風を待つ<第3話>美しき内臣
明石の瀬戸は小さな島々の並ぶ海で、磯をすり抜けるようにして船は進んでゆく。白い波しぶきがあがり、銀色の魚が跳ねている。白い鳥が舞い降りて、器用に魚をとらえていた。
倭国とは、大きな芋のような形の島かと思っていたが、どうやらそうではないらしい。いくつかの島をつなげたような地形のように感じられた。
風が変わった。
目も開けられぬほどの強風に吸い込まれるように、船は島と島の間を抜けて、難波津へと到着した。小さな村落が点々と建っている。古い小屋ばかりだった。村落の奥には、青々とした山がそびえ立っている。その山があまりにもみごとで、どっしりと鎮座する神のような威厳をそなえていた。
船が停泊すると、すぐに何人かの倭人が向かってきた。倭人は背が低く、五尺(約150センチ)に満たない。目も口も細くのっぺりとした顔立ちだ。
だが、新羅船におびえるようすはなく、倭人が乗船しているあのを見つけると、すぐに近寄った。
金春秋が倭人たちと交渉を始めた。そのあいだ、文姫は侍女たちと海岸で待っている。海岸は風をさえぎるものがなく、女たちの裳裾を容赦なくひるがえす。
倭人が文姫のそばに近づいて来た。文姫は顔を袖でかくし、後退する。侍女たちがあわてて文姫をかばうようにして倭人を制した。倭人は古小屋を指差している。どうやら、古小屋で休んだらどうか、と言っているようである。
「あんな小屋で……休めと?」
木板を打ちつけただけの小屋だ。中には筵が敷かれているものの、座卓はなく、それどころか農具や工具が置かれている。
そばには魚が干してあり、蝿が集っていた。
とても王族が腰を下ろせる場所ではない。
「輿はないの」
じろじろと文姫を見る、倭人たちの目。そのまなざしから身を隠したかった。
やがて金春秋が対話を終えて、文姫に向かって来た。
「小屋で待っていなさい。しばらくはここで泊まることになるだろう」
「ここで……?」
文姫は眉をひそめた。
難波宮は、津からすぐ近くだと聞いていた。まだ日は明るい。どうして津で足止めされているのだろうか。
文姫の代わりに、侍女たちが悲鳴のような声をあげて泣き出した。金春秋はろくに説明もせず、倭人たちとどこかへ行ってしまった。
「文姫さま……なんということでしょう」
残された侍女たちが不安をこらえきれず、すすり泣きはじめた。
「泣くでない。見苦しいぞ」
文姫はいら立つ。
侍女は泣き止まない。
しかたなく従者のひとりを捕まえて、事情を問うた。
「難波宮とやらは、どこにあるのです。どうしていますぐ出立しないの」
「へえ、難波宮はすぐ近くにございますが、どうやら難波宮ではなく、飛鳥板葺宮へ行かれることになったそうで」
「飛鳥……?」
へえ、と立ち去りかけた従者に、文姫は怒りをぶちまけた。
「なぜ飛鳥なのですかっ! 事情を説明しなさいっ!」
従者はいきなり文姫に叱責され、腰を抜かして驚く。しどろもどろに説明された内容をまとめると、こうである。
当初の予定では、難波宮に直行するはずだった。だが、金春秋は「前の女帝と中大兄皇子、大海人皇子に拝謁したい」といって、行程を改めさせた。
ただし、倭王のいる難波宮をだまって通過するわけにはいかない。そこで、少数の従者を連れて出立した——。
「だったら、なぜそう言わないの!」
ひとこと説明すればよいではないか。先に難波宮へあいさつだけすませてくるから待っていろと。そのひとことがどうして言えないのか。
(ばかにしている)
夫は、文姫の存在を軽く見ている。事情を説明する必要などない、ただのモノだと思っている。それが文姫はくやしい。
