連載小説『恋する白猫』第三章・クロワッサン
ほぼ1年ぶりに逢う両親は大層、太った以外はあまり変わらない、
むしろ歳より若々しいくらいだが、母はそのことをここぞとばかりに自慢げにこう力説した。
『人間ってね、
あんまりガリガリだと老けて見えちゃうものなのよ、
貧相っていうのかね、私もお父さんもふっくらしてるから顔もパーンと張ってて色艶もいいし、健康的に見えるでしょ?
私達が若々しく見えるのはその為よ、
欲望に無闇と逆らわないの、
あんまり我慢せず食べたいものは食べる、それが若さの秘訣ね』
そう言いながら食卓の上にある竹編みの籠皿に盛った蜜柑に母は、子供のような笑窪の浮かんだまるまるとしたその手を伸ばす。
本当に食べることには意欲的なのだ、
光(みつる)は自分も将来はこうなるリスクが多いにあるのだと怯々とする思いとなってこう言った。
『それはいいんだけど、
そのぶん少しは動かないとね、
お父さんとふたりで軽くウォーキングでもすればいいのに』
と光は心配する娘という尤もらしい立場を盾に思いっ切り憂鬱な声を出した。
『それがこの頃お姉ちゃんが連れて行ってくれるドライブがもう気持ちよくって愉しくってしょうがないの!夕暮れの海辺のハイウェイでしょう?気持ちいいお天気の日には隣町やその隣町やそのまた隣町へのドライブでしょう?
トンネルギュンギュン突っ切って脱出した時なんてお父さんと二人して歓声あげちゃうほどなのよ』
と言う母はもともと艶のある肌を紅潮させ、まるで生まれて初めて〝ジドウシャ〟なるものに乗ることを経験した子供のように、はしゃいで見せる。
その様子はまるで光の出逢ったことのないまるで戦後、昭和初期の純朴な少女のようだ。
‘’アメちゃんの車におら乗っただよ”と母に言わせたらぴったりだろうに、と光は心中、密かに思ったりもした。
その少女に向かって光はとっくりと厭味半分不安半分にこう言い含めた。
『ガリガリになる必要は無いとしたってさ、
お姉ちゃんの運転する車ばかり乗ってたら足腰だって弱くなってきちゃうでしょう?
やっぱり人間歩かなきゃ、
太り過ぎは万病の元なんだからね』
と言う光にうんうんと目だけで形ばかり頷く父に、光は険しい目焦らせをして切に援護を求めたが、父は牧草を喰(は)む牛のような、どこまでものどかな顔をして、
光が望む事とは真逆のことしか言ってはくれない。
『でも母さんは家事やら庭仕事やらやってるから、まだ足腰はしっかりしてるよ?なぁ母さん』
と横から妻に倣うように蜜柑に手を伸ばす温和しい父がようやく口を挟んだこの憎たらしい事態に、いつもながら舌打ちを鳴らすと、二階の自室へと竜巻のような勢いで駆け上がりたくなった光に追い打ちをかけるように母が更にこう言い及んだ。
『そうなんだけど、家事のほうはお姉ちゃんがこの頃なんでも代わりにやってくれちゃってるから、もうこの頃私の出番があまり無いのよねぇ』
と、まるでそれが不服でつまらないことでもあるかのような口調を装いつつも、その実、母が決して満更でもないのが悦にいったその表情で光には手に取るように母の本音がよく解る。
『まぁちゃんは昔っからお料理も上手いし、掃除にしたってなんにしたって私がやるよりずっと丁寧で細やかなの、私が若い頃習ったお花を適当に教えて上げたらすっかりコツを覚えて、今日も玄関にお花、活けてあったでしょ?
“小笠原流”なんだけど、そこにお姉ちゃん流のセンスが加わって、最近じゃまぁちゃんが活けるお花見るのも母さん達の楽しみなのよ、ねぇ?お父さん、そうよね?』
光は聴こえないふりをしようと無駄な努力を費やしたが母を目の前にそんなことは無理な話である、
彼女は両親から目を伏せて吐息混じりにこう言った。
『そんな余裕があっていいわね、お姉ちゃんは働かずに家事手伝いなんて優雅なポジショニングだからそんなことが思いつけるし、出来もするのよ』
『いやぁそればっかりじゃないさぁ瞬は今で言うとこの女子力ってやつかな?昔からそれが高い子なんだよ』
思いっきり不愉快極まりない顔を顕(あら)わにしているにも関わらず、それを微塵も察してくれない父までもがそんなことを言うのが光は身悶えするほど忌々しく許せなかった。
『悪かったわねどうせ私は花より団子よ』
『その割にあんた凄くほっそりしちゃったのね、大丈夫なの?
