風を待つ<第7話>鷹の目をした男
大海人皇子に屈しなかったおのれを誇りに思った。
皇祖母尊に脅された、夫を人質にとられたと泣きつくこともできたが、しなかった。
――私を脅かすことはだれにもできぬ。
いまはだれも見ておらぬから、震えていてもかまわぬと、文姫はおのれの肩を抱き、ねぎらっていた。
大海人皇子は、どんな思いで一夜を過ごしたのだろう。失った寵姫を思い出し、泣きぬれているのだろうか。
苦しそうな大海人皇子の声がまだ耳元に残っている。
――まことに愛していたのだ、皇子は……
額田王という寵姫を心の底から愛していたのだ。だからこそ似非者の女を許せなかった。真実の愛をかき乱され、文姫に殺意を向けた。
恋をしているとは、あのようなことをいうのか。
いつか侍女に指摘されたことを思い出していた。文姫と金春秋の房事を見て、侍女たちが囁いていたことを。
『文姫さまに愛を向けてくだされば』
あのまま、大海人皇子が文姫を迎え入れていたら、どうなっていたであろう。文姫は皇子の手で愛され、まことの愛を知ることができたのだろうか。
采女たちが帷の向こうに座っている。拘束はされぬものの、文姫は囚われている状態に近い。
――これからどうなるのだろう。
大海人皇子は皇祖母尊に会い、文姫のことを何と言うつもりだろう。夫の金春秋の件も、あの皇祖母尊がたやすく解放するとは思えなかった。
床にひとりで寝転がり、朝を迎えた。寒さを感じるほどの涼しい風が寝所に入ってくる。森に囲まれた宮なら、夏も涼しく過ごせるだろう。だが、快適な夜は一夜限り。明日には文姫も捕縛され、金春秋と碧海へ流されるかもしれない。
失敗……とは思いたくなかった。ここでおのれが死んだとしても、金春秋だけは新羅へ帰したい。金春秋が帰国すれば、兄の庾信に倭国のことを伝えられる。文姫が死んでも、新羅の損失にはならない。だが、夫はちがう。
――あのひとは、新羅の英雄になる男だ。
夫への愛などこれまで感じたことはなかった。それでも今、たまらなく愛おしい。必ず生きて、夫を新羅へと帰すのだ。それまでは死ねない。
乱れた髪をすいて、用意された衣裳に着替えた。采女を呼べば何もかも手伝ってくれるのだろうが、慣れた侍女にしか触れられたくなかった。
いつまでも髪をすいていると、采女が様子を伺いに来た。
「大海人皇子がお呼びです」
どくん、と胸が鳴った。
部屋から出て、庭を渡り、階を上がる。その奥には御簾のかかった台が置かれている。しんと静まった部屋で平伏して待つと、黒い表袴《うえのはかま》の男が入室した。その男は台の横に座る。伏せていても、するどい眼差しで睨まれているとわかる。
中臣鎌子だ。
中臣鎌子の鷹のような目を思い出す。あの目は苦手だ。鎌子の目に睨まれれば、文姫は小動物のように身を竦めるしかない。
鎌子のあとに、大海人皇子が入室した。朝の光に赤い袍があざやかだった。御簾の奥に座るのかと思えば、大海人皇子は、文姫の前にすっと座った。
「世子嬪、ゆっくり眠れましたかな」
顔を上げると、皇子の眼窩には隈がある。眠れなかったのはお互いさまだ。
「ええ、皇子もよくお休みになられたようで」
文姫のとげのある物言いをかわし、大海人皇子はちらりと中臣鎌子を見る。
「鎌子。世子嬪の申すには、金春秋殿が母上に捕えられているらしい」
「は」
後ろに控えていた中臣鎌子は静かに礼をした。
「由々しき事態である。はよう金氏を解放するように、そなたからも上申しておくれ」
「……は」
鎌子は小さく返答しただけだ。
大海人皇子は、これで勤めは果たしたとでも言わんばかりに、ほっとした表情で笑っている。
だが文姫はまるで納得できない。
「は、ではわかりませぬ。鎌子殿」
「は……?」
