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【素面のダブリン市民】第8回 ウェクスフォード・フェスティバル・オペラ(北村紗衣)

アイルランドのオペラハウス事情
 
ダブリンにはオペラハウスがありません。60万人近い人口を有するヨーロッパの国の首都なのにこれは不思議…というか、そこそこの規模の地方都市ならオペラハウスがあることが多いヨーロッパでは驚きの事態です。ヨーロッパの国の首都で他にオペラ用劇場がないのは人口13万人ほどのルクセンブルク市だけでしたが、ルクセンブルク大劇場は2000年代初めに大がかりなオペラを上演できるよう改修を行いました。アイルランドは現在ヨーロッパで唯一、首都に大規模なオペラに適した劇場が無いという不名誉な状況になってしまっています。

 とはいえダブリン市民は大変な音楽好きで、シン・リジィやU2、ホージアなど、著名なミュージシャンをたくさん輩出しています。伝統音楽やポピュラー音楽は非常に盛んですし、クラシック好きもけっこういます。何しろヘンデルのオラトリオ『メサイア』は1742年にダブリンで初演されているくらいで、クラシック音楽についても充分伝統があります。

ミュージカル『ハミルトン』を上演中のボード・ガシュ・エナジー劇場

 じゃあダブリン市民はどこにオペラを見に行くのか…というと、アイリッシュ・ナショナル・オペラはグラフトンストリートの側にあるゲイエティ・シアターか、ウォーターフロント開発地域であるドックランズのボード・ガシュ・エナジー劇場で上演を行っています。ゲイエティはヴィクトリア朝に作られた素敵な建物ですが、私が思うにヴィクトリア朝劇場の欠点も全て抱えている会場で、舞台が狭い上に客席からの視界も悪く、現代のオペラ上演には適していません。ボード・ガシュ・エナジー劇場は主にウェストエンドの大がかりなミュージカルをツアー上演するための場所です。このため、ダブリンのオペラファンはうちの街にもオペラハウスが必要だ…と以前から不満を漏らしています。

 実はアイルランドには長きにわたりオペラハウスがありませんでした。1877年にコークでこれまで使われていた劇場が改装されてコークオペラハウスとなり、1896年に現在の北アイルランドにあたるベルファストにグランドオペラハウスができましたが、それまではオペラハウスと名の付く劇場もなかったことになります。さらにコークもベルファストもオペラを専門的に上演する劇場というわけではないので、大陸ヨーロッパの本格的なオペラハウスに比べるとだいぶ折衷的と言えるかもしれません。

ウェクスフォード・フェスティバル・オペラとは?

ウェクスフォードの文字が入った記念碑

 オペラハウス事情が悪かったアイルランドですが、2008年にようやくナショナルオペラハウスができました。このナショナルオペラハウスがあるのはダブリンから鉄道で南に2時間半くらい行ったところにある人口2万3千人ほどの地方都市ウェクスフォードです。なぜそこまで大きくない町にナショナルオペラハウスがあるのか…というと、ここで毎年、歴史あるオペラ祭であるウェクスフォード・フェスティバル・オペラが実施されているからです。

 ウェクスフォード・フェスティバル・オペラは1951年、トム・ウォルシュをはじめとする有志たちが作ったオペラサークルによって、ほとんど地元の人たちの手弁当といっていいような形で始められました。サークルのメンバーは医者であるウォルシュをはじめとして、郵便配達人とかホテルの経営者とか、音楽とは関係ない仕事をしているような人たちでした。ウェクスフォードにはシアターロイヤルという1830年にできた劇場があり、そこで地元に住んでいたことのあるアイルランド人の作曲家マイケル・ウィリアム・バルフの作品『カスティーリャのバラ』がオペラ祭初年度に上演されました。その後どんどん規模が拡大し、今では世界的に名の知れたオペラ祭です。例年、10月から11月頃に開催され、多くの人が訪れます。シアターロイヤルはオペラ祭開始時点でだいぶ古くて使いにくくなっていたため、2008年に同じ場所に新しい劇場が建てられ、ナショナルオペラハウスとなりました。