そんなに痩せ細って』
と口の中に頰張る蜜柑をばっちり見せながら母が言う。
『痩せ細ってなんかいないわよ
スレンダーなの、それに私、
ちゃんと三食食べてるよ、
食べるものに気をつけてるだけ、あと運動もしているから太らないの、三十路前で代謝が落ちたなぁって感じるようになってきたから朝一番に毎日軽くジョギング、
週2で安いピラティスの教室も見つけたから通ってもいるしね』
『ふぅん』
と一応は言ったものの、父も母も共に誰かの指のささくれでも見るかのようにそのことには無関心で、「あらお父さんこのお蜜柑、甘くなってるよ?」
「おお本当だ、2日前より甘くなって、
酸っぱかったからほっといてよかったな」
「ほぉんと美味しいわあんなに酸っぱかったのにね」
と、蜜柑を食べることに必要以上に没頭し、光の話には見向きもしない、
“この親どもは妹のことには、
からきし興味が無いのよ、
光より蜜柑のほうがよっぽど好きなんでしょっっ!?”
と光は心の中で小学生のように芯から怒り狂っていた。
あるのは目の前の蜜柑のことだけ!それと…
ややあって廊下の向こうで硝子の格子戸を開けるあのガタピシと懐かしい音が聴こえた。
暫くするとスリッパで廊下を歩く穏やかな足音が聴こえ、やがてその足音の主は最近リフォームしたてのダイニング・キッチンへ色褪せたセーラームーンの絵柄プリントの暖簾をくぐって入ってきた。
「お帰り瞬(まどか)、光帰ってきてるよ」
「あら」
と、姉はその大きな黒目がちの瞳を瞠(みは)ることもなく涼やかに、むしろその眼を細めて光に微笑みかけたが、その微笑はまるで平素居ない家族の一員が戻ってきた変化にまるで気がついていないかのように平静過ぎた。
しかし光がギョッとしたのはそんなことではなかった。
姉はところどころにレースをあしらった、まるで古い外国映画でヒロインが着ていそうな、ロング丈の白のワンピースを着ているのだ。
黒いダウンジャケットを脱いで微笑む姉のややエキゾチックな容貌を、その白いドレス風のワンピースが気味が悪いほど引き立ててはいるものの、光は姉独特のその威容に圧されて思わず目を背(そむ)けそうになるのをこらえてこう言った。
「お姉ちゃん何?その格好」
「え?どうして?おかしい?」
“おかしいなんてもんじゃないでしょう?普通じゃないよ!
気持ち悪い”
と光は心の中でそう吐き棄てるように呟いた。
姉は胸に抱えていた茶色の大きな紙袋を食卓の上へ置くと、
『光、夜行で来たの?
いつ着いたの?』
と脱いだジャケットを椅子の背に着せ掛けながらそう言った。
『今朝よ、だからまだ眠くって』と言うなり、光はしたたか発作に襲われたかの如く、思わず顎が外れそうな欠伸をしてしまった。
普段なら噛み殺す癖のついているその大欠伸を久しぶりの実家で気がゆるんだのか光は思わずやってしまい、急いでその口に遅れて手のひらをおざなりに当てて見せた。
そんな光に姉は上辺だけ取り繕うか、同情を寄せるかのような訳の判らぬ微妙過ぎる目つきを向けると仕方無くまたあの曖昧模糊とした微笑を造って見せた。
そんないつもと変わらぬ姉を見て光は内心冷ややかに思った。
“なぁんだ、何が鬱病よ、
全然普通じゃない、むしろ元気そうなくらいだわ、私を家に呼び寄せる為にお母さんったら私のこと一杯喰わせたわね”
妹の心を露知らぬ姉はこう言った。
『光、珈琲飲む?
うちにあったあの古いコーヒーミルはもう壊れちゃったから、今は外で珈琲豆、挽いてもらうの、
今お店で挽きたての光の好きなモカ、買ってきたのよ、
飲むでしょ?』
『飲む飲む!
