線維筋痛症とわたし
はじめに
これは、原因不明の疼痛により、17日間 の検査入院を経て「線維筋痛症(せんいきんつうしょう)」の診断を受けた 2020年1月 から、個人事業創業前となる 2022年1月頃 までの、私自身の記録です。
線維筋痛症による症状や痛みの度合いには個人差があると言われており、日常生活に何ら問題のない方から、動くこともままならず寝たきりとなる方まで、生活レベルも多様です。
現在、推定患者数は200万人とも言われますが、この病気の根本的な治療法は未だ確立されておらず、医療機関では、症状やその時々の状態、本人の望む生活などによって様々な治療が試みられます。
しかし、民間療法を含め、その効果についても個人差が大きく、一概に評価はできません。
ここに綴る内容は、線維筋痛症という病気を定義するものでも、症状・治療を代表するものでもありません。
あくまで、私個人の経験・体験・感じたことであり、ひとつの症例・ひとりの患者の想いとして、お含み置きいただければと思います。
序章
思えば 20代 後半頃から、何となく身体のアチコチに「痛み」みたいなものを感じていたのかも知れない。
突然、「手首」がつるように痛んだり、扇風機の「風」が痛く感じたり、体をさすられると痛みが走ったり。
杭でも刺さってるのか…のような肩甲骨内側の痛みも、その頃からずっと続いている気がする。
しかし自身の母も若い頃、似たようなことを言っていた記憶があって、体質とか家系とか、そんなモノかな…と思い、特段気にはして来なかった。
異変を感じ始めたのは、2018年 年末。
微熱と頭痛が続き、椅子にただ座っているだけでもたまらないほどの脱力感が、全身を襲った。
「更年期」ってヤツ…だろうか。
まだちょっと早い気はしつつも婦人科へ通い、ホルモンバランスを整えながら、だましだまし数ヶ月を過ごした。
2019年の夏、足の親指にひどい痛みを感じ始めた。
歩くのもままならなくて、じっとしていても疼くような痛みが襲う。
近所の整形外科を受診したが原因は分からず。
足の形を整える「サポーター」の着用をすすめられたが、痛みが増幅するため開始間もなく着用をやめた。
その後痛みは、ひざ、ひじ、手首などへと徐々に広がり、冬を迎える頃には体中、あらゆる箇所が痛むようになっていた。
38℃ 近い微熱も続いていて、いくつもの病院を巡り、整形外科、内科、リウマチ科、膠原病内科、婦人科などを訪ねてみたものの、結局、原因は分からなかった。
憂鬱な気持ちで病院を転々としたある日、大学病院にあるという「総合内科」の紹介を受ける。
そして 2020年1月、初めて訪れた大学病院で検査入院が決まった。
検査入院 その1
入院中は、実に様々な「検査」を受けた。
レントゲン、CT、MRI、エコー、内視鏡…
採血にいたっては、何度受けたかも分からない。
それでも、痛みの「原因」は見つからなかった。
最終的には、4日間にわたる「ステロイド」剤の服用が試され、効果がないことを確認した上で、ようやく「診断」がつくことになる。
ー 線維筋痛症 ー
少し前に、同じ病気による有名人の活動休止が報じられ、どんな病気なのか、インターネットで調べたことがあった。
検索結果は、どれも自分と似たような症状で「もしかしたら自分も…」とは思っていた。
なので、その病名自体に驚きはなかったものの、望まない診断であることは間違いなかった。
検査入院 その2
検査入院が終わったら、痛みの原因も分かって治療も受けて、元気 100倍 で職場に戻れる…と思っていた。
いままで通りの「生活」が待っていることを、信じて疑わなかった。
けれど、当時の主治医から聞いたのは、「休む」ことが一番の「治療」であり、個人差はあるものの、2~3年 仕事を休んでやっと「アルバイト」や「パート」に出られるレベルの病気だ…ということ。
家事は家族の協力を得てもらって、仕事は当面休むことをすすめたい…という話だった。
その上、疼痛コントロールはまだ始まったばかりで、薬の調整には早くて半年から 1年、長ければそれ以上の時間を要すると言う。
ニュースで聞いた有名人のように、すべての仕事をキャンセルして「治療」に専念できればいいのだろうけれど、私のような庶民はそうはいかない。
我が家には子どもこそ居ないものの、住宅ローンも残っているし、老々介護をしている実家の両親のサポートだって続けていかなきゃならない。
退院してからが治療の始まり
その現実に直面し、不安に押し潰されそうな気持ちのまま、17日間 の入院生活にピリオドを打った。
自宅療養 その1
退院直後から、カラダの痛みだったり、置かれた状況だったりを「客観的」にとらえないと、自分が保てないような気がしていた。
今後、起こるであろう様々な変化を、冷静に受け止めるための手っ取り早い手段として、自宅療養 3日目 に「ブログ」を思いつき開設した。
自身の症状や治療方法、日々の出来事や気持ちの変化などを綴っていくことが、この病気に対する理解につながれば…そんなことを思っていた。
不器用ながらも痛みと向き合う姿が、同じように苦しむ誰かの小さな励みになるといいな…という、ささやかな「希望」みたいなものもあったと思う。
痛みの種類は数多く、痛む箇所や痛みの度合いによっては、激痛にもだえたり「息」さえもまともにできなくなったりする。
リビングでは、スマートフォンをタップした「指先」が
キッチンでは、包丁とまな板が触れ合う感覚の伝わる「ひじ」が
浴室では、お湯の飛び散った「足先」が
あらゆる「刺激」が「痛み」となる。
この「痛み」と一生つきあっていくのかと思うとゾッとするけど、いつかきっと私に合う薬が見つかる!
