風を待つ<第1話>人質
645年(仁平12年)11月――
新羅王宮・月城の庭。
生まれたばかりの赤子を抱いて、文姫はしあわせに包まれていた。
おのれの身体からひとつの生命が生まれた。文姫の持つすべての力を奪い取ったかのように、赤子は生きる力に満ちあふれている。柔らかな肌はみずみずしく、芽吹いたばかりの葉を連想させる。ふたつの目は清らかで、にごりのない黒曜石のよう。肉付きのよい指に生えた小さな爪。おのれの爪が珍しいのか、赤子はじっと手をみつめている。
赤子は「法敏」と名付けられた。父親は、真智王(新羅二五代王)の孫、金春秋だ。いずれ新羅王になる男。それが文姫の夫だ。
「この子さえいれば、新羅のすべては私のものだ」
王妃となり、さらに次王の母となる。栄光は長く続くだろう。文姫は法敏を抱き抱え、くるりと回った。笑いをこらえていても、しぜんと微笑んでしまう。
「文姫さま、そろそろ……沐浴の刻限です」
侍女が近づく。
法敏が文姫の手を離れ、侍女に抱きあげられた。
善徳女王の祝福を受けるため、衣を召し替えるのだ。
昨夜は夫である金春秋が、文姫の産褥の部屋へ見舞いに来た。だが、祝福の言葉をかけると、すぐに出て行った。
文姫が先の男児を産んだときには、目に涙をためて喜んでいたのに。
(まあ、いいわ)
夫の愛など、文姫にはもう必要ない。正妃の地位と、王となる男児がいれば。それ以上のものが必要だろうか?
金春秋にとっては五人目の子であるし、もはやなんの感情もないのだろう。
金春秋には先妻がいた。
先妻は、男児を産んだあとの肥立ちが悪く、産褥死した。
ほかにも妻がいるが、まだ男児を産んでいない。
つまり文姫の産んだ男児が健やかに育てば、金春秋の後に新羅王となるだろう。
(私の子が、新羅王となる)
文姫はきらきらと光る百日紅の葉を眺めながら、喜びをかみしめている。
「文姫。ここにいたのか」
呼ばれて振り返ると、兄の庾信が立っていた。
「身体はどうだ……?」
妹の身体をいたわる優しい声。文姫の好きな声だ。その声が、ほんの少しだけくぐもっている。
感の良い文姫はすぐに、これはなにかある、と察知した。
「おかげさまで肥立ちも良く、もう日常の生活をしてよいそうですわ」
にこやかに拝して返答すると、庾信も笑顔を返した。
「そうか。おまえは健康でよい。難産だったと聞いたが、元気そうで何よりだ」
「ふふ。まだまだ男児を産んでみせますわ」
一人よりも二人。
男児は多ければ多いほどよい。
文姫はまだ十七歳になったばかりだ。三人でも四人でも、子を産んでみせる。
誇らしく微笑んだ文姫に、庾信は「うむ……」と弱く返答した。
「文姫。――その件だが」
(やはり、何かある)
文姫は背すじを伸ばした。やはり庾信は重大な何かを、文姫には伝えにくい何かを、言葉を選び、伝えようとしている。
「おまえに重要な任務を頼まねばならん。聞いてくれるか」
「はい。何なりと」
月城の庭は静寂に包まれている。
小さな鳥の声に消えそうなほどの声で、庾信は言った。
「おまえに、倭国へ行ってもらいたいのだ……」
「え?」
倭国?
南にある小さな国。倭国、と庾信は言ったのか?
「倭国に、私が?」
文姫の視線を避けるように、庾信は空を見上げた。
「月城を一歩出れば、新羅は戦場だ。――知っているだろう」
もちろん知っている。
百済で義慈王が即位してからというもの、新羅への激しい攻撃が続いている。三年前には、伽耶地方の約四十城が百済の手に落ちた。その中には、金春秋の親族が城主を務める大耶城もあった。新羅兵だけでなく、大耶城に暮らす老人や女たちも百済兵の手に掛かり、無慚な死を遂げた。
善徳女王は激昂し、ただちに百済を滅亡させると息巻いた。
だが百済は強国である。現在の新羅の兵力では、押される一方であった。
「殿君は唐国からの援軍を得られるように交渉されているが、うまくいかぬ。そこで――」
庾信はつらそうに顔をゆがめる。覚悟したように文姫に向き直ると、
「倭国と同盟をむすぶ。そのために、おまえに人質になってほしいのだ」
庾信の目には涙が光った。
「待ってください、兄上。人質だなんてそんな……私は、殿君の子を産んだばかりなのですよ⁈」
「わかっている」
文姫はことばを失って、その場に座り込んだ。
これは決定事項なのだ。文姫が抵抗しても、怒っても泣き叫んでも、もう決まったことなのか……
「産後間もないおまえには酷だが、おまえにしか、頼めぬ」
なにかに助けを求めるように、文姫は庾信から目を逸らした。尚宮や侍女たちが遠くに控えている。尚宮は声をたてずに涙をこぼしていた。
倭国へ人質として行けとは。人質として倭国へ行き、倭王へ嫁げという意味であった。
――野人への降嫁
そんな言葉が文姫の頭をよぎった。