なんだか頭が重いというかぼんやりして…
頭痛ってほどではないんだけど』
『ミントティーもあるよ、
光、頭痛(あたまいた)の時はいつもミントティ―飲んでたから、
いれようか?』
『今は珈琲のほうが欲しい、
挽きたてのモカが』
『解った』姉は笑うと今でも二十歳の時とさほど変わらないように見える。
そしてちょうどその頃、矯正をしたほとんど完璧な歯並びが見えた。
普段から手入れにも留意しているのであろう、姉は笑うと清々しい空気感を醸し出す、蒼白いほどの歯をしている。
日本人は欧米人より象牙質が分厚いため歯が硬く堅牢であるが、
その為、肌同様歯の色も象牙いろ、あるいは生成り色だ。
にも関わらず姉は生まれつき肌も歯も碧味のあるやや冷たげな磨り硝子風の透白感があり、化粧をろくにしていなくても、冴え冴え(さえざえ)しかった。
それを見て光は思わず心の中で、今更自分も矯正をすればよかったと胸の奥で小さく苦(にが)く後悔した。姉が先にブリッジを入れ、金具で寄せられる歯がじわじわと動く為、痛がって時に発熱し、寝込んでしまうその可憐な姿を見て臆病で痛がりの光はすっかり恐れをなし、“お姉ちゃんの次は光もやってあげるからね”とせっかく親から言われたのに彼女はそれをにべも無く断ってしまったのだ。
『私は別に今のままでいい、
そんなに歯並び悪くないもの』
『ナニ言ってるのお姉ちゃんだってそうよ、
少しだけ脇っちょの歯が重なっていたのを治してあげただけ、
お陰で非の打ち所の無い美人が出来上がったのよ光もやりなさい、
それくらいはお母さん達だって嫁入り道具じゃないけれどしてあげるから、
今どきお茶やお華、お琴なんか習わないにしたって女の子なんだから、少しでも綺麗になるに越したことはないのよ』
『でもいやだ!私はいい、
どうせやったって私なんか』
と言うその言葉の先を彼女は飲み込んだが、それは光の胸の奥深くでまるで半鐘のように不穏に鳴り響き、彼女はその半鐘の音(ね)に何年も経った今でも尚、耳を塞ぎたくなることがよくあった。
『歯並びなんか直したって私は変わり映えなんかしやしないわ、
もとがたいしたことないんだもの、誰もが振り向くような美人で華のあるお姉ちゃんならますます綺麗になれたって、私なんか…』
光は思わず昨日のことのように追憶を遮蔽しようとする緞帳(どんちょう)が描くあの豊かで重々しいドレープの奥へ奥へと幾重にも遠く逃げ去った。
その秘奥に隠された小さな扉を開けると彼女はその幻の小部屋へと誰にも見えないその身を隠し、そこでたった一つの生身の唇を噛みしめた。
『せっかくやってあげるって親に言ってもらってるのに、頑(かたく)なに断るんだもの、
お父さんがっかりしてたわよ、
光も綺麗にしてやりたかったのにって』
当時の母はこう言ったものだった。
『それに比べて瞬はいつだって何かをしてあげ甲斐があるのよ、
可愛らしいというか素直というか
洋服一着でも与えられるものを瞬はいつだって喜んでニコニコ気持ち良く受け入れてくれる、
それに比べてあんたは私がよかれと思って買ってくるセーター1枚にしたって、やれ“ダサい”だの、“センスが悪い“だの、“母親のセンスが娘のセンスと合う訳が無い、歳が違い過ぎるんだもの”
とか、可愛げのないことばかり言うでしょう?
だいたいあんたは感謝の気持ちが薄いのよ、
お姉ちゃんはいつもありがとう嬉しいわって笑顔で喜んでくれるのに、あんたねぇそういうのは損だよ?男の人からもきっと可愛いって思ってもらえないよ
このままじゃ、
もっと愛され上手にならなきゃ、瞬みたいにさ?』
昔のことをそう言われた只中にまるで今、現在居るかのようにリアルに思い出し、光は身の置きどころが急速に狭間(せばま)ってゆくのを感じて苦おしくなった。
気がつくと胸で浅い呼吸をして、彼女はそれを隠す為に胸に下がる純銀の妙に古風なロケットペンダントを、親指と中指とでそっと摘んで唇に軽く押し当てた。
ネットで買ったドイツ製のロケットペンダントの中には、元彼の写真がまだ何となく入ったきりだ。
彼女は未だに辛い時、そのロケットペンダントを握り締めてはよく独りでメソメソ泣いていた。
それでも気分が悪く、目の前が暗くなる前に差し出されたあまりにも薫り高いモカを、まるですがりつくようにして飲むと、たちまち光は心の中で小さく姑息に安堵した。
そして硬質の弱気に裏打ちされた
脆(もろ)い強気を取り戻し、明日にはもう横浜へ帰ろうと決意を新たにした。
その気持ちを見透かしてか?
