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風を待つ<第18話>鳳簪

 文姫が新羅を旅立ってから、十五年ぶりの帰還となった。

 懐かしいはずの月城ウォルソンは、よそよそしく文姫を出迎えた。

 金冠を頭上に戴いた金春秋――新羅王が、玉座で文姫を迎える。
「よく戻った」
 文姫は夫の顔を見つめた。戦いに明け暮れ、日に焼けたその表情は、王としての貫禄を十分に備えていた。だが、文姫を前にして、なんと声を掛ければよいのかわからぬ、といった表情ではある。

 文姫もまた、金春秋に何を言うべきか、わからなかった。
 長年の別離を悲しみ、再会を喜ぶべきなのか。あるいは、なにゆえおのれを置いていったのかと、恨みをぶつけるべきなのか。それとも、倭国での生活について語るべきなのか?

 そのどれもが、この場には相応しくない気がしてならなかった。

 ひとりの青年が、金色に輝くかんざしを掲げて、文姫の前に跪《ひざまず》く。

  ――鳳簪……。
 鳳凰をかたちどった、新羅の王后だけが身につけることを許される鳳簪。若き文姫の憧れであった鳳簪が目の前にある。だが、文姫は鳳簪よりも、視線を下に落とした青年に目を奪われた。おのれに似た、切れ長のまなざし。夫に似た、精悍な鼻すじ。

「法敏か」
 小さな声で文姫は問う。青年は、こくりと頷いた。かれこそ、文姫が新羅に残してきた、金春秋との子・法敏だ。赤子のときに別れて以来だが、ひとめでそれとわかった。

「母上様……」
 法敏の目がたちまち涙で潤んだ。涙を隠すように、鳳簪を高く掲げた。文姫はずしりと重い簪を手に取った。

 文姫は王后となり、以後、文明ムンミョン王后と呼ばれる。

 ――これでよかったのだ。

 倭国から連れ出されたときは、身が引き裂ける思いだった。不比等や氷上娘と別れるくらいなら、死んだ方がましだとさえ思った。それでも、目前にいる法敏とて、文明の子である。これからは法敏の母として、文明として生きていかねばならない。

 尚宮が歩み寄り、文明の髪に簪をさした。
「似合いますか」
 文明は金春秋に笑いかけた。金春秋は、ぎこちなく笑顔を返した。

 金春秋とふたり、庭に出た文明は、久しぶりに新羅の風を感じた。
「帰ってきたのですね、私は……」
 遠くを見つめて文明はつぶやく。金春秋は文明に近づいた。

「苦労をかけたな」
「あなたこそ、よくぞ百済を討伐されました」
「まだ残党が残っているが、一応はな」金春秋は笑った。「これからはゆるりと過ごせ。もう二度と、おまえを人質にはせぬ」

「子と別れることも――ないのですね」
 寂寥とした思いで胸がつぶされそうになった。今頃、不比等は、氷上娘はどうしているだろう。不比等の泣き声がまだ耳に残っている。

「法敏は、ずっとお前の帰還を待っておった」
 金春秋にとって、子といえば法敏のことだと思ったのだろう。文明はふるふると首を振った。

「私は倭国で子を産みました」
「子がいたのか?」
 金春秋は驚いた。どうやら王は、なにも知らぬらしい。

「鎌子殿との間に、私はふたりの子を得ました」
「鎌子――とは、あの大臣か」
「そうです」
「おまえは、中大兄皇子のもとにいたのではないのか」
「私は、殿君がお帰りになったあと、中大兄皇子にお仕えしました。その後、中大兄皇子の右腕ともいえる、中臣鎌子殿の妻となったのです」

 王は先ほどから、驚きの連続で、ずっと目を見開いていた。「それは知らなかった、おまえを大臣ごときの妻に落とすなど――無礼極まりない」
 金春秋の怒りに、文明は反駁した。

「皇子は、私を無下に扱ったわけではありませぬ。倭国では百済派の皇子、群臣が多いのです。新羅の姫を妻にしたとなれば、皇子の立場が危うくなります。中大兄皇子は、大臣の妻に降嫁させることで、うまく私を隠してくださったのです。鎌子殿は、私によくしてくださいました」

 王は困惑し、そうか、といって腕を組んだ。
「おまえはずいぶんと、寛容になったな。事情はどうあれ、大臣の妻になるなど、かつてのおまえなら、その場で自害しそうなものだ」

 文明はにがにがしく笑った。王の言うとおり、文明は自害をこころみた。だが、鎌子というひとりの男を文明は愛した。結ばれた夜を思い出すと、胸が熱くなる。

「それよりも殿君、私が辛かったのは、子との別れです」
 金春秋はふと眉を上げた。
「幼子との別れは辛く、さすがの私もこたえました。人質となるのは構いませぬ。ですがもう二度と、子と別れたくありませぬ」
「わかっておる」
 金春秋は、これで何度目かというほど驚いていた。文明がこのように弱音を吐くなどこれまでなかったからである。

「おれはどうやら、そなたのことを何も理解していなかったらしい。おまえにもやはり、母としての情があったのだな。新羅を立つときは、子との別れなど何も気にしていなかっただろう」

「気にしておりましたとも」文明はむっとして、声を大きくした。「ですが、兄上のため、あなたさまのために人質となったのです。必ず新羅へ帰る、とおのれに言い聞かせて……」

