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百人一首で伸ばす読解力講座第4回:「たごのうらに」(山部赤人)

前回からだいぶ間が開いてしまいましたが、今日からまたぼちぼち始めていこうと思います。第4回の歌は山部赤人の歌です。

田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ

【現代語訳】田子の浦の浜辺にちょっと出て(遠くを)見てみると、真っ白な富士山の高い頂のあたりに、ちょうど雪が降っているよ。

有名な話ですが、この「田子の浦」の歌は、もともと万葉集に入っていました。万葉集では次の形で入っています。

田子の浦ゆうち出でて見れば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける

この万葉集の歌が、形を変えて鎌倉時代の初めに成立した新古今和歌集に選ばれ、そしてその後百人一首にも選ばれたのです。

それにしても大胆な改変ですね。万葉集の時は「田子の浦を通って(広いところに)出て見てみると、真っ白な富士山に雪が降り積もっているよ」という意味でした。ところが新古今和歌集・百人一首になると、見ている場所が田子の浦海岸になり、今雪が降り続いている、と変わってしまうんですね。

ここでは、どちらが正しいか、いいか、ではなく、百人一首の形でいろいろ考えていきましょう。

途中までは何も問題はありません。田子の浦海岸に出てきた作者が、ふと富士山の方に目をやると、その頂上あたりに雪が降っているという情景です。

え、ちょっと待ってください!

海岸から富士山が見えるのはいいとしても、その頂上付近で雪が降っているのが海岸からわかりますかね???

おそらく難しいですね。

では、作者は何に感動したのでしょう。何を伝えたかったのでしょう。

この歌は(万葉集はともかく、新古今・百人一首では)不可能な歌です。非現実の歌です。つまりは想像の歌です。そう捉えながら眺めてみましょう。

「白妙の」は「真っ白な」という意味です。海岸から富士の方向を見上げたとき、作者の目には真っ白な風景しか見えてなかったのでしょう。目の前一面に雪が降っているのです。そんなとき、ふと、はるか遠くの、しかも雪で見えない富士の頂上を想像したのでしょう。おそらく富士山の頂上でも雪が激しく降っているのではないか。そこには誰もおらず、ただただ雪が降っているだけ。何とも寂しい風景です。これは田子の浦を通り抜けて広々とした場所に出て、真っ白に雪をいただいた富士山では、そこには雄大さは出るかもしれませんが、寂しさは出ません。

この歌は、雪が降り続いているときの人々の心細さや寂しさというものを前提にして読み解いていく和歌なのですね。

作者・山部赤人は万葉時代の歌人ですから、赤人の真意とは違うかもしれません。それはそれとして、百人一首の形ではどのような味わいになるか、にこだわってみました。

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