「野蛮な倭人に嫁げというのですか! それは殿君の意向ですか? 正妃を人質になど、聞いたこともありません」
無駄とわかっていながらも、文姫は抵抗した。
兄の庾信は、花郎(武芸や歌舞に秀でた貴族集団)の長として女王を支える将軍だ。庾信の命令には逆らえない。それでも、それでも。
「私は新羅王の正妃となるのです。兄上の悲願でもあったはず。それなのに……」
「むろん、おれも文姫にはこのまま新羅にいて、殿君と仲むつまじく暮らしてほしいと思っている。だがこのままでは新羅は滅びる。そうなっては、何もかもおしまいだ」
「滅びる……」
それほどまでに百済との戦況がよくないのか。
月城にまで百済兵が襲いかかるようすを思い浮かべ、文姫はぞっとした。滅びる? 新羅が? そんなことがあってなるものか。
「百済は高句麗とも手をむすび、いよいよ新羅をつぶすつもりだ」
「唐国からの援軍は……?」
「絶望的だ。援軍は、女王の廃位と引き換えだそうだ」
庾信は首を横に振った。
唐国は新羅の女王をこころよく思っていない。女王を廃位し、親唐派の新羅王を即位させよという。そうなれば唐国の思うつぼで、庾信はかたくなに拒んでいる。
「でも兄上、倭国と同盟などしてどうするおつもりです? あんな小さな島国と同盟したところで、何の助けにもなりませんよね?」
文明もおくれた野蛮な国。文姫はそう聞いている。
「援助してほしいのではなく、百済と手を結ばせないためだ」
万が一、倭国からも攻められれば、新羅はもう逃げ場がない。
いざというときの退路を――女王を亡命させるための道を、庾信は確保したいのだろうか。
そこまで追い詰められているのだ、新羅は。
妹を人質に捧げるなど、庾信が好きこのんで行うはずがない。やむにやまれぬ事情で、心がつぶれそうなほど苦しんで、悲痛な思いで文姫にたのみにきたのだろう。
「たのむ」
(兄上……)
文姫もまた、胸がはりさけそうだった。
それでもまだ文姫は、「はい」と返事をすることができない。
「妹の宝姫では、だめなのですか」
文姫には妹がいる。宝姫という十四歳になる妹で、金春秋の後宮に入っているものの、まだ寝所には呼ばれていないようだ。
人質として差し出すならば、宝姫のほうが適任ではないか。
庾信は文姫をまっすぐに見つめ、それから首を横に振った。
「宝姫では、だめだ。美しく、才智ある女でなければ務まらぬ」
妹は、ひいき目にみても美しいとはいえなかった。おとなしく従順な性格であるので、よき妻にはなると思う。だが、倭国にも美しい女は数多にいるはずで、妹を倭王に差し出せば、新羅は醜女ばかりだと嘲笑されるかもしれない。
新羅の恥とならぬよう、美しい娘でなければならない。
美しさと才智で選ばれたことに、文姫の矜持は少し回復していた。
「それに、正妃を捧げることに意義がある」
ただ美女を捧げるだけならば、ほかにいくらでも女はいる。金春秋はあえて正妃を捧げることで、倭王との強いむすびつきを求めているのだ。
「しかも、倭国ではどうやら変事が起きている。百済と交流のあった蘇我氏が滅ぼされたようだ。倭国の女帝は退位したとの風聞もある」
「変事に乗じて、新しい倭王と交誼を深めようというのですね」
「そういうことだ」
王が代われば、国も変わる。
これまで新羅とは交流のなかった倭国と、これを機に有効な関係を築けるかもしれない。
同盟が成功すれば、滅びゆく新羅の運命を変えることができる。
(ならば、だれにも任せられぬ)
いずれは新羅王の王后として、女としての幸福をすべてこの手に収めるはずだった。しかし、新羅の危機を乗り越えなければ、文姫の栄光は永遠におとずれない。
文姫の降嫁によって新羅を救えるのであれば、涙を流している場合ではなかった。
「承知しました。倭国へ参ります」
「文姫……」
庾信の目が潤んだ。
庾信は、文姫の表情を注意深く伺っている。文明は平静を保ったつもりであったが、顔がひきつり、うまく笑えなかった。
震える声を押し殺して、文姫は言った。
「ですが、私はいつか必ず新羅へ帰ります。たとえ倭王の妻となっても、新羅王の王后として、いつか必ず呼び戻してくださいませ」
文姫はせいいっぱいの笑顔を作った。金庾信は、拳を合わせて膝をつき、文姫に跪拝した。
「約束する。百済を討ち破り、おまえを迎えに行く」
必ずだ、と庾信は力強く言った。
文姫もまた、兄に重なるようにして深く礼をした。侍女たちのすすり泣く声が聞こえる。文姫はまっすぐに前を向き、もう涙は流さぬと決意した。
なにも悲嘆することはない。任務を果たし、必ず帰国する。
そのとき文姫は、誇り高き王后として迎え入れられる。
(私が新羅を守ってみせる)
潤んだ兄の目を見つめながら、文姫は強く誓った。
第2話へつづく
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