「ふむ、おまえはやはり強い女だ。そんな感情はおれには少しも見せなかった。泣きつかれては、さすがにおれも躊躇したであろうからな……まことによくやってくれたよ」
「殿君こそ、私のことなど気にしていなかったでしょう。倭国へ向かう船の中でも、一度も私を見ませんでしたもの」 

 金春秋はは困惑ぎみに笑って、
「おれも命がけだったのだ、倭国に行けばすぐに殺されるかもしれぬ、高句麗での人質生活を思い出し、恐怖に怯えていたのだ」
「まあ、殿君が?」
 今度は文明が驚く。

「あの船の中で、おまえが一言でも、帰りたいと泣いていたら、おれは帰っていたかもしれんな。だからおまえの姿を見ないようにしていた」
「できれば、そういったお気持ちを聞かせていただきたかった。あなたこそ、私にちっとも弱い部分を見せませんでしたね」
「そりゃあ、そうさ」金春秋はは笑顔を向けた。
「男とは、そういうものだ」

 それから金春秋はは改まった声で、
「おまえはやはり、新羅の王后に相応しい女だ。おれは正直、おまえに対して、庾信の妹というだけの感情しかなかった。これからは新王と新王后として、ともに新羅を築き上げていこう」
 噛み含めるようにゆっくりと言った。

 金春秋は、文明を王后として迎え、新たに夫婦としても再出発しようと言っているようだ。だが、文明の胸にはつっかえたものがある。

 強い女。新羅の王后に相応しい女。
 以前の文明ならば賞賛を素直に受け取っていただろう。まっすぐに妻を見つめる金春秋に、文明はおのれの心をさぐるように言った。

「私は……二度と新羅へは戻らぬつもりでした」
「なに?」
 金春秋は眉をひそめる。

 ――鎌子どのと、添い遂げたかった。
 などと言えば、さすがに金春秋はは激昂し、文明を追放するだろう。だが文明は、この気持ちに蓋をしたままで、金春秋はと夫婦としてやり直すことなどできなかった。

「あなたや、中大兄皇子は、高く飛翔できるひとです。ですが、私は蝶のようなもの。強い風で飛ばされても、高く飛ぶことはできませぬ。私は抗うことなく、風とともに舞うことしかできませぬ。嵐のような強風は、私にはもう辛うございます」

「なにやら詩のようなことをいう。おれには文才がないから、よくわからぬが、倭国での暮らしが穏やかだったということかな」

 金春秋は、自分なりに解釈したようで、文明に微笑した。その微笑には、少しの同情と、思うままにならぬ文明への苛立ちがこめられていた。

「過酷な状況に身を置かれて、大臣に情を持った。致し方ないことだ。だが、おまえは新羅の王族だ、新羅こそがおまえの生きる場所だ。そうではないか」
「情などでは……」
「とにかく、おまえは帰ってきた」

 王はむっとした表情を隠さなかった。新羅へ帰りたくなかったなどと言われれば、不快になるのも当然だった。
「泣き言や恨み言は聞きたくない。倭国で産んだ子のことは忘れろ。おまえは、まだまだ子を産める」
「え――」
「なんだ。不服か」

「すでに殿君の子は三人産んで差し上げました。これ以上は」
「倭人の子は産めるのに、おれの子はもう産まぬというのか」
 言葉をうしなう文明に、とうとう金春秋は怒りを露わにした。

 金春秋は、倭人に与えた妻を取り戻すため、またおのれの子を産ませようとしているのだ。

 ――もう産みたくない。
 出産を拒むのではない、文明が夫婦の営みを拒んでいることに、金春秋は敏感に感じ取っている。

「それほどまでに大臣が良かったならば、いますぐ倭国へ戻るがいい。おれが帰ってこいと頼んだわけではない。法敏を捨てていけるくせに、倭人の子の離別を惜しむとはな!」

 口を開きかけた文明を制して、金春秋はさらに続けた。
「倭人の子はもう死んだと思え。金輪際、口にするな」
 金春秋は文明を置いて、月城に戻って行った。

 ――なんてひと……
 金春秋の激しい怒りは、文明の心を粉々にした。
 むろん文明は法敏を捨てたつもりはない。別れは辛かった。だから信頼できる兄に託した。兄に任せておけば、文明は安心して新羅を立つことができた。どのみち王族の子は、おのれの手元で子を育てない。

 だが、氷上娘と不比等は、違う。
 あまりにも旅立ちが急すぎた。別れを告げる暇もなかった。二人の子がだれの手で育てられるのかも不明だった。奈津がきっと育ててくれるだろうが、おのれの手で託したかった。

 子の行く末どころか、今後の鎌子や中大兄皇子、倭国の行く末も危うい。そんな状況に子を置かざるを得なくなり、別離を悲しまぬ親などいるだろうか。

 男にとっては、子などいくらでも産ませられるものかもしれない。女にとっては、子はおのれの血肉を分け、命がけで産んだものだ。たとえ十人の子を産んだとしても、その命はすべておのれ自身、いや、それ以上の存在である。当然、忘れろと言われて忘れられるものではない。

 子を慈しみ、愛してくれた鎌子の笑顔が浮かんだ。

 ――あのひとならば、こんな暴言は吐くまい。
 金春秋と話していると、どうしてもすれちがう。比較してはいけない、もう鎌子のことは忘れなければならぬ、と文明は強く目を閉じた。

 第19話へ続く


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