、恥ずかしい」と呟いた。そのくすんだ夜空には、何も映していなかった。
 私はその瞳を見て、反射的に言葉を紡いだ。私が、この人を終わらせてあげるのだ。いや、嘘だ。やっとここまで来てくれたんだと思ったんだ。影を抱え込みながらも、どこまでも自分自身は光だった流れ星が、やっと宇宙の燃えカスになったのだと思った。もはやここまで。死のう、死にましょう、先輩。きっとこの先には、先輩が苦しまなくていいような、平和で、誰も先輩を傷つけなくて、みんながみんな仲良くなれる世界が待っている。そこを、私と一緒に探検しよう。きっと綺麗な世界だ。こんなクソッタレな場所なんかより、よっぽど息が出来るはずだ。先輩が誰かに傷つけられて泣くことなんて、もうなくていいはずなんだ。

「ねぇ先輩。海、行こうよ」

 最初の出会いの時とは逆で、私が先輩の手を引いた。先輩も黙って着いてきた。きっと、私の意図は分かっているはずだった。それでも黙って着いてきた。海岸沿いが終点のバスに飛び乗った時、私は、先輩と死ねるという喜びで、これ以上ないほどに興奮していた。心底笑いが止まらなかった。これほどまでに綺麗で、壊れやすい、硝子細工の女の子が、私と一緒に海の藻屑になるのだ。これが、喜ばしくないはずがない。先輩は、これから私とひとつになる。海は綺麗だ。その『綺麗』を構成する一部分に、先輩となれることが誇りに思えた。だから、私のことばっかりで、先輩の表情なんて全然見ていなかった。
 ねぇ、先輩。あの時、どんな顔してたの? どんな気持ちだったの? 私は、先輩と違って、あなたが何考えてるかなんて分からない。分からないんだよ。どれだけ本を読んでも、所詮凡人だった私に人の気持ちなんて読めるわけがない。言ってくれなきゃ分かんないんだよ、先輩。でもそれは多分、先輩にも分かっていた。だけど言わなかったのは、私に分かってもらおうなんて、最初から思ってなかったからなんでしょ。幸せになれるなんて、最初から信じてもいなかったんでしょ。
 ふざけるな! 私のことは浅瀬まで連れ出しておいて、自分は水底に沈んでいくだなんて、酷い。酷すぎる。絶対に、忘れさせない呪いだ。ああ、いやだ。あなたのことなんか、忘れたい。あなたのせいで、私、まだ、幸せになれてない。あなたがいた頃以上の、幸せが掴めない。
 私、傲慢だった。本当は先輩が隣で笑っていてくれたら、何でも良かった。私のものにならなくても、一緒に死んでくれなくても、本当は、それだけで良かったのに。人間って、浅ましい。欲が出てしまった。あなたになにか、傷跡を残したいと思ってしまった。
 ごめんなさい。ごめんなさい。本当は全部、私のせい。あの日、私が連れ出していなければ、先輩は今ここにいたのかな。いや、いなかったんだろうな。あなたは、そういう人だ。やっぱりせめて、一緒に死ねたら、今、こんなに寂しくなかったんだろうな。