姉がまるで腫れ物に触るかのような口調でおっかなびっくり光にこう問うた。
『光、とうぶんうちに泊まってくんでしょう?』
『とうぶんたって…
どのくらいがとうぶんなの?
そうねあと長くて2日なら…
まぁ居て上げてもいいけれど』
『たったの2日か?光っ!』
と父が悲痛な声を上げた。
全然この場と関係無いのに、
まるで本多劇場で一度だけ彼と見た〝リア王〟のようだと光は思った。
『そうだよたったの2日だよ、
本当ならね、明日にでも帰ろうかと思ってたんだからね、
仕方ないでしょ私だって仕事があるんだから!』
ダイニングキッチンに気まずくも張り詰めたような空気が重苦しく流れた。母がまるでそれを取り繕うような声を出してこう言った。
『お姉ちゃん光に…
お姉ちゃんの…あれ、
食べさせてあげて、
どうせお昼まだ食べてないんだから』
食卓上に例の茶色い袋から姉の手により次々に取り出されるパンの数々に、光は度肝を抜かれた。
まずトップバッターはクロワッサンだった。
見目麗しい大ぶりのそれはいかにも食べるとパリパリッといい音が鳴りそうな、金褐色の食べられるアートだ、
次いでパンオショコラ、
姉の手から取り出されただけで、もう香る、やや甘い暗さが鋼(はがね)のように心地良く響く、
それはダーク気味チョコレートの放つシャイな勇気とバランスだ、
舌の上で溶けずとも解る、
どんな音楽よりメロディアスで抑えた甘さが奏でるレガートなのだと光は思った。
そしてブリオッシュ、
豊かに手織(たお)り込まれた黄金極まるバターが香り立つ、その一見して判る芳(かぐわ)しくも明朗な重みに圧倒され、光は思わず手を延ばしかけてごくりと喉を鳴らし、その手首をそっと膝の上で押さえ込んだ。
クグロフも昔ながらの餡パンも、バケットもあるよと姉がにこやかに取り出したものは、家族向けに食べやすいよう短く切られたものだった。呆然とそれらを凝視する光に向かって、姉がさながら罪深い誘惑者のように甘やかに微笑みかける。
『光、何食べる?
お姉ちゃんが昨夜作った光の好きなマカロニの入ったポテトサラダの残りがあるから、オムレツ焼いて何かフルーツ剥いて…
パンと一緒に食べようね』
光は目の前にまるで見せびらかすように多種多様ごろごろと並べ立てられたパンに目が釘付けとなったまま、ダイエット中というのに思わず固唾を飲み、彼女は気がつくと虚ろな声でこう答えていた。
『じゃあ私、クロワッサン、
クロワッサンひとつ…
食べてもいい?』
『クロワッサンだけ?他は?