薬との「つきあい」も長く続いていくのだろうけれど、それを「悲観」するのか、手立てがあるだけ「幸せ」と思えるのかは、自分次第。
できるだけ前向きに、一つひとつ乗り越えよう。
「病」はカラダだけで十分。
そう、自分に言い聞かせていた。
自宅療養 その2
家に居れば、時間はたっぷりあるので、改めて「線維筋痛症」について、どんな病気なのかを調べていた。
しかし結局、イイトコなしの情報ばかりで、調べる度にガッカリした。
それでも、わずかな「例外」を知り、自分自身も、いつかその「例外」となれることを夢見て、前を向いていたい…そう思っていた。
ある日、相変わらずの絶不調ではあったものの、伸びてまとまらなくなった髪の毛に耐え切れず、行きつけの美容院を訪れた。
行くまでの車の運転もなかなか…だったけれど、美容院のイスに「ただ座っている」だけのコトが必死だった。
全身あぶら汗をかきながらも、鏡に映った私は涼しい顔で笑っていた。
しかし、シャンプー台へと立ち上がれば、おかしな歩き方に「どうされたんですか?」と尋ねられ、話題は結局「病気」のことになる。
全身に痛みの起こる難治性の病気とかで、2~3年 かかってやっとパート勤務ができるくらいと聞いた…そんなようなコトを伝えたと思う。
その後、担当のスタイリストから、同じ大学病院に通う心臓病のご家族の話を聞き、いつ爆発するかも知れない「爆弾」を抱えた生活というのも、ご本人も、支えるご家族も大変だな…と、そんなコトを思いながら耳を傾けていた。
うっとうしかった髪の毛は、スッキリきれいになった会計時
「自分の家族の病気は一生ものだけれど(あなたの場合)2~3年 でよくなるって思えば、何か頑張れる気がしますよね!」
そう励まされ店を出た。
初めて味わう、何とも言いようのない気持ちでいっぱいだった。
その方にもちろん悪気はないし、おっしゃる通りなのかも知れない。
しかし私は、今後必要のない限り「自分の体調のことや病気のことを人に話すのはやめよう」そう強く心に決めた。
自宅療養 その3
加入している生命保険には、女性疾患の特約が付いている。
しかし、「線維筋痛症」は対象にならないということで、検査入院時の「保険」請求は、「入院給付金」のみとなった。
客観的所見がないと言え、女性の割合が 8割 を超える…と言われる病気が「対象外」となることに何だか納得がいかず、ひとつの意見として、自身の想いをコールセンターに伝えた。
ただでさえ、公的支援がなかなか受けられない「病気」のひとつ。
せめて、民間の「保障」だけ…でも、いつか当然に受けられるようになって、ほんのちょっと救われる人が増えるといいな。
そんなふうに思う。
ある日、Yahoo!ニュースに「線維筋痛症に新たな選択肢」という見出しで、低侵襲の磁気治療機器に関する記事が取り上げられていた。
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線維筋痛症に限らず、急性から慢性の腰痛、月経痛、化学療法後の末梢神経障害などへの効果も期待されている。
承認されれば、臨床試験に参加している医療機関を中心に機器を患者に貸し出して治療を開始する。
レンタル代は月額 2万円 前後になる予定。
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原因不明、根治療法はない…と言われながらも、日々臨床研究を続ける人がいて、200万人 を超える…とも言われる我々患者に、光を当てようとしてくれている。
まずは「生きること」にすら、希望を持てないほど苦しんでいる人たちに、可能性がめぐってくることを強く願いたい。
当時、自身のブログ記事には、そんな想いを書き残している。
あれこれ情報をかき集めていると「線維筋痛症」がどんな病気かはおろか、病名すらもあまり知られていない一方で、安易にその病名がつけられているような事例…というのが見え隠れし始めた。
グレーゾーンは、意外と大きいのかも知れない。
とは言え、確定診断ができる医師は日本でも数名と言われていて、自身もその医師の診断を受けたわけではない。
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当時主治医より、関西の医師を紹介するこ ともできるとの話があったが、確定診断が出たからといって治療法が変わるわけではないため、その紹介を受けなかった。
線維筋痛症患者の多くは、この病気の診断について、確定までは得ていないものと思われる。
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あくまで「消去法」でたどり着いた、暫定的な診断に過ぎず「グレー」と言