ナショナルオペラハウスの客席。ウィキメディア・コモンズより

 『カスティーリャのバラ』($${\textit{The Rose of Castille}}$$)なる作品は聞いたこともないという人が多いと思いますが、ウェクスフォード・フェスティバル・オペラの特徴のひとつは、こうしたあまり上演されない演目を積極的にとりあげることです。また、ガエターノ・ドニゼッティの作品をあまり見る機会がないものも含めて盛んに上演しています。演目のチョイスは最初の芸術監督だったウォルシュの趣味によるところが大きいようですが、オペラ初心者である私が見たところでは、とくに初期はかなりオタクっぽい…というか、「タイトルを聞いたことはあるけど見たことないから見てみたいな」と思うような作品を選んでいるように見えます。今とは違ってすぐに音源や映像が手に入る時代ではありませんから、面白そうだけど見たことがない演目を地元で上演し、仲間と一緒に観劇できるというのは、オタクにとって夢のような機会だったに違いありません。オペラというと高尚な趣味だと思って敬遠してしまう人もいるかもしれませんが、まあオタクが考えることはどのジャンルでも同じですね。

 手弁当でオペラ祭を初めてしまうというのはビックリする人もいるかもしれませんが、実はこの種の伝統ある舞台芸術祭というのはオタクの思いつきみたいなきっかけで始まったものもけっこうあります。アメリカ合衆国で最も歴史があり、規模も大きいシェイクスピア祭であるオレゴン・シェイクスピア・フェスティバルは、開催地であるアッシュランドで先生をしていたアンガス・L・ボウマーが、もともとはシャトーカと呼ばれる教育イベントの会場だった空き地でシェイクスピアを上演したらいいのではと思ったことから始まっています。個人的にウェクスフォードやアッシュランドの舞台フェスの始まり方は、映画やドラマにしてもいいくらいは面白いのでは…と思っています。

今年のウェクスフォード

ウェクスフォードの海

 私の専門分野はシェイクスピアを中心とするブリテン諸島のストレートプレイで、オペラは趣味でたまに見る程度なので、通り一遍の演目しか見たことがないまったくの初心者です(しかも好きでよく見るのはヘンデルのバロックオペラやギルバート・アンド・サリヴァンのサヴォイオペラなので、王道のレパートリーに比べるとだいぶ偏っています)。しかしながらダブリンから鉄道で行けるところで有名オペラ祭があるということなら是非行ってみねばなりません。ウェクスフォードは珍しい演目が特徴なので全然初心者向けではないのですが、それでもまあいくらでも楽しみ方は見つかるでしょう。ハロウィーンの10月31日から11月3日までウェクスフォードに滞在し、3日間で7本、フェスの公式演目全てを見ることができました。

 今年のウェクスフォード・フェスティバル・オペラのテーマは‘Theatre within theatre’(舞台のなかの舞台)でした。役者が何かを演じるとか、見せ物的な要素がある演目が選ばれています。メインステージではピエトロ・マスカーニの『仮面』、ドニゼッティの『劇場の都合不都合』、アイルランドの作曲家であるチャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードが同じくアイルランド系の有名な劇作家リチャード・ブリンズリー・シェリダンの戯曲をオペラ化した『批評家』、ルッジェーロ・レオンカヴァッロの『道化師』が上演されました。この他、スタジオでは短めの新作として、プッチーニの生涯を描いたPuccini: Man of the Theatreと、ウェクスフォードに近いエニスコーシー出身の著名作家(映画『ブルックリン』の原作者)コルム・トビーンが台本を担当した『アメリカのレディ・グレゴリー』($${\textit{Lady Gregory in America}}$$)の2本が上演されました。さらに地元の人が参加するコミュニティ公演として、海の近くのイベントスペースでドニゼッティ『愛の妙薬』が上演されました。『道化師』と『愛の妙薬』は定番で2本は新作ですが、それ以外の3本は聞いたこともない演目です(『批評家』は戯曲を読んだことがあったのですが、オペラになっているのは知りませんでした)。それぞれの演目の個人的な感想については、タイトルから私の個人ブログにリンクを張ったのでそれを読んでいただきたいと思います。