もっといろいろあるよ』
姉の声がどこか期待を含みながらも何故か切なげに響く。
『私、小麦はあんまり食べないようにしてるのよ、全く食べないっていうんじゃないけれど…
グルテンフリーって知らない?段々そうしていこうって思ってるの、それにこういうベイクドハウスで買うようなパンはトランス酸脂肪もてんこ盛りじゃない?美容にも健康にも悪いのよ』
『あら…そうなの…?』
と姉のいつも潤んだあの大きな瞳が悲しそうな碧みを帯びた灰色のヴェイルを生じさせ、さながらそれが猫の瞬膜(しゅんまく)の如くその眼を覆う、美しいがどこか奇妙な現象を光は見た。
“これは私しか知らない”と光は思った。
“でも何故私しか知らないんだろう?誰も気がつかないだなんて、あり得ないことなのに…”
光は姉の濃く長い睫毛がまるで蛾の触角のような艶冶(えんや)な陰をその白い貌にくっきりと落とすを、数年ぶりに横目で再確認すると夢から覚めたように深々と絶望のため息をついた。
“何も変わってない、
ここは何も変わらないし変われない、
それがいいとか悪いとかじゃなく、ここはこのままだし、この人達も根が生えたようにこのままでこの家になんの変化も無く居続けるつもりなんだわ”
と嫌悪感がつのってきた。
スイートハートが昔のまま変わって欲しくなどないと常日頃から呪詛の如く強く思い込んでいる光はその真逆のものとして、家族には少しでいいから変わって欲しかったのだ。
‘’普通はもしかしたら逆なのかもしれない”と光は思った。
家族や家庭は変わって欲しくない、いつ帰っても懐かしい場であってほしいものなのかもしれない、
だが相も変わらず四十路近くして姉はなんの変わりもなく光より若々しく、美しく、清楚で控えめなままだ。
恐らくそれは周りからの庇護も含め、よく手入れのゆき届いた寺院の庭のあの苔のように、あと何年経ってもたいして変わらないままなのであろう、
光は苦々しくコーヒーカップに口をつける姉を気づかれないようにそっと睨んだ。
食卓は母と父との会話だけで賑々しくそれは近所のダレそれさんが通風で、痛くて靴下も履けなくて外出すらままならない、それがストレスで奥さんに当たり散らしているだの、ダレそれさんは糖尿病が悪化していよいよインシュリン注射を打たないといけなくなりそうだ、とか、ダレそれさんは癌検診で引っかかってしまったらしい、
なんとステージ4ということだが、それでそれはなんの癌なのだ?
なんだっけ?それは忘れたけど、厭ぁね怖いわねといった内容に首尾一貫していた。
“食事をしながらそんな話をよく出来るな?”
と言いたい気持ちを珈琲と共に無理矢理飲み込んで、光はやけになったようにクロワッサンを次々詰め込んだ。
クロワッサンはぼろぼろと表面のパイ生地みたいな薄皮が剥離して皿に落ち、食べた後の光の皿にクロワッサンの表面積のほとんどが剥落したのではないか?と思うほど、パリパリの生地だらけとなって、それが堆(うずたか)く皿の上に散らばっていた。
クロワッサンほど皿の上を散らかさずに完食するのが難しいパンは無い。
思わずため息をつくと光は真向かいに座る姉の皿を見て慄然とした。
姉の皿は白かった。
まるでそれを誇るかのように、微塵もパン屑の無い、それはまるで漂白したかのような“白”だった。
姉はどういう魔法を使うのか?
自分と同じような手法で、
取り立てて上品でもなく、ごくありきたりの食べ方をしているにも関わらず、クロワッサンをボロボロこぼさずに完食する端正と言っていいこの食後の状態は、いったいどうしたことだろう?
さながらクロワッサンを整然と食べることのみ過剰にインプットされた女性型A.I.が食べた跡のように整然としている。
光はそれを見て思わず涙がこみ上げてくるのを禁じ得なかった。
“いつだってそう、
小さい時からそうだった!
私はお姉ちゃんにどうしても敵わない、お姉ちゃんが何気なくやったことさえも私にとってはまるでエベレスト登頂に等しい!
こんなことってある?
だってお姉ちゃんはただクロワッサンを食べただけ、
ああ…ただそれだけなのに……”
姉の前にあるのっぺらぼうみたいに白い皿を見つめる光の視界が、やがて泪でぼやけて見えなくなった。
『あ〜あ〜光、
あんた食べ方が汚いわねぇ相変わらず子供っぽい食べ方なんだから、パンくらいちゃんと食べられないの?』
笑いながら布巾を渡そうとそう言った母の言葉が終わらぬうちに、光は椅子を蹴って勢いよく立ち上がるとこう言った。
『私、明日の夕方には帰るから、今はもう休ませて、
夜行に慣れてなくてあまり眠れなかったから疲れてるの』
『えぇ〜…明日!…そぉんなぁ…』
という父の今にも泣き出しそうな声と『大丈夫よ後でちゃんと説得するから!』
という逞ましい母の声とが錯綜する中、光はふと姉の瞳の幼い頃から見てきたあの不思議で奇妙な現象を、そっと悔し涙に滲む視界の端で再び盗み見た。
姉は長く濃い睫毛をゆっくり臥せるその一瞬、ごく稀にではあるが、あの悲しみを装った優美な微苦笑という色青褪めた仮面の下で、薄蒼い半透明の猫のような瞬膜を、ほんの数秒、その瞳によぎらせるのだ。
まるで人間ではない“何か”見知らぬ生き物のように…
《第三話終わり》