【岩手県北上市】北上市博物館とみちのく民俗村資料館
先日記事にした岩手県北上市にあるみちのく民俗村。以前の記事では数々の古民家にフォーカスしたが、記事内に書いた通り同施設内には北上市博物館とみちのく民俗村資料館が存在する。
今回はこの2施設の紹介を行いたい。
北上市博物館はみちのく民俗村内、駐車場を出て右手に進み、Y字路を左に進んでなだらかな坂を登った先にある。
なお、北上市博物館はもう1つ分館が存在する。本館に当たるみちのく民俗村の博物館はから車で30分ほどの距離の場所にある、北上市博物館 和賀分館である。
本館であるこちらは北上市の歴史にまつわる展示が中心となっており、剥製や標本といった自然科学分野の展示については和賀分館で行われているので注意してほしい。
北上市博物館に入って真っ先に目に入るのは、館内から見ることができる外に展示された大きな船だ。
かつての北上川では、物資輸送のための船が盛んに行き来していた。北上市博物館、並びにみちのく民俗村のすぐ目の前には桜の名所として知られる北上川展勝地が広がっている。
なお北上市がポケモンSVのDLCである "翠の仮面 "の舞台である「キタカミの里」のモデルになった縁もあってか、来年2025年4月には北上展勝地に久慈市に次ぐ2つ目のイシツブテ公園が作られる予定らしい。
そしてこの展勝地の向かいには、かつて盛岡藩最大の港があったという。
もちろん内陸部にある北上市。ここでいう港は海に面したものではなく川を利用した水運に用いられてきたものだ。現在でこそ川を用いた水運は荷物の運搬用途には滅多に用いられなくなっているが、かつては重要な貨物輸送手段だったのだ。
北上市博物館の展示コーナーは、まず国見山廃寺跡に関係する展示から始まる。
国見山廃寺跡はその名の通り、山中にかつて栄えた寺院の跡がいくつも並んだ場所だ。位置としては北上市博物館からも非常に近くちょうどみちのく民俗村のちょうど裏手にある。
国見山の寺院は平安時代、9世紀の中ごろに始まったと言われ、10世紀頃に最盛期を迎えた後に12世紀には衰退して現在に至ったという。あくまでも伝承の話ではあるが、最盛期には700を超える僧坊が集まり、36の堂塔により構成されていたという話が伝わっている。
かつての東北地方は朝廷からは蝦夷地と呼ばれ事実上独立していたが、8世紀ごろから朝廷の支配の影響が強まり9世紀の初頭には現在の奥州市に胆沢城が建てられその後は10世紀半ばまで蝦夷支配の拠点となった。
国見山廃寺は胆沢城で行われる仏教儀式を行う僧侶たちが、山岳で修行を行うために開かれたものだと言われており、胆沢城が現在見つかっている寺院の採掘品は9世紀から胆沢城が10世紀頃にかけてのものが多いという。
当初は小さな山寺であった国見山廃寺はそこから100年ほどかけて整備が進み、10世紀頃には当時の北東北で最大級の寺院にまで発展する。
この時期は伊沢城の役人であった安倍氏が北上盆地周辺を支配しており、安倍氏が国見山廃寺の発展させたと言われている。
しかし安倍氏は朝廷に従わなかったことから10世紀の半ばに起きた前九年合戦により陸奥守として派遣された源氏と、出羽国 (現在の秋田県から山形県にかけてのあたり)の豪族であった清原氏に滅ぼされる。
この戦いにより国見山廃寺は一度全焼するも、その後の支配を受け継いだ清原氏により再建される。
しかし清原氏はその後30年ほどで内部分裂し、その分裂は朝廷を巻き込み10世紀の終わり頃には後三年合戦に発展。
この合戦の勝者となった清原清衡は藤原清衡へと改名し、奥州藤原氏の初代当主となる。
その後の奥州藤原氏は平泉へと拠点を移し、12世紀の初めに中尊寺が建立される頃には国見山の寺院は衰退していたという。ある意味では国見山廃寺はユネスコの世界遺産にも登録されている、中尊寺のルーツとも言える地なのだ。
その後も前述した通りに江戸時代の終わりに菅江真澄が国見山を訪れた際、地元の老人からこの地にかつて存在した寺院の話を聞くなど伝承は続いていたようだ。そして1936年に行われた道路改修工事の際に瓦の破片が見つかり寺院の場所が推定され、戦後には1963年から本格的な発掘調査が始まり場所が確認された。その後も度々調査が行われ、2004年には国指定史跡にも指定されることとなった。
続いて時代は遡り樺山遺跡 と八天遺跡 を中心にした縄文時代に関する展示のコーナーだ。
樺山遺跡と八天遺跡とは北上市博物館を挟んでそれぞれ南北に存在する縄文時代の遺跡であり、どちらも北上市博物館からは車で10分ほどの場所にある。
樺山遺跡は約4000年前と約5000年前の遺跡の遺跡が並んでいる場所であり、北上市博物館からは南側にある。一部は当時の建物などが再現されており、実際に現地に行っても楽しめるスポットだ。
集落の近くではいわゆるストーンサークルが見つかっている遺跡でもあり、見つかっているものなどからストーンサークルの正体は墓地ではないかと言われているそうだが確定的な証拠は見つかっておらず今後の調査が楽しみな遺跡でもある。
八天遺跡は約4500年前から約3200年前に作られたと考えられている遺跡であり、大規模な集落の痕跡や、直径13mを越える大きな円形の建物や墓の痕跡などが見つかっている。