(おのれ、おのれ)
文姫はぐっと歯を噛んだ。毅然としていなければ、みじめさと不安に押しつぶされそうだ。侍女たちのすすり泣く声がますます大きくなり、耳に障る。
「ええい、泣くな!」
文姫とて泣きたい気持ちを堪えているのに、侍女たちが泣いては心が折れそうになる。だが、厳しく侍女たちを叱れば叱るほど、侍女たちはますます顔を伏せて泣くのだった。
「何がそんなに悲しいのだ! こちらまで気が滅入るわ!」
侍女たちはみな、卑しい身分の家柄である。小屋に泊まるくらい、泣きわめくほどのことではないはずだ。それとも、絹の布団で眠ることに慣れて、卑しい過去を忘れたのか。
「申し訳ありませぬ――文姫さまが、あまりにお労しゅうて」
「なに、私が……?」
文姫はかっとなった。侍女に孔雀扇をたたきつける。
「無礼であるぞ。私を憐れむなど、おまえたちは女王にでもなったつもりか!」
「申し訳ありませぬ、お許しくださいませ」
侍女たちは文姫の足下へひれ伏した。
「私はこの程度では泣かぬ! おまえたちも覚悟を決めよ」
だいたい、倭国に来て、丁重に出迎えを受けるとでも思っていたのだろうか。新羅と同じ暮らしができるとでも?
侍女たちへ激しく憤《いきどお》りながらも、文姫はおのれも同じではないか、と気づく。倭国へ着けば、輿で悠々と難波宮へとゆける、そう思っていた。
だが、現実は違う。文姫や金春秋は倭国にとって、まねかれざる客だ。新羅の民は野人と呼んで侮蔑するが、現実は、新羅が頭を下げねばならぬ相手なのである。
「よいか、おまえたち。ここから先は苦難の道だが、何も悲嘆することはない」
文姫は静かに言った。
「倭国は、新羅を脅かす脅威となるやもしれぬ。殿君はそのために、倭国と同盟をむすび、百済討伐に全力を尽くすおつもりだ。私は殿君の外交を支えねばならぬ。おまえたちは私を支えねばならぬ。これは大任であるぞ。めそめそと泣くのはもうやめよ」
「はい――」
侍女たちは洟をすすりながら、文姫を見上げている。
「私は新羅へ帰るまでは泣かぬ。おまえたちも気をしかと持て。毅然として私に従っておればよい」
そう言って文姫は小屋へ入った。小屋の中は暗く、湿気がひどく、なまぐさい。文姫は顔をしかめたが、意を決して筵へ座ると、背をのばし、裳裾を整えた。
木板が風にぎしぎしと音をたてている。はじめは不潔な小屋だと思ったが、それでも船のほどには揺れず、風を避けられるだけ良質である。
ひどい疲労が襲ってきた。あたたかい粥をもらうと、文姫は座ったまま、うとうととねむりに落ちた。
***
小屋に泊まって三日目の朝。
外が騒がしく、文姫は目覚めた。どうやら金春秋が戻ってきたようだ。
「飛鳥宮から迎えがあるそうです。もう少しの忍耐ですね、文姫さま」
侍女たちはうれしそうに笑っている。長い旅路でやつれた表情、裳のほつれが痛々しい。
「おまえたちも、よく耐えてくれた」
なぐさめの言葉をかけると、侍女たちはまた泣きそうになった。
飛鳥宮からの使者がやってきた。文姫は髪に椿油をつけて簪をさし、念入りに化粧をした。金糸でふちどられた上衣をまとうと、侍女たちが恍惚としてため息をつく。
「やはり文姫さまは、お美しゅうございます」
「そうか。……鏡を持ってくるべきであったな」
結い上げられた髪を手でさぐり、文姫は形をたしかめる。
「倭国の衣裳は、どのようなものかの。私に似合うと思うか」
侍女は、はっとして、櫛を片付ける手をとめた。
飛鳥宮に到着すれば、文姫は皇子に捧げられる。新羅の衣裳を着るのは、きょうで最後かもしれなかった。