 先輩、冬の海、一人はさむいじゃないですか。

 先輩はあの日、バスから降りて、一直線にあの場所に向かった。崖の上で、覗き込んだら下はすぐに海。そんな、ザ・自殺スポット、みたいな場所。なんであんなとこ、知ってたの? あの時は気づかなかったけど、今、同じ道を歩いているからわかる。こんな場所、事前に調べてなきゃ、知るはずもない。なんなら一度は来ていないと道が分からないと思う。
 一人で見に来たのかな。でも、怖かったのかなぁ。一人でここまで来て、崖の下を覗きこんで、やっぱり立ち上がって帰る先輩の姿を思い浮かべて、泣きそうになる。そんなに痛々しい姿になるまで、先輩は何と戦っていたんだろう。先輩は、いつも見えないなにかと戦っていた気がする。私には、最後まで分からなかった。同じような生活をして、同じような景色を見て、同じような本を読んで生きてみたけど、先輩の世界は、最後までわかんないままだ。
 先輩、私も今、高校二年生も終わりかけなんです。冬場の海、めちゃくちゃ寒いじゃないですか。一年前の今日に、先輩は私だけ突き飛ばして、ひとりで勝手に海の底に沈んだんです。ひどいですよね。私が連れ出したのに、張本人置いて消えちゃうなんて。その後も大変だったんですよ。先輩が沈んだ方を追いかけようとして、でも崖の下の海を見て、足がすくんだ。飛べなくて、私は泣きじゃくった。これからの人生に、先輩はいない。その絶望が、私をなぜだか気持ち悪いくらいに支配して、ただただ泣きじゃくった。その後の記憶は、あんまりない。気づいたら先輩は私の現実世界から消えていて、その代わりに私の頭の中でずっと渦を巻くようになった。
 先輩、私も、解放されたくなっちゃった。
 先輩は最期飛び込む前に、「誰かと一緒に死ねるなんて、幸せだよね」って言ったよね。でも、繋いでいた手を振りほどいたじゃないか。私、それの意味が分からなくて、ずっとずっと考えていたんです。
 それでね、わかった。先輩は、自分は幸せになる資格なんてないと思ってたんだよね。人の心がわかるのに、わからないふりしてみんなを騙していた大嘘つき野郎だって自分で勝手に信じていたから、救われるはずがないって思い込んでいたんだね。
 やっぱり、ばかな人だなぁ。それで私を置いていったって、天国だって地獄の果てだって追いかけて見つけだして、もう一度あなたの手を引くのに。だから、お願い。今だけ、私の手を引いて。あなたの方に、手を引いて。お願い。ここは地獄。早く連れ出して!

 先輩は、私の一番汚い部分を読めていなかった。 私、あなたみたいに優しくないの。だから、あなたを傷つけた人達みんなを、傷つけてやりたくなる。あなたは、残された人達になんの話もしていなかった。だから、「受験期のストレスか? 高校二年生が自殺」なんてセンセーショナルな、馬鹿みたいな見出しで報道されるのよ。
 あなたのこと、なんにも知らない人たちに、適当な憶測で私たちの関係性は笑われている。だから、今これを書いています。私は今、一年前のあの場所で筆を走らせている。全部書き残してやる。私たちが、どれだけ馬鹿にされても、どれだけ笑われても、そこに私たちの何かがあったんだって、必死こいて書き記しているの。全部先輩のせい。憎い、憎い、憎くて憎くてしかたがない。でも、大好きだった。愛していた。あなたがそのたいそうな思想に傾倒していたくらい、私もあなたに傾倒していた。
 先輩は、私の一番奥底の部分を読めていなかった。私はあなたが思っていた何倍も、先輩の事が大好きだったよ。先輩は私のことを全然見ていなかったから知らなかったかもしれないけれど、私はあなたのことが、本当に、ずっと。

 ──なんてね。遺書としてはだいぶ盛り上がる感じになってきたのかなぁ。先輩のせいで、私の人生めちゃくちゃです。こんなことなら一生救われない方が良かった。だから、これはそんな凄い話なんかじゃなくて、ひとつの小さな復讐話なんですよ。先輩は私に生きて欲しかったんでしょ? だったら、死んであげましょう。先輩が、一番嫌がることだって分かっています。歪んでいるのかもしれません。分かっている。こんなの、正しくないに決まっている。仮面だらけの狂った世界で、あなただけが、なんでも知っている。私の、神様。
 大丈夫、寂しくないよ。今なら行ける。ねぇ、先輩。
「こわく、ない」
そう呟いてみれば、あの日、初めてあった日の先輩の笑顔が脳裏をよぎった。潮風に髪がなびく。さざめく波の音が鼓膜を支配した。ああ、気持ち悪い。
 気づいていました。先輩が本当は、妖怪さとりみたいな能力なんてなかったこと。感受性が強くて、人の気持ちを考えすぎてしまうあまりに、ああいう風に生きるしかなかったこと。
 最後なんだから、素直になります。もう、不幸なんてアイデンティティがなくてもこわくない。だから、認めましょう。──先輩。やっぱり私、あなたのこと、愛していました。

 今から飛びます。私は、ユダ。裏切り者。それではみなさん、さようなら。




『21gの不可逆』


 フォロワーさんとこういった企画をした時の作品。

 わたしは燭台・アイスキャンディー・愛してるで書きました。人によってはちょっと気持ち悪いと感じるかも。
 面白い企画で、フォロワーさんのも全部素敵でよかったな。まず何を選んでどういう組み合わせにするか、という所から個性が出てて楽しかった。