「金春秋は、倭国との国交のため新羅から参りました。新羅としての誠意を示すため、皇祖母尊の御前にて、私と中大兄皇子との婚姻をお約束したはずでした。しかしどのような経緯か、夫は皇祖母尊に捕えられ、私は大海人皇子の宮へ召されることとなった。その事情をきちんとご説明いただきたい」
鎌子はぴくりとも表情を変えぬまま、文姫に視線を向けている。文姫は続けた。
「夫は真智王の孫、新羅真骨の王子です。たとえ我が夫を解放していただけたとしても、正当な理由なく捕縛したとあれば、女王もお怒りになるでしょう。それでもよいのですか」
脅しをかけたつもりだった。だが鎌子は固い表情のまま、文姫に言った。
「申し訳ございませぬ。しかしながら、いくつか誤解をされているようでございます」
「誤解とは」
「金氏は、中大兄皇子の近江大津宮にてご宿泊いただいております。皇祖母尊が非礼をはたらいたとは、臣は認識しておりませぬ」
「……なんですと」
瞠目する文姫を前に、大海人皇子も動揺している。
「鎌子、まことに兄上様のもとへ金氏はおるのか。捕縛などしておらぬのだな?」
「は」
「莫迦な。夫は飛鳥宮から忽然と姿を消した。皇祖母尊に捕えられ、近江大津宮へ引致したのであろう!」
「はあ、捕えられたと仰いますが、その様子をご覧になったのですかな」
「……夫が私になにも告げずに近江へ向かうはずがない。捕えられ、強制されたのだ」
鎌子はふっと苦笑した。その嘲笑に文姫は心を抉られる。
たしかに、金春秋が捕縛されたところを文姫は見ていない。何を言っても鎌子にさらりとかわされ、文姫の勘違いだと笑われるだけだ。鎌子の弁舌には敵いそうもない。
皇祖母尊の声が文姫の頭にひびく。
『新羅の王子など、倭国のだれも見ておらぬ。途中の海で遭難したのであろう、と私が言えば、それが真実になるのじゃ』
――そういうことか。
文姫が喚こうと暴れようと、皇祖母尊の手のひらの上にいるだけだ。皇祖母尊には中臣鎌子がいる。この鷹のような男が目を光らせれば、死があるのみ。
大海人皇子が、じっと文姫を見つめている。
「近江大津宮まで遠くない。会いに行けばよかろう」
「……え?」
会いに行けとは? そんなことが可能なのか?
大海人皇子の言葉に耳を疑う。まるで散策にでも行けというような口調だが、近江大津宮に捕えらている夫に会いに行くなど、可能なのだろうか?
文姫が唖然としていると、大海人皇子は優しく笑う。
「なにを躊躇うことがある? 金氏は兄上の宮にいるというのだから会いに行けばよい。そうすれば誤解も解けるのではないかな?」
――誤解、ではない。
皇祖母尊はまちがいなく金春秋を捕縛したのだ。これは文姫の誤解などではない。否定しようとしたが、のんきな大海人皇子を前にしていると、だんだんと文姫だけが誤解して騒いでいるような錯覚に陥る。
中臣鎌子は無表情のままで、何も言わなかった。皇子の御前で差し出がましい発言は控えているだけだろうが、この大臣はいったい何を考えているのやら、まるでわからない。
「会いに行ったところで、会わせてはもらえませぬ。夫は捕えられたのですから」
そうであろう。皇祖母尊がすんなりと金春秋に会わせるとは思えなかった。中大兄皇子の近江大津宮にいるとはいえ、捕えられている事実に変わりはない。会いに行けば、文姫も捕縛されると考えたほうが自然だ。
「そんなことはない。なあ、鎌子」
「は」
鎌子は相変わらず短く返答するのみである。
「世子嬪がゆけば、酒宴でもひらいてくれるさ」
文姫はもはや何を言う気にもなれず、黙って唇を噛んでいた。
「母上には、吾から話をしておく。何も気にせず、そのまま兄上の宮へ入るがよい。最初から兄上の妻となる予定だったのだろう。吾もそうしてもらうほうがありがたい」
「私は要らぬ、と仰せですか」