続いての展示コーナーは江釣子古墳群。
江釣子古墳群は北上市博物館からは車で15分ほどの場所にある場所だ。個人的には江釣子というと数年前にこの辺りに移転した50年前から続くロシア料理の名店トロイカや、ショッピングセンターPALがあるあたりというイメージが強い。
江釣子古墳群は7世紀後半から8世紀前半、東北地方に朝廷の支配が強まる直前の遺跡群だ。
朝廷の中心が奈良にあった時代であることから義務教育では「奈良時代」と習った記憶がある時代ではあるが、この時代でも東北地方や九州地方では古墳を作る文化が残っていた。
なお古墳が作られなくなったのは一般的に仏教の普及で宗教儀式の場が古墳から寺院に移ったためだと言われているらしく、この辺りにもこの直後に始まる国見山廃寺の時代への系譜を感じ取れる。
こうして発掘品を見ていると朝廷の支配下に置かれる前から既に日本各地や大陸との交易があったり馬に関する文化が発展していたりと、自分が子供の頃に有していたこの時代の東北地方のイメージとはだいぶ印象が異なる。
自分が小さい頃に通っていた小学校の図書室にあったような、明らかに昭和の時代に作られたであろう既にボロボロの古い学習漫画では、この時代の様子を野蛮で醜い蝦夷の人間を朝廷の人間が啓蒙するような描かれ方をしていた印象が強く、学生時代の自分が明確に歴史嫌いであったきっかけの1つだったと記憶している。
昨今の縄文ブームも含め、近年の縄文時代の東北地方の描かれ方は正直なところ美化がいささか過剰であるように感じているが、こういった過去の揺り戻しという部分も大きいのかもしれない。
続いて最初に紹介した国見山廃寺跡や奥州藤原氏の時代であった平安時代と鎌倉時代の初めを飛び越えて、和賀一族の時代へと移る。
和賀氏は源頼朝により奥州藤原氏が滅ぼされた後、安土桃山時代まで300年以上に渡り北上周辺を支配していた一族だ。
300年以上続いた和賀氏による統治であったが、1590年に豊臣秀吉による北条氏攻撃への動員に参加しなかったことから領地を没収され、和賀氏統治の時代は終わる。
和賀氏の領地を含む現在の岩手県南部地域の諸大名の領地は南部藩と伊達藩に編入され、その後も藩境については水利権などの問題もあり50年余りの混乱の時代が続いていたが、1641年に藩境が置かれることとなった。
こうして南部藩と伊達藩の藩境となった北上。展示のテーマもここからは南部と伊達の藩境のくらしになっていく。南部藩と伊達藩の藩境は現在もかなり明確に残っているが、これは全国的にもかなり珍しいとのことだ。
みちのく民族村内にも旧仙台藩寺坂御番所が移築・展示されているが、かつての藩境には双方に番所が置かれて行き来する人や物資に対して厳重な監視が敷かれていたらしい。
一方で前述した通り、南部藩側の北上川は非常に水運が盛んであった。最後の展示コーナーは、この北上川舟運に関する展示だ。
以上が北上市博物館で解説されている内容の大まかな流れと、展示物の一部の紹介だ。このほかにも北上市博物館では定期的に企画展も行われており、訪れた際はそちらも見逃せない。
そしてみちのく民俗村にある、もう1つの多数の歴史資料を展示している施設がみちのく民俗村資料館だ。
建物自体は昭和初期に建てられた旧黒沢尻高等女学校の校舎を移築したものであり、中にはかつて北上に生きた人々の様々な生活用品が多数展示されている。
最初のコーナーは農作業のような「外の仕事」のコーナーだ。農作業道具を中心に、運搬具や茅葺き屋根をかけるための道具などが展示されている。
続いて中の道具、すなわち室内作業で使われていた道具の解説コーナーだ。
ここからは階段を登り2階へと移る。
2階にまずあるのは家の暮らしコーナー。下のフロアにあったのは仕事に使われていた道具だが、この辺りには生活の上で使われていた道具が展示されている。
続いては商家と職人の暮らしコーナー。
ここまでの展示は主に農民の暮らしに関係したものだったが、勿論農民以外の仕事をしていた人もたくさんいた。
そして勿論、旧黒沢尻女学校のコーナーも小さきながらもある。
1919年に設立されて以降はしばらく女学校として運営されていたが、その後は幾度かの統廃合などを経て、2004年に新校舎に移ると共に男女共学の北上翔南高等学校となり現在に至っているらしい。
最後にはみちのく民俗村の初代村長である、森林学者のどろ亀さんこと高橋延清に関する展示がされていた。
高橋氏は現在の岩手県西和賀町に生まれ、北上市の黒沢尻中学校に通った彼は東京帝国大学を経て東京大学の北海道演習林の林長に着任その後は実践や現場観察を重視し、林業の発展や自然保護に多大な貢献を行なった。
1992年にみちのく民俗村ができてからは2000年まで村長を務め、講演などを行なってきたようだ。
近年観光人気が一層目覚ましい岩手県にあり、様々な作品の「聖地」となっている北上市。来年以降もその勢いは止まることを知らないだろう。
そんな北上やみちのくの歴史や魅力に触れられるみちのく民俗村。この街を訪れる際は、この村のこともぜひ訪れてみてほしい。