純粋自殺クソ喰らえ
バカの絶望って本当に薄っぺらくて、涙が出そうになった。ここしばらくなんのやる気も起きず、一日中寝たきりの生活をしていたけど、やったことと言えばテトリス(ソロ)10時間とスイカゲーム10時間と桃鉄100年だった。確かに全ての物事がどうでもよく思えてきて、大好きなツイッターもそこそこに、ずっとSwitchを持っていた。手首が痛い。情けない。
わたしの絶望、テトリスとスイカゲームと桃鉄100年なんだ。そんな、あってもなくてもいいような、やってもやらなくてもいいような出力方法しかないんだ。
バカが絶望しても、ドストエフスキイにも太宰にも朔太郎にもなれない。秋田ひろむにもn-bunaにも米津玄師にもNeruにもなれない。大森靖子も、それから戦慄かなのにだってなれないし、にゃるらにもつくみずにも市川春子にもなれない。(敬称略)
ちょっと映画には疎いから分からないけど、映画監督とかもきっとそう。きっとこんなの読む人の中では自分の中の「絶望の天才」がいるんじゃないかって思うんだけど、彼らにあってわたしにないものってなんなんだろう。
語彙力? そうかも。感受性? そうかも。きっと色々色々いろいろあって、全部足りないものだらけで、わたしは絶望偏差値42くらいの、落ちこぼれ劣等生だ。かといって希望偏差値も42で、わかるかな。居場所がないよ。
希望村で追い出されたから、自分の居場所は絶望村だと思っていたのに、違うのかな。進撃の巨人で例えれば、希望村でも絶望村でも自分はシガンシナ区在住。ずっと端っこ。
どれにも純粋さがない。いろんな醜い欲求が入り交じっているから、純度が低い。
わたし思うに、彼らとわたしの一番の違いは、どうにも、「絶望との親和性」なんじゃないかしら。
彼らや彼らの作品はどれもわざとらしくない退廃の空気を身に纏っていて、絶望を誇示することなく、しかし抑え込むこともなく、絶望を絶望としてつくってる。
代わってわたしはどうだ。もう既に「なんじゃないかしら」なんて言って、ドストエフスキーをドストエフスキイと書き、挙句文章も下手で、もうダメだ。おしまいだ。全部借り物。全部偽物。そこにわたしはない。それっぽいことを並べて、希望村を追い出されたから絶望村にどうにか入れてもらいたいという下卑た笑みがもう文章に浮かんでる。全部ダメだ。どういうこと? 本当に、自分はどうなりたかったのか分からない。松岡修造になりたかったのか、オードリー若林になりたかったのか。何になりたいのかさっぱりわからないし、自分もないし、今生み出されているこれはなんだ?
わたしは絶望とひとつになれなかった。
Wikipediaの自殺した有名人リストって見た事ありますか? ただただジャンル問わず、自殺された有名人の方々が概要とともにリスト化されてある非常に悪趣味で、淡白なリスト。なぜそれに出会ってしまったのかはもう忘れた。確か、昔の芸術家や文豪で自殺した人を調べようとして、それが出てきたような気がする。
本当に気が狂うようなリスト。ひとりひとりの苦しみが、恨みが、悲しみが、あるいは救いが、喜びが、名前や職業と年数、それから死因のみでずらっと並んでいる。そんな気が狂いそうなリストを気が狂いそうになりながら、見た。何を求めてかもわからない。迷子の子供が途方に暮れながら知らない店に入るような気持ち。
最近の方のはもう、見れない。しんどくなるから。それで、下の方のもう『歴史上の人物』になっている方達の部分を見た。近衛文麿だとか、有名な乃木大将だとか、川端康成だとか、金子みすゞだとか。そんな時も、大抵わたしは「太宰治」の名を探すんだけど、そこでわたしは、意外な出会いを果たした。
例のリストの「太宰治」の二つ下、「中澤節子」さん。なんとなく、学生と書いてあったから気になった。普通の学生の自殺はこんな所には載らないから、何した人なんだろうと思って。
Wikipediaによると、そうらしい。彼女の名はあまりに小さくて、ここ以外の情報は得られそうになかった。「哲学少女の自殺」という極めて悪趣味なフレーズがわたしの目を引いた。こんな報道をされたら、たまらないと思う。