あまりの言い様に文姫はぎゅっと胸が締め付けられた。大海人皇子の態度は、文姫をやっかいもののように追い出そうとしている。貢物など要らぬ、兄上のもとに送ってやれとでも言わんばかりに。文姫の価値を否定されたような、屈辱的な気分だった。
「要りませんよ……」大海人皇子は苦笑する。「容貌は額田王そのものだが、あなたは、吾の愛する額田王とは違う。あの者は、あなたのように尖ってはおらぬ。もっと柔らかな娘で、ともに過ごすと癒される。そういう女だった」
文姫は呼吸をとめた。大海人皇子の声は静かに突き放すものだった。
「吾の記憶に残る額田王を、穢さないでいただきたい。……あなたがいると、心が乱されます。吾がこの先、あなたを妻にすることはないでしょう」
きっぱりと言い切られ、全身から血の気が引いた。さすがに言いすぎたと思ったのか、なぐさめるように文姫に笑顔を向ける。
「兄上は額田王に惚れておりました。何度も、額田王をよこせと言ってきたくらいですから。きっとあなたのことを愛してくれますよ」
大海人皇子は文姫を残し、「鎌子、あとを頼む」といって退室していった。
凍りつき、身動きのできぬ文姫を、中臣鎌子が憐れんだ目で見ている。
「……すぐに出立されますか?」
「行かぬ」
強がって言い捨てたものの、大海人皇子に要らぬと宣言された以上、文姫は湯沐邑から出ていかねばなるまい。
「悪いことは申しませぬ、ここから早く出たほうがよろしいかと思います」
これまで寡黙だった中臣鎌子が、長い言葉を口にした。文姫は驚き、顔を上げる。
「皇祖母尊は新羅人をきらっております。額田王に似たあなたが、大海人皇子につめたくあしらわれることなど承知の上でしょう。大海人皇子に非礼をはたらいたとすれば、あなたを殺す理由がつくれますからね」
「……」
「大海人皇子が皇祖母尊へ話をしにいくより前に、ここを脱出するべきです。さいわいにも大海人皇子は母君の策略に気づいておられません」
「皇祖母尊に話が伝われば、私は……」
「消されます」
鷹のような目つきだったのに、中臣鎌子の目には禍々しい光はなく、文姫を優しく見つめている。鎌子の変化が理解できなかったが、大海人皇子を前にしては、何も話せなかったということか。
「やはり夫は捕まっておるのですか。私が行けば、ともに新羅へ帰国できるでしょうか」
文姫はすでにかすかな希望を抱いている。中臣鎌子は大臣の中でも位の高い内臣だと聞く。新羅との外交に亀裂を生じさせぬよう、金春秋を丁重に解放してくれるのではないか。
「皇祖母尊は、きまぐれに金氏を殺しかねません」
鎌子は少し嘆息する。
「あのお方には、百済や新羅、高句麗の情勢など、なにも見えておりませぬ。あのかたはもともと巫女ですから、そういった外交の事情には関心がないのです」
「そんな!」文姫は絶句した。やはり夫は緊迫した状況にあったのだと知り、少し安堵した。おのれの錯覚ではなかったのだ。文姫の訴えは正しかったのだ。
そして、皇祖母尊が巫女だったとの言葉にも納得した。倭国の神はどのようなものか知らぬが、皇祖母尊は祭祀をおこなう女帝だったのだ。新羅の女王とは異なる、皇祖母尊のかざりけのない衣裳や白い顔。宮に仕える美しい采女たち。どれも女王と呼ぶより、巫女に相応しいものであった。
「しかし皇祖母尊は退位されたのでしょう? 倭王はいま、どうされているのです。倭国は、皇祖母尊が実権をにぎっておるのですか?」
「いえ、実権――といえば、それは中大兄皇子にこそ実権がございます」
鎌子によると、倭国の王というものは、そもそも祭祀をおこなう王であり、政治の中心にはいない。政治は大兄の称号を持つ太子か、大臣が中心となる。
「金氏はうまく中大兄皇子を頼って逃れられました。ですから、あなたさまも早くここを脱出したほうがよろしい」
第8話へ続く