【素面のダブリン市民】第4回 ダブリンお茶事情(北村紗衣)
紅茶好きのアイルランド人
連載第4回となる今回は「素面のダブリン市民」というタイトルにふさわしく、ダブリンのお茶事情について書きたいと思います。紅茶と言えばイギリス…と思う人が多いかもしれませんが、実はアイルランドのほうがひとりあたりの紅茶消費量はイギリスより多く、トルコに次いで世界で2番目にたくさんお茶を飲む国民です。イギリスでは最近、初めて日常的にコーヒーを飲む人のほうが紅茶を飲む人より多くなったことが大きく報道されていましたが、アイルランドのほうがイギリスよりも紅茶好きの国と言えます。カップの大きさや飲み方によるのでざっくりした推定ですが、アイルランド人は1日に4~6杯の紅茶を飲むそうです。
ブリテン諸島ではブレックファストティー(朝食用の紅茶)なるものがたいていのスーパーで売られています。アイリッシュブレックファストティーはアッサム茶葉を使う紅茶で、たっぷりミルクを入れて飲みます。イングリッシュブレックファストティーよりも強いフレーバーだと言われています。他にもスーパーではいろいろな種類の紅茶が売られています。
アイルランド版きのこたけのこ戦争?
日本にはきのこたけのこ戦争なるものがあります。これは明治が出しているチョコレート菓子「きのこの山」と「たけのこの里」のどちらが美味しいかをめぐる論争のようなもので、「戦争」と言っていますが真面目なものではありません。まあインターネットの面白ネタです。なお、私は子どもの頃からきのこ派です。
アイルランドにもきのこたけのこ戦争に似た論争があります。紅茶はバリーズ(Barry’s)かライオンズ(Lyons)か、という論争です。どちらもアイルランドの紅茶ブランドですが、ライオンズは現在、リプトン・ティーズ・アンド・インフュージョンズ傘下です。
私は3年半ロンドンに住んでいたことがあるのですが、アイルランドに来てまずイギリスと違う!と思ったのは、スーパーで必ずバリーズとライオンズの紅茶を売っていることです。ロンドンでは通っていた大学のすぐそばにトワイニング本店があったのでトワイニングを飲んでいたのですが、ダブリンのスーパーにはトワイニングなどイギリスの紅茶も売ってはいるものの、存在感が大きいのはバリーズとライオンズです。年によって統計にかなりばらつきがあるのですが、2社ともにアイルランドの紅茶市場の3割~4割近くをしめる売り上げを確保しています。
バリーズはアイルランド南部の都市であるコークで1901年にジェームズ・J・バリーが開いた紅茶店が始まりで、コークではバリーズが圧倒的に人気だそうです。ライオンズはユダヤ系ドイツ人の移民の一家が立ち上げた嗜好品や食品関連の事業であるサーモン・アンド・グラックスティーンズの一環として、重役だったジョゼフ・ライオンズが1904年から展開したお茶のブランドです。アイルランドでも北部や西部のほうではライオンズが人気だと言われています。この2種類のお茶はアイルランドの紅茶市場でしのぎを削っており、どっちが美味しいかネットなどでよくネタにされています。
この2種類のお茶ですが、飲み比べてみてもそんなに味に大きな違いがあるわけではない…と思います。この記事を書くため、両方のオリジナルブレンドを買ってきて飲み比べてみたのですが、見た目も味もそこまで変わりませんでした。強いて言えばバリーズのほうがちょっと渋い感じの香りが強く、ミルクに合うので私はバリーズ派です。
カフェが人気のビューリーズ
バリーズやライオンズの他に、アイルランドの有名紅茶メーカーとしてはビューリーズがあります。ビューリーズの家庭用紅茶市場のシェアはこの2社に比べると少ないのですが、むしろダブリンでも最も有名なカフェで、地元のランドマークになっているビューリーズ・カフェの経営元としてよく知られています。現在グラフトン・ストリートにあるアール・デコ様式のカフェは1927年にできたものです。紅茶のみならずコーヒーやケーキを出す老舗として観光客にも人気です。有名喫茶店の味を自宅で…ということで、ここが出している家庭用紅茶は甘いお菓子に合いそうなしっかり味です。
