風を待つ<第14話>鎌子の闇
「私は倭国の王と縁をむすびに来たのじゃ。悪いが、鎌子のような大臣は、私の身分とは釣り合わぬ。婚姻するつもりはない」
困惑する奈津の横で、真人はまばたきもせず、文姫の膝のあたりを凝視している。
「それに、そなたにはりっぱな男子がおるではないか。中臣の妻は、奈津、そなたしかおらぬ」
奈津はふるふると首を振った。
「私ではいけません、それくらい、私にだってわかります。この子は、出家させます」
「なにを言う」
奈津の思い込みは甚だしい。文姫が鎌子の妻になると思い込み、嫡男をしりぞけようとしている。文姫には理解しがたい態度であった。
新羅においても、夫の出世に伴って、高貴な家から妻を迎えることは、ある。だがすでに生まれている嫡男を、新しい妻に子がないうちに出家させるなど、聞いたことがない。
「これは、夫の意向です」
奈津の態度は頑固で、文姫は唸った。
これ以上奈津と話していても埒があかぬと、文姫は話題を変えることにした。文姫が妻とならぬことは、鎌子から改めて話をさせればよい。それよりも、謀反の件だ。
「奈津よ、この話はまた改めよう。謀反の件については、奈津は何か知っておるのか」
「いいえ――ただ、恐ろしゅうて……私、戦やら謀反やらと聞くと、震えがとまらぬのです」
姫さまは怖くはありませんか、と奈津は小さな声で言った。
「戦が恐ろしゅうては、王の妃はつとまらぬ」
「ああ、やはり」
奈津は嘆息した。
「姫さまは、さすがです。私は怖い。夫が討たれると思うと、怖くて眠れませぬ。姫さまの堂々たる態度を見ていると、安心します」
「私が生まれたときから、新羅は戦乱の中にあった。いつでも死ぬ覚悟はできておる」
自慢ではない。戦の中に身を置いたおのれの運命であった。たしかに、奈津のような身分に生まれた者にとっては、内臣にまで出世した夫についてゆくのは過酷かもしれない。
「姫さまは、山背大兄王というお方をご存知ですか?」
「いや」
奈津は、ぽつぽつと山背大兄王について話しはじめた。
山背大兄王は、厩戸皇子の子で、母は蘇我馬子の娘・刀自古郎女である。蘇我氏の血を引きながら、蘇我入鹿に敵視され、六四三年に謀反を疑われて自害した。このとき山背大兄王の子供や妃妾、采女たちに至るまですべて自害に追いやられている。
「斑鳩宮が焼かれるのを、この目で見ました。恐ろしかった、ほんとうに――皇子さまがたを、殺してしまわれるなんて……それからしばらくは、山背大兄王の怨念が聞こえてくるようで、怖くて眠れませんでした」
山背大兄王の一族を殲滅させ、斑鳩宮を焼き払い、蘇我氏は暴政の限りを尽くした。
「夫はあの年から、人が変わったようです。中大兄皇子と出会い、顔つきが変わりました」
その後、鎌子は中大兄皇子と共謀し、六四五年に蘇我入鹿を討った。
「蘇我氏を殲滅するまで、夫は戦うつもりでしょう。私は妻として、どのように夫を支えてよいのか、もうわからぬのです。内臣に昇進したことですし、高貴な家から妻をお迎えになっては、と申し上げたのですけど」
文姫は初めて鎌子と会った日のことを思い出す。鷹のような目で睨まれ、萎縮したあの日のことを。峻烈な眼光の奥には、蘇我氏抹殺の恐ろしい野望があったのかもしれない。目つきの変わった夫を、奈津が悲しく寄り添う姿を想像し、文姫は目を細めた。
*
幸いにも中臣の領地を侵されることはなかった。謀反は蘇我倉山田石川麻呂が自害し、終息したようである。
石川麻呂を自害に追いやった首謀者は中大兄皇子だという。
石川麻呂は妃の遠智娘の父である。さらに別の娘を二人、あとから嫁がせている。三人もの娘を中大兄皇子に仕えさせ、六四五年の乙巳の変にも共同して入鹿を討った。そこまでしておきながら、謀反を起こすとはいかなる事情だろうか。
三人の娘は人質だったと、ある者が言う。石川麻呂の本質は、やはり蘇我の人間であった。中大兄皇子に人質をとられ、やむなく入鹿誅殺に協力したのだと。真相は文姫にはわからない。ただ、残された三人の娘たちの心情を思うと文姫は苦しくなる。
――毗曇の乱に似ている。
新羅でも、女王の側近が謀反を起こした。毗曇という、上大等の地位にあった男だ。女王の政治は庾信と毗曇によって支えられていたといってもよい。
ところが親唐派の大臣たちが、毗曇を唆し、女王廃位へと煽動した。女王の心は張り裂けんばかりであったろう。
――新羅でも倭国でも、流血は避けられぬ。
屋形の裏にある田畝では、代掻が終わり、苗を植える作業が始まっている。苗を手に並んでいるのは娘ばかりで、ふくらはぎまであらわにしていた。のどかな風景だ。ここに蘇我兵が押し寄せなくて良かったと、文姫は安堵する。
その娘たちの中には、奈津の姿もあった。