 全体的にはとても楽しいオペラ祭だったのですが、ちょっと失敗した…と思ったのは、夜の公演は9割くらいの人が正装していたことです。オペラ祭は私が慣れているフリンジ系(小規模でアート的な公演)の演劇祭などとはかなり違う文化圏で、バイロイト音楽祭やグラインドボーン音楽祭にはかなりちゃんとしたドレスコードがあります。以前グラインドボーンに行った時は着物を着ていったのですが、今回アイルランドには着物を持ってきていませんでした。ナショナルオペラハウスのウェブサイトにはちゃんとした格好なら何でもいいというようなことが書かれており、フェスティバルのサイトでは正装が望ましいが強制ではないということが書かれていたので、できるだけ新しいセーターなどを持っていった…のですが、夜の公演ではタキシードやドレス、民族衣装などでビシっと決めている人がほとんどで、私みたいな仕事が終わってそのまま来ました…みたいな格好をしている人は1割弱くらいでした。よれよれの服で来る人も多い小劇場とはえらい違いです。少し前に太田出版サイトの連載で『月の輝く夜に』について話した時も触れましたが、私はオペラでもバレエでもそのへんのフリンジ劇場と同じ格好で出かけてしまうタイプで、ほとんどの場合はたいして浮くこともないのですが、さすがにオペラ祭にはもっとマシな服を持ってくるべきだったと思いました。

 もうひとつビックリしたのは、夜の公演では必ず毎回、上演前にアイルランド国歌「兵士の歌」の演奏と斉唱があることです。しかもアイルランド語で歌われます。『仮面』の最初には国歌斉唱にひっかけたジョークも最初にありました。ウェクスフォードはアイルランドが世界に誇るオペラ祭なので、できるだけ格式の高い雰囲気を作ろうとしているようです。

 ウェクスフォードではソワレと午後のマチネだけではなく、午前中にも短い公演があるので、1日に3本もオペラを見ることができます。午前やお昼すぎのスタジオ公演は私がいつも行っているような芝居とたいして変わらない雰囲気で、普段着の人が大半でした。『アメリカのレディ・グレゴリー』の公演には台本作家のコルム・トビーンも来席していました。

 公演の中で私が一番面白いと思ったのは『愛の妙薬』のコミュニティ公演です。劇場ではない場所を使い、パブみたいなテーブルにお客さんを座らせて行う現代版の演出で、地元の人たちが参加しています。主役を演じるプロの歌手はもちろん、アマチュアのコーラスの水準がかなり高く、とても楽しそうに歌っていて、こちらもくつろいで心から笑いながら主人公たちの恋路を応援することができました。オペラというと都市部のエリートのものと考えられることが多いのですが、ウェクスフォードは地元のオタクが立ち上げたという精神をできるだけ受け継いでやろうとしているんだな…と思いました。正装で格式の高い夜の公演もいいですが、私のようなフリンジ通いをしているお客がリラックスして楽しめるのはこういうタイプの公演のほうです。

 なお、ウェクスフォード・フェスティバル・オペラの公演のうち、『劇場の都合不都合』はYouTubeのオペラヴィジョンチャンネルで来年5月2日まで無料で見ることができます。オペラヴィジョンはいろいろな公演を無料配信しているYouTubeチャンネルで、日本の新国立劇場も参加しています。興味のある方は是非のぞいてみてください。

参考資料
Karina Daly, The History of Wexford Festival Opera, 1951–2021, Four Courts Press, 2021.
Axel Klein, ‘Stage-Irish, or the National in Irish Opera, 1780-1925’, The Opera Quarterly, 21.1 (2005), pp.27–67.

プロフィール
北村紗衣(きたむら・さえ)

北海道士別市出身。東京大学で学士号・修士号取得後、キングズ・カレッジ・ロンドンでPhDを取得。武蔵大学人文学部英語英米文化学科教授。専門はシェイクスピア・舞台芸術史・フェミニスト批評。
twitter:@Cristoforou
ブログ:Commentarius Saevus

『女の子が死にたくなる前に見ておくべきサバイバルのためのガールズ洋画100選』北村紗衣(書肆侃侃房)

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