ビューリーズの定番のひとつであるメアリーケーキは上にマジパンがのった非常にこってりしたチョコレートケーキで、ミルクティやコーヒーによくあいます。1956年にハンガリー動乱を逃れてきた難民の菓子職人であるヘンリー・スペルターがアイルランドに持ち込んだもので、その後レシピが失われてしまっていましたが、2年前にヘンリーの孫ヘイゼルの助力でメニューに復帰しました。ライオンズもユダヤ系ドイツ人一家の事業から始まっていましたが、カフェ文化が盛んな中東欧はヨーロッパ各地の喫茶・コーヒー文化に影響を及ぼしています。ライオンズやビューリーズはアイルランドの定番ですが、移民たちから多大な貢献を受けています
創設者のビューリー一家はクェーカーで、1840年に飲料会社のビューリーズ社を設立し、その後、カフェの営業も開始しました。ブリテン諸島のクェーカー人口はそんなに多くはないのですが、ビジネス分野ではクェーカーが設立した有名企業がたくさんあり、とくに食品分野でめざましい業績をあげています。クェーカーは勤勉を尊ぶ上、飲酒に反対していたので、紅茶やコーヒー、チョコレートといったアルコールに変わる嗜好品産業を開拓することは健康的で道徳上好ましい仕事と考えられていました。ビューリーズのみならず、イギリスの大手チョコレートメーカーであるキャドバリー、キットカットの原型を開発したラウントリー、やはりチョコレートメーカーであるフライ、ビスケットメーカーのハントリー&パーマーズなどもクェーカー系の企業です。最近、アイルランドの国民劇場であるアビー劇場でエリザベス・クティの2005年の戯曲$${\textit{The Sugar Wife}}$$がリバイバル上演されましたが、この作品は19世紀ダブリンで砂糖やお茶の事業を営むクェーカーの一家の物語で、おそらくビューリーズなど、実際に食品事業をしていたクェーカーをヒントにしていると思われます。アイルランドを含む大英帝国において喫茶文化が広がったのはもちろんインドを植民地にしていたという帝国主義政策によるところが大きいのですが、背景にこうしたクェーカーのビジネスがあったというのもとても興味深いことです。
ビューリーズはカフェの他、ビューリーズ・カフェ・シアターという小さな劇場を併設しており、ランチタイムに1時間くらいの短編を上演しています。6月から7月にかけては前回の記事でもとりあげたブルームの日にあわせてジェイムズ・ジョイスの短編小説の舞台版を上演していました。ジョイスはグラフトン・ストリートの店ができる前に他の場所にあったビューリーズの店に行っていたそうなので、一応ゆかりがあるということになります。
コーヒー派はどうする?
紅茶好きのアイルランド人ですが、コーヒーも大好きです。ダブリンはアメリカ領サモアのパゴパゴの次に人口あたりのコーヒー店が多い首都だそうで、そこら中にコーヒーを飲むところがあります。私は紅茶派なのですが、ダブリンにはけっこう悪くないコーヒーを出す店もあるな…という感触です。
現在はフラットホワイトが大人気だそうですが、アイルランドにこのコーヒーが入ってきたのは2019年くらいだということなので、瞬く間に人気が出たということになります。フラットホワイトはニュージーランドやオーストラリアで定番として愛されているミルクをたっぷり入れたエスプレッソで、私は2011年にニュージーランドに出張した時に初めてフラットホワイトをお店で頼んで、すごく飲みやすいと思いました。2018年に映画『クレイジー・リッチ!』で大きく取り上げられていたので、それで初めて見たという方もいるかと思います。
アイルランドというとギネスやウィスキーなどのアルコール飲料を思い浮かべる人も多いと思いますが、お茶やコーヒーを楽しめる機会もたくさんあります。今回の記事で説明したように、カフェや喫茶の文化にもいろいろ歴史的背景が見つかります。ダブリンは素面でもけっこう飲み物を楽しめる町です。
※この記事には、JSPS科研費JP23K00410の助成を受けた研究の成果をもとにしたアウトリーチが含まれています。
プロフィール
北村紗衣(きたむら・さえ)
北海道士別市出身。東京大学で学士号・修士号取得後、キングズ・カレッジ・ロンドンでPhDを取得。武蔵大学人文学部英語英米文化学科教授。専門はシェイクスピア・舞台芸術史・フェミニスト批評。
twitter:@Cristoforou
ブログ:Commentarius Saevus
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