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風を待つ<第4話>酒宴

 飛鳥板葺宮は、広く平らな地に、ぺたりと沿うように建てられている。
 
 瓦葺きの新羅王宮・月城ウォルソンとは異なり、飛鳥板葺宮は木の板で張られていた。一見、質素な造りだが、内部は想像よりもはるかに美しかった。

 風が吹くたびに、新しい木のにおいがする。
 采女うねめと呼ばれる侍女たちは、草花のような色のひらみと、ひだのある裳を身につけている。つややかな髪は後ろで束ねているだけだった。

 着飾った新羅の女よりも質素だが、美しい。

 金春秋と文姫が飛鳥宮の奥で待っていると、皇祖母尊が静かに入ってきた。

「遠路はるばる、ようこそお越しくださいました――」

 よく通る声。白い袍に金糸で刺繍されたもとほり、裳も白い。長い髪は紐でむすんだだけ。采女の姿とほとんど変わらぬ、飾り気のない乙女のようだった。勇ましい新羅の女王とはまったく異なる容貌の女――。

(これが、倭国の女帝だった女か)

 新羅の王族ならば、編み込んだ髪をぐるりと高く巻き上げ、金銀の簪で飾りつける。特に、王后にしか許されぬ「鳳簪」はみごとなもので、鳳簪で髪を巻き上げることは、女たちの憧れであった。

 それなのに、倭の女帝だった女の髪は、なんとさみしいことか。文姫もこれからは、簪をとり、このような質素な髪で過ごさねばならぬのだろうか。

「子細は内臣より聞いておる。そのおなごが、妃か」
 文姫が顔を上げると、皇祖母尊の表情がさっと変わった。

「なんと……まあ」

 皇祖母尊は、驚きというよりも、何か真偽を問うような声だった。さっと目で臣下らに合図をすると、中臣鎌子が現れた。

 中臣鎌子は、ひざまづいた文姫の姿を見て、
「あっ――」
 これ以上開かぬほど目をひらき、驚愕した。

「いかがいたしましたかな?」
 二人の態度をいぶかしみ、金春秋が問う。
 金春秋の目にも、二人の驚きは不可解なものに見えたのだろう。背後に控えていた皇祖母尊の臣下たちも、互いに顔を寄せて、なにごとかをささやきあっている。

「や、これは失礼いたしました」
 鎌子がさっと拝礼した。
「世子嬪のあまりの美しさに、吾ら一同、魂を揺さぶられました……非礼をお詫びいたしまする」
「そうじゃ、倭国にこれほどの美女はおらぬ。つい、まことに人かと疑ってしもうた。どうかお気を悪くなさいませぬよう」

 鎌子に続いて、皇祖母尊も言った。
 文姫は静かにうつむいて礼をした。
 ――なにか、隠している……。

 違和感を覚えた。だが、理由はこの場ではわかりそうもない。

 金春秋は気を取り直して、
「文姫をお気に召しましたのならば、どうぞお側で仕えさせてくだされ」
 と皇祖母尊に笑顔を向けた。
「皇祖母尊の皇子に、ぜひ――」
「ほう、さようか」
 皇祖母尊はうれしそうに微笑む。

「今宵は、中大兄皇子を宴に呼んでおる。皇子に酒をついでやってくれ」
「皇祖母尊……」
 中臣鎌子が小さな声で皇祖母尊を制する。だが、皇祖母尊は鎌子を無視した。

「よいではないか、せっかく碧海へきかいを越えていらしたのだ。こちらも礼を尽くさねば失礼であろう」

 中臣鎌子は黙って引き下がった。
 その眼光が一瞬、鷹のようにぎらりと光った。
 文姫は小さな鳥のように、ぶるりと全身を震わせた。

 ――なんなの?