『花ちりぬ』を読みたいけれど、国立国会図書館のサービスを受けるか、死ぬ気で古本を探すか、全国5カ所の図書館を探すしかないみたい。どこかのタイミングで、印刷サービスでも使ってみようかな。
歳の近い「哲学少女」の記事は、さらにこうある。「純粋自殺」の一例。ふむ。自殺に純粋もクソもあるもんかって思ったけど、こういうことらしい。
自殺のための自殺。多分、ひとつめの「自殺」は自己否定ということだよね。自己否定の最終結晶として自死を選ぶということみたい。
こういう話ばかり見ていると寝込んでしまいそうだからもうやめるけど、今わたしたちがこんな風に理由なく自分に絶望しているのも、全部純粋自殺への足跡みたいに思えてくるね。だってさ、例えばnoterのきみが「よし死のう……」と思ったとして、実際に死んだら、この方みたいに、もしかしたら書いたnoteたちが遺稿集になるかもしれないよ。わたしたちの、絡んだ痰を吐き捨てるみたいな文章たちは、一歩ずつ、誰かに、きみの絶望を紹介するための足跡になってるんじゃないかって、思ったんだよね。死んだらそれがゴールになっちゃって、全ての行動がそのゴールへの布石みたいに思われちゃうんじゃないかって。
そうしたら、自死なんてクソ喰らえだなって思ったよ。ほんと、クソ喰らえ。
誰かに「哲学少女の自殺」と謳われるために死ぬんじゃない。誰かに遺稿集を遺すために死ぬんじゃない。わたしはわたしの絶望のために生きてるんだ。 そう思ったらなんかもう、ぶっ生きる!!!!!!!! みたいな気持ちになっちゃった。全部ばからしいよ。考えるだけ考えて全部どうでも良くなる悪い癖が出ているけど、これに関してはこれでいい気がする。
絶望偏差値42だから、自分自身に自分の絶望を証明するためには死しかないのかな(本当に死ぬ訳ではなく、例の客観的思考の一端として)、と考えていた時にこんな方に出会って、こんな記事を読んで、そう思った。わたしが死ぬとしたら、環境は一切関係ないから、多分「純粋自殺」に区分されるんだろうけど、バカらしくなった。絶望との親和性の行き着く先が、絶望とひとつになった結果が、「純粋自殺」。バカげてる。それで亡くなった方々をそう思ってるんじゃなくて、自分ごときの絶望でそんな大層な名前がつくのが耐えられない。なんのギャグ漫画だよ。知らんもう。どうでもいい。
おれは生きる。できるだけ、(自分の意志では)できるだけ長く、生きる。
考えない方が楽だ。
考えるってきっと罪で、不思議な効力がある。人から死ねと言われても死なないのに、どうして自分の考えることならと思ってしまうんだろう。なんで自己肯定の言葉は全て無視するのに、自己否定の言葉は全てのCookieのように受け入れてしまうんだろう。
選ぶな。受け入れろ。全部受け入れる。汚さも醜さもかわいさも絶望も楽観も頭の悪さも苦しみも虚しさもやさしさも美しさも全部受け入れる。択一するから頭がおかしくなる。受け入れる。わたしはわたし。誰にもなれない。誰かのようにすごくもなれない。
わたしはわたし。何度もゴミ箱に捨てた言葉だけど、今、全く違う音色でわたしの引き出しに入った。こんなに持ってるものが少ないのに、持ってるものすら誰かになろうとしたら、それはもう誰なんだ、という小さな自己保身。自己表明。わたしはここにいる。
誰かのヒーローにもなれないし、誰かの絶望の天才にもなれない。
何にも秀でていない存在で、ちっぽけで、きっと何かしらのリストに載るような事もなく、自死することもなく、天命を終えるよ。もう渡せるものがなんにもない。
なんにもないんだから、感情まで染めない。明け渡さない。このクソ喰らえで不明瞭で眼鏡かけてない時の世界みたいな、繊細さも迫り来るものもない、ぼんやりとした不安を生涯死ぬまで大事にしてやる。それが憎むべき自分と世界へのアンチテーゼで、そうしてわたしは空を睨んだ。眉間に皺が寄った。星が綺麗だった。
ぼんやりとした絶望人間バカ(妖怪人間ベムみたい)は、またこうして無意味に生きる気持ちを強くした。生きよう。
ぶっ生きる!!!!!!!!!!!!! とばっちり叫んでおやすみなさい。あんまり言いすぎるとフラグになりそうなのでやめる。