――奈津が、なにゆえ……
内臣の妻ともあろう者が、泥にまみれて田植えなどと、文姫には考えられぬことばかりだ。
奈津は汗をぬぐいながら、娘たちに指示をしている。泥がはねて、娘たちが笑った。水を張った田畝がきらきらと輝いている。
美しかった。娘たちも、なにもかも、美しかった。
奈津の亀のような手を思う。水と泥、日焼けであのような手になったのだろう。文姫はおのれの手を見つめた。細く、白い指。ひどく弱く、たよりないものに思える。
――私は、なにをしているのだろう。
日がな一日、不満を口にしているだけだ。新羅の妃だの中大兄皇子の妻だのといったところで、屋形に住まう者たちにとっては、厄介な女に過ぎない。
奈津の住まいを奪い、部屋で座っているだけの女。働きもせず、食糧を減らすだけの女。
一度は死のうと刀子を手にしたものの、まだ生きている。
――私のなすべきことを、なさねばならぬ。
死ぬのはそれからでも遅くはない。
*
田植えが終わり、農民たちは握り飯をほおばっている。とっぷりと日が暮れる頃、奈津たちも引き上げるようだった。奈津は汗と泥にまみれたまま、文姫の部屋にやってきた。
「乱も落ち着いたようですので、私はこれで失礼いたします。夫もまもなく帰ってくるでしょうから」
奈津を止めようとしたとき、ちょうど鎌子が帰ってきた。
薄汚れた奈津の姿を見ると、
「何をしておる」
と、冷たい声で睨んだ。
「ここへ立ち入るなと命じたはずだ。早う出てゆけ」
奈津は萎れた菜っぱのように項垂れて、夕闇の中に去っていった。
「鎌子どの」
文姫は立ち上がる。鎌子の眼光は獣のようである。人を斬り、血をすった人間の眼だ。蘇我氏の穢れを一身に受けたような、おぞましい殺気に、さすがの文姫もぞくりと震えた。
「話なら、あとにしてくだされ――」
気圧されそうになったが、文姫は鎌子のあとを追う。鎌子は、文姫に気づかぬのか、それとも疲労し過ぎて構っておれぬのか、北対の奥まで早足で歩いた。
薄暗い部屋に、手づから燭を灯す。ぼうっとした淡い光が、鎌子の顔を照らした。静かに振り向き、文姫を見る。
どす黒い闇の目だった。文姫はとっさに、これはいけない、と戦慄した。奈津の悲しい声が頭の中にがんがんと響く。
『夫は人が変わったようです。優しかった、夫が』
「なにかひどいものを見たのですね」
文姫の問いかける声はうわずった。鎌子は自嘲するように笑った。
燭の光に眩しそうに目を細めると、
「醢、とは何がご存知か?」と文姫に問う。
文姫は答えに詰まった。むろん、醢を知らぬはずはない。罪人を殺し、塩漬けにする刑のことだ。残忍な極刑のひとつである。
「石川麻呂の首を醢にして、遠智娘のもとへ送りつけてきました」
まるで漬物でも届けてきたかのような口調で言うが、その情景を想像するだけで口の中が酸っぱくなる。
父親の塩漬けされた首を見て、娘は絶叫するだろう。地獄はそこから始まる。その首を届けた中臣鎌子は、同情するわけにもいかず、残酷な態度を示さねばなるまい。
地獄を思い出したのか、鎌子は力なく笑った。
「こんなこと、奈津には話せませぬ」
たしかに鎌子の言うとおり、奈津が聞けば自失しそうだ。遠智娘も、あまりの衝撃で気が触れるのではあるまいか。文姫とて平静ではいられぬが、処刑にいちいち驚いてはいられない。
「そなたは蘇我氏を滅ぼすつもりじゃな。蘇我の残党は、石川麻呂殿の極刑に戦慄したであろう。皇子は恨まれることなく、遠智娘と離縁できる。これで中大兄皇子は、政治をとりやすくなる。鎌子どのは、皇子の影となり、穢れを受けるおつもりか……」
「ふ」鎌子は視線を下げたまま、ふっと笑った。「ふふ……あなたはよくわかっておられる。ならば教えてくだされ、この闇から抜ける手段を」
怯えるようなまなざしがそこにあった。血を失ったような白い横顔に触れる。理由のわからぬ確信があった。鎌子にいま、血を与えられるのは、おのれだけだという確信が。
触れ合った瞬間、鎌子の目がかっと開いた。文姫の首に手をかけると、吸い寄せられるように唇を強く重ねてきた。熱い舌が絡み合う。血の味がした。呼吸が苦しくなる。苦しいのは、鎌子の中にある闇が、文姫に伝わってくるからだ。
不思議なことに、文姫は闇にのまれなかった。鎌子の中にある闇を吸い続けても、おのれが闇に染まる感覚はなかった。おのれの身体は陽の力を持ち、鎌子の魂魄は陰の力に支配されている。光を求めてむさぼるように文姫の口を吸い続けた鎌子は、やがて口を離すと、
「臣はいずれ倭王の大臣となります」
両手で文姫の頬を包み、熱いまなざしを向けた。
第15話へ続く
よろしければサポートお願いいたします。サポートは創作活動費として使わせていただきます。