 どうも苦手だ。この中臣鎌子という男には、あまり関わりたくない。

 酒宴は飛鳥宮の庭に建てられた小さな屋形で行われた。
 屋形は、屋根がなく吹き抜けとなっている。
 壁は西側だけ取り外されており、茜に染まる空を楽しみながら酒が呑めるというわけだ。凝った趣向に、文姫は感心した。

 皇祖母尊の横に、若い男が控えている。
 この男こそ、皇太子・中大兄皇子だ。

 中大兄皇子は、文姫を見るとやはり驚いていた。だが皇祖母尊や中臣鎌子のように声を上げることはなかった。一瞬でなにかを察知したような様子で、ちらりと皇祖母尊を見て笑った。

「文姫にございます。……」
 文姫は一礼して、中大兄皇子の瑠璃の杯に酒をそそいだ。
 中大兄皇子は微笑を絶やさず、文姫の酒を受ける。

 女人たちが集まって、舞を舞い始めた。にぎやかな鼓と笛の音が、飛鳥の空にひびきわたる。
 細い月がしろくかがやく頃になると、篝火かがりびが焚かれた。

「歌でも詠みたくなる風情じゃ」皇祖母尊はちらりと文姫を見て言った。
「新羅にも、歌があるのかえ?」

 答えたのは夫の金春秋だ。盃を持って中大兄皇子の前に座った。
「新羅の歌は、勇ましいものばかりです。倭国のように情緒豊かなものではありませぬ。どうか文姫に歌を教えてやってくだされ」

「ええ、私で良ければ――」
 中大兄皇子は金春秋に微笑する。

「いずれ新羅の王となる殿君からの贈り物、ありがたく拝受いたしまする」

 ――私は、この皇子に捧げられる。
 
 この酒が尽きたら、女人の踊りが終わったら、文姫は中大兄皇子の寝所に呼ばれるのだろう。だが、文姫の心には、どうもすっきりしないものが残っている。
 酒宴の席に、鷹の目をした鎌子がいないことも、気になっていた。

 ***

 酒宴の後、中大兄皇子は忽然こつぜんと姿を消した。

 中大兄皇子にすぐにでも召されるのかと思っていた文姫は拍子抜けした。そのまま飛鳥宮にとどまり、手厚い歓待を受けていたものの、幾日過ぎても声はかからない。

 ――婚姻は、失敗したのだろうか。

 夫の金春秋もまた、文姫を飛鳥宮へ残し、どこかへ行ってしまった。
 しばらくは倭国の情勢を探るのだろう。ただ、いつ帰国するのかも知らされず、文姫はただ待っているしかなかった。

 金春秋が姿を消しても、飛鳥宮の人びとは、気に留める様子はなかった。それがどうにもいぶかしい。新羅から王子が来ているのに、野放しにしておくものだろうか。

 侍女たちに様子を調べるように命令しても、侍女は倭の言葉をうまく話せない。倭人を嫌う心もあり、言葉を覚えようともしなかった。とうとう文姫は、自分から采女に声をかけた。

 采女たちはひどく驚いて、ひれ伏し、頭を上げようとしなかった。文姫と一言も話すなとでも命じられているのか、何を聞いても答えなかった。

 三月になり、文姫はようやく皇祖母尊すめみおやのみことに呼ばれた。

 恐る恐る、皇祖母尊の招きに応じると、皇祖母尊は庭で采女たちと花を愛でていた。庭には池がつくられており、水仙やすみれ、黄梅が無数に咲き誇っている。倭国に咲くすべての花を、この庭に集めたのではないかと思えるほどだ。

 池のそばに布を敷いて、皇祖母尊が座っている。小さな盆があり、その上には菓子が盛られていた。

「この菓子は……」

 新羅の花煎によく似ているが、少し異なる。
 米をつぶして練ったものに、つつじの花をのせて焼いてあった。どうやら新羅の菓子をまねて、皇祖母尊が作らせたもののようだ。心くばりがうれしく、文姫は微笑んだ。

「喜んでいただけたましたかな」
「皇祖母尊の心づかい、まことに嬉しく思いまする」
 文姫は平伏して礼を述べた。

「私も食べてみたかったのじゃ」
 皇祖母尊は花煎を口に含んだ。
「甘いのう。しかも美しい。新羅の文化は興味深い」
「恐れ入ります。新羅の民は、美しいものに神が宿ると考えております。しかし、この庭の美しさにはとても及びませぬ」
「嬉しいことを言ってくれる。そうじゃ、庭の奥までごらんにいれよう」