「文姫さまは、どのような衣をお召しになっても、美しゅうございますよ」
侍女は涙声をおさえて、文姫の簪をととのえた。
難波津から川旅で二日。
わびしい寺にたどりついた。
倭国にも仏教が伝来していると思うと、不思議な気持ちになる。ここは異国であるのに、近しいもののように感じた。寺の僧侶は金春秋をこころよく迎え入れ、寺で休むように言った。
迎えに来た内臣は、中臣鎌子と謂う。
寺の本堂で中臣鎌子と金春秋が向かい合って座った。
文姫は衝立の奥に控えた。衝立の隙間から、文姫は中臣鎌子の姿をのぞきみて、その美しさに目をうばわれた。
――倭国にも、かように美しい男がいるのか。
両眼は黒曜石のようにきらきらとして、鼻筋や口元にも気品があふれている。
金春秋は、さっそく鎌子に言った。
「皇祖母尊に新羅からの贈り物を捧げたい」
退位した女帝(皇極天皇)は皇祖母尊の称号を与えられていた。金春秋は道すがら、女帝の尊号を調べていたのであろう。顔を上げた鎌子は、きらりと目を光らせる。
「難波宮にお立ち寄りいただいたそうですな」
「いかにも」
「難波宮への来貢だけでけっこうです。女帝はすでに隠居され、つつがなくお暮らしです」
中臣鎌子は婉曲に金春秋を拒絶している。
金春秋は、軽快に笑った。
「はは、それほど警戒しなくともよいでしょう。政治的な意図はございません。皇祖母尊と、皇太子に新羅の宝を受け取っていただきたい。ただそれだけです」
「ほう、さようですか。新羅からは任那の調も途絶えて久しい。……」
中臣鎌子は表情を変えず、さらりと嫌味を言ってのける。
「上表文を拝見しても?」
上表文には新羅からの進具の品目が書かれている。上表文をざっと眺めた中臣鎌子は、ふと目をとめた。
「世子嬪金文姫、とはなんですかな」
「ああ、それは私の妃です」金春秋はさらりと言った。「我が妃を、次の倭王となる皇子へ捧げようと思いましてな……」
「それは、それは……たいそうな……」
中臣鎌子の眼光が強く光った。衝立を突き抜けるように向けられる。
中臣鎌子からは文姫の姿は見えぬはずだが、文姫はその強い眼光に捕らえられ、身動きができなくなった。
中臣鎌子の眼光は、衝立をやぶり、文姫の輪郭をはっきりととらえている。
衣裳の中にある文姫の身体までのぞかれているようで、文姫は逃げ出したくなった。
――なんなのだ、この男は?
いやな汗がじっとりとにじむ。
「これほどの宝をお納めいただくとなれば、歓待の宴を準備せねばなりますまい。私は先に戻り、皇祖母尊にお伝えしてまいります。飛鳥宮へどうぞお越しくだされ」
中臣鎌子は笑顔をつくった。観音菩薩のような完璧な微笑だった。
中臣鎌子が退席すると、金春秋はふんと鼻を鳴らした。
「食えぬやつだ。皇太子には会わせぬつもりだな。隠居した皇祖母尊と会わせ、宝を受け取るだけ受け取って、ていよく帰れというつもりだろう」
さらには宴の準備だと言って、時を稼ぎ、文姫の扱いについて検討するのだろうと、夫はいら立っている。
「もし皇太子と会えぬときは、どうなさるのですか」
「会えるさ――」
金春秋は文姫の耳飾りに触れて、小さく笑った。
「宴にはかならず、どちらかの皇子が出てくる」
「どうしてわかるのです?」
「おれが倭国の皇子ならば、そうするからさ……だれも出て来ぬのであれば、倭国など取るに足らぬ」
文姫ははじめて、不敵に笑う夫の表情を知った。金春秋の思考を想像してみるが、皇子の立場で考えてみても、どうにも理解できなかった。
第4話へつづく
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