あなたの幸せと、私の幸せ、「お会計は別ですよ」
今日も「下書き」より発掘。
今日は「愛」について。
以前の愛についての考え方
以前「愛」について書いた記事はこんな感じ。
鎮火前だったので、終わり方が救いがない。怒りが原動力だった頃の自分。
それはい置ておいて、この記事でも書いているが、私の中での『愛』の定義として考えているのは「見返りを求めずに、相手の幸せを願う心」だった。
そういうことを考えている時に、ふと思った。
「『愛』って、相手のことを嫌いでも与えることができるんじゃないか」
愛は心の持ち方
愛を広辞苑(第5版)で引くと『①親兄弟のいつくしみ合う心。広く、人間や生物への思いやり』とある。
思いやりを引くと『③自分の身に比べて人の身について思うこと。相手の立場や気持ちを理解しようとする心。同情』とある。
要するに、相手の立場や気持ちに思いを馳せること。これは、相手のことが嫌いでもできることだろう。やりたくないだけだ。
人を愛するときは、相手と自分、両方愛する
この記事の根底に流れているものも、突き詰めれば『愛』なのかもしれない。
でも、「あなたはあなたでやってください」と今は思う。
私は「自分が大切にしたい」ことだけ大切にするから。
これは、相手と自分を両方とも愛している状態なのかなあ、と思う。
書き方は乱暴だけど、相手がやっていることに関しては、「私は本当はあなたがそれをするのを望まない(自分の考え)」だけどそれを実現してくれなくていいから「あなたが自分を幸せにすると思うことをやってください」という感じ。
そして、相手が自分に関わりを求めてくることに関しては「私はあなたと関わることが自分を幸せにしないと思っている」。だから「私のことは私に任せてください。私は、私自身が自分を幸せにすると思うことをやります。あなたの幸せに、私を計算に入れないでください」ということかな。
恋愛感情で考えればわかりやすいのだけど、相手は自分のことが好きで、でも自分はその人と付き合いたくない場合。
あなたが「私のことを好きでいることがあなたの幸せ」になるのなら、そのまま好きでいてください。
だけど、私はあなたとお付き合いすることが私の幸せになるとは思えないので、お付き合いはしません。
この時、相手への愛しか考えていなかった場合、「あなたが幸せになるためには私が付き合ってあげないといけない」となってしまう。
同時に自分への愛もしっかりと持っておかないといけない。そんな風に思った。
愛について、少し解釈を変えてみる
最初に紹介した「『愛』と『犠牲』の関係についての考察」の頃考えていたのは、愛と犠牲の関係で、愛は自分を殺して相手を助けるようなイメージがずっと付きまとっていた。
だけど、他人を愛するとき、自分を愛することも一緒に考えてもいいのではないか。じゃないと、愛は簡単に滅私奉公になってしまう。
そこで、自分なりの「愛」の定義をこのように変えることにした。
(旧)「見返りを求めずに、相手の幸せを願う心」
(新)「自分のことは別計算にして、相手の幸せを願う心」
「見返りを求めずに」だと、自分を大切にする気持ちをおろそかにしてしまう気がするのだ。
相手の幸せの計算に、自分を入れない。自分の幸せの計算に、相手を入れない。
あなたの幸せと、私の幸せ、「お会計は別ですよ」。
異論はあるかもしれないけど、夫婦でも、親子でも別会計でいいと思う(10歳未満の小さい子供だけは別)。
自分に危害を加えるかもしれない人を愛することは、とてもむずかしい
相手のやっていることが自分のポリシーに反するだとか、そういうのは「違う宗教を信じている人」とでも思って付き合えばいいと思う。
だけど、自分の身近にいて、「そのまま」を容認してしまうと、自分にどんどんダメージを与えてくるような人を愛することは、むずかしい。正直どうやって付き合えばいいのか分からない。
だからこそ、それができる人が素晴らしい人と称されるわけで。
嫌いな人でも「愛することは可能」であっても、「愛さなきゃいけない」ということではないんだと思う。
人生は有限で、自分には子供もいるし、追い続けたいものを探したり、「好き」に恩返しをしたりと、なかなかにエネルギーが足りない。
だからきっとその相手を「それでも愛したい」と思えるかどうかしかないんじゃないかな。
でもその時は必ず忘れないでいたい。
あなたの幸せと、私の幸せ、「お会計は別ですよ」