【秋田県大潟村】「干拓博物館」で学ぶ日本史上最大の干拓事業の軌跡
かつて秋田県には、日本で2番目に大きな湖があった。
湖の名前は八郎潟。
北東北の伝承では、龍になったマタギ八郎太郎が作り上げたと伝わっている。
この湖は第二次世界大戦後の干拓により大きくその面積を縮めたものの、現在も残る八郎潟調整湖ですら日本で18番目に大きな湖沼に数えられている。
現在ではまず考えられない、日本史上最大の干拓事業。
それを記録した博物館である干拓博物館が、秋田県大潟村に存在する。
まずこの博物館がある大潟村の成立経緯がすごい。
八郎潟の干拓事業で生じた土地、それが1つの村として独立したのが大潟村だ。この村は全て、かつては八郎潟だった場所なのだ。
この経緯から大潟村は市町村合併などで元々あった市町村の名前が変わったパターンを除くと、日本で1番最後に増えた市町村でもある。
なお大潟という名前は八郎潟のかつての呼称から来ているとのことだ。
新しい村が1つできるほどの規模の干拓、と書くとあらためてその規模の大きさが分かると思う。
面積こそ広いが全体的に水深の浅い八郎潟の干拓は、江戸時代から幾度となく構想が練られており小規模なものであれば実現したものもあった。しかし大規模なものとなると、費用や技術などの問題で長らく実現には至っていなかった。
しかし第二次世界大戦後、オランダからの協力を得て食糧難の解決と雇用の確保を目的に遂に八郎潟の干拓事業は遂に実行に移された。
なおこの事業が行われたのは上述の理由のほかに、当時のオランダは植民地であったインドネシアを占領されたことから対日感情が特に悪く、日本の主権を認める条約の署名にも難色を示していたという背景がある。
八郎潟の干拓事業の技術協力費は事実上の賠償金としての側面もあり、最終的にオランダは1951年のサンフランシスコ講和条約の署名に参加した国の1つとなった。
さて、男鹿半島およびその周辺は男鹿半島・大潟ジオパークとしてジオパークに登録されている。
男鹿半島・大潟ジオパークの説明パネルの向かいには、干拓事業による八郎潟の変化の様子が航空写真などと共に展示されている。
ここまでは地理や干拓の歴史などマクロな視点のものが多かったが、ここからは具体的な干拓の手順や入植者達の生活の様子など、よりミクロな視点の展示が中心となっていく。
この奥には農作業の様子を描いた等身大のジオラマがあるのだが、これの迫力が凄かった。
これを見れただけでもこの博物館に来て良かったと思ったほどだ。
一番奥には肝心の成果物である米に関する展示がある。よくコンバッグと呼ばれる米の運搬容器が堆く積まれた様子は、写真ではわかりにくいが実物はこちらもなかなかの迫力がある。
そして最後に、大潟村に生息する生物についての展示があるのだがここにある剥製がすごい。
以前に男鹿水族館の記事でも描いたが、秋田県内の博物館などで展示されている剥製などの標本は、全体的に動きや毛艶が生き生きとしている気がする。
よほど腕のいい剥製師がいるのだろうか。
おそらく全国的な知名度はさほど高くないと思われる八郎潟の開拓事業。
食の欧米化による米の消費量の減少や品種改良による単位面積あたりの収量の増加などから減反が推奨される現在となっては、功罪のうち罪の部分がフォーカスされることも多い。しかし高度経済成長期の日本の食と雇用を支えたと共に、工事のノウハウの蓄積など様々な知識を得て、それらが積み重なった上で我々の生きる現代がある。
どこの市町村でも調べれば大抵面白いものは何かしら見つかるものだが、中でも大潟村の歴史的経緯と生まれた地形の特異性は、どれだけ言葉で説明しようとしても実際に訪れて感じた衝撃を語り尽くせない。
是非前提知識を持った上で一度行ってみて、車で走ってみて欲しい。そうして初めて分かる途方もない衝撃がある、そういう場所がこの村だと思う。
そして村を訪れる際は、是非この博物館にも行ってみて欲しい。