 もう、夏だね。まだ本番って感じじゃないけど、すっかり暑くなってしまった。
 目の前をゆらゆらと燃える炎。それだけが君の顔を照らしている。君はいつも楽しそうに笑っていて、僕もその顔を見るとなぜだか笑えた。楽しかったな。
 君ってば、どんな花も似合うんだから。どうしてなんだろう。君からはいつもはちみつの香りがしたから、なんて言ったら、怒られちゃうかな。お気に入りの香水、切れかけていたから、買っておいたよ。
つぅ、と手に持っていたアイスキャンディーが溶けて垂れた。お行儀悪くそれを舐め取りながら、君のことを考えてる。
 君のことがずっと頭を離れないんだ。君がいた痕跡がたくさんある。君には変な趣味が沢山あったけど、やけにアイスをストックする謎の癖があったよね。あれさ、消費するのも大変なんだよ。早く、早く食べきってしまわないと、君がいつまでもそこにいるような感じがして、ダメなんだ。
 君って本当に嫌なやつだった。自分勝手で、みんなのことが大好きなふりをして、本当はそんな自分が好きなだけだった。みんな、そんな君のことを気味悪がってたよ。でも、都合のいい時だけ君を頼ったよね。君はバカだから、それが嬉しそうで見てられなかった。バカだな。そして僕もバカだ。僕にしておけば、僕だけにしておけば、君は傷つかずにすんだのに。でも、そんな風にはなれなかった君のことが、僕は結構好きだったから。
 初めて会った時に、一緒に食べたアイスキャンディーをなめる。もうドロドロに溶けて、手も腕もベタベタだ。もう戻らない。戻らないんだよ。不可逆なんだ。溶けたものはもう、同じ形には戻らないんだ。
 君もそうなのかな。手に垂れたアイスを舐めとるのは、君の悪い癖のひとつだ。君のせいで、僕までこの癖が治らなくなってしまった。君以外の前ではできない。
 あの日、僕の前で溶けた君。もう元には戻らない君。随分小さくなってしまった君。ひとつの壺を渡されて、これが君、なんて嘘だろ? 軽すぎるんだ。昔の偉い人が言うには、人の魂は二十一グラムらしいんだけど。それを信じるなら、君は多分ここにはいないよ。そりゃ君の骨は重いけど、そこに君がいるっていう質感だけがなくて。だからさ、多分君はここにはいない。どこにいるのかは知らないけど、君は自由人ぶりたがるけど本当は怖がりだから、この家の中とか、きっと近くにいるんだろうね。どうせ、僕にいつ見つかるか、かくれんぼでもしてるんだろ。

 別に可愛かったわけでも、性格がよかったわけでもない。別に特別好きなとこがあったわけじゃない。でも、君のことを、愛してたと思う。

 燭台の蝋燭が、汗をかいて小さくなっている。僕しかいないこの家で、火をつけている時間は短かったから、君がいなくなってから初めて、蝋燭を変えることにした。その時だった。
 ずん、と持ち上げた燭台が重い。君だ。君だ。これは、君だ。君の魂だ。ここに君はいるんだ。そう、瞬時に理解した。ああ、君っぽいなと思う。大人しくはしていないくせに、ずっと近くにはいたんだね。

 蝋燭の火を消す。君の二十一グラムを感じる燭台を僕の顔まで持ち上げて、汗をかいた蝋をそっと舐めた。君が手に垂れたアイスキャンディーを舐めとった時みたいに。だいぶまだ熱くて、口の中が痛い。別に美味しくはない、むしろ暴力的な不快感のそれを、丁寧に舐めてから、このまま死ねたらいいのにと思った。
 そう思って調べてみたけど、少量の蝋は消化されずに排出されるだけで基本的に無害らしい。バカらしい。ついに頭がおかしくなったか。まぁ、いいね。ここには君しかいないから。

 蝋燭の独特な味を残したまま、腕を持ち上げて、菊の花の燭台に軽くキスをした。ここに君がいる。そうだね。
 溶けて戻らないなら、溶けたものをそのまま僕のものに出来たらいい。

 口の中の熱さが、あの日の、箸で骨を拾ったあの日を思い出させる。

 あのね、もう暑いよ、外は。君のことは、愛していたよ。





 ここまで読んでくださってありがとうございます♪ ほぼ2万字くらいになってしまってごめんなさい。
 感想あれば頂けるとすっごく嬉しいです。

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