 皇祖母尊は前を歩く。文姫はその後を追う。皇祖母尊の裳が揺れるたび、花の香がふわりと風に乗ってくる。
 池は静かにたゆたい、緑ゆたかな樹の色を映している。池にかけられた橋を渡ると、皇祖母尊と文姫の二人きりになった。采女たちは、橋を渡らず待機している。

「新羅の話をもっと聞いてもよいか」
 皇祖母尊の声が、低くなった。

「新羅の女王とは、どのようなおひとじゃ」
「女王は――聡明で、勇敢なお方でございます」
「新羅では、女が王になれるのか」
「先王が崩御されたとき、王に相応しい男子がいなかったのでございます」

 新羅には骨品制という身分制度がある。両親ともに王族なら聖骨ソンゴル、片親だけが王族なら真骨チンゴルという。
 新羅王となれるのは聖骨だけだ。だが、先王が薨去し、聖骨の男子が絶えた。ちなみに夫の金春秋も、兄の金庾信も真骨である。

 残るは女の聖骨だけとなった。先王の長女である徳曼トンマン、次女の勝曼カツマンのふたりだけだった。そこで年長の金徳曼が女王として即位することとなったのだ。

「でも、私のようなかざりものの女王ではなかろう」
 皇祖母尊は自虐して笑う。文姫は返答に困った。皇祖母尊は蘇我氏の傀儡であったというから、かざりものの女帝と自虐したのであろう。ただ、新羅の女王とて、その立場は危うい。

「女王では、唐にあなどられると言って、退位を迫る者もおります。しかし女王は強いお方です。毅然として、新羅のために身を尽くしておられます」

「私と境遇は似ておるのにのう」皇祖母尊は目を細めた。「私も天皇位についたとき、ほかに天皇にふさわしい男子がおらぬから――という理由であった。だが、私はしょせん、傀儡天皇じゃ。ずっと蘇我氏の言いなりであった。立ち向かおうにも、女ひとりでは何もできぬ。新羅の女王は、臣下にめぐまれておる」

「おっしゃる通りです、皇祖母尊」

 王位についてからの女王は、百済との攻防に耐えながら、唐との外交も重ねてきた。臣下の傀儡、お飾りの女王、という感じではまったくない。毅然として戦っている。
 だが、女王が戦えるのは金春秋や金庾信の扶翼があるからだ。そうでなければ、王位につくこともなかっただろう。

「皇祖母尊は、なにゆえ譲位なさったのですか。皇祖母尊を虐げていた蘇我氏は、滅ぼされたのでございましょう? ならば、これからだったのでは――」

「ほほ、譲位せねば、中大兄に弑逆されるだけよ」
 皇祖母尊は目を細めて笑った。

「倭国には鬼が巣食うておる。ひとつ鬼を倒しても、また別の鬼が現れるのじゃ……。私には、新羅の女王のように、頼れる親族もおらぬ。私を守る花郎もおらぬ。風に身をゆだねるしか――ほれ、あの蝶とおなじじゃ」

 池の淵に咲く草花に、蝶がひらひらと舞っている。蜜を求めて花にとまろうとしたとき、風が吹いた。蝶は花から離れて、あらぬ方位へと舞い上がった。

「風にはあらがえぬ。だが風がなければ、飛ぶこともできぬ。ただ、風を待つのみよ」
 遠くに飛ばされた蝶は、風がやむと、また花のもとへと戻ってきた。

 皇祖母尊はふたたび天皇位へつくことを望んでいるのかもしれない、と文姫は思った。だからこそ、いまは争わずに譲位して、また風が自分に吹くときを待っている――。

 ただ待つだけではない。皇祖母尊は時制を読み、来たるべきときにそなえている。そのために、飛鳥宮で花を愛で、隠居したように見せている。

(かしこいひとだ)

 聡明な皇祖母尊をしりぞけた中大兄皇子とは、いったいどんな男なのだろうか。

第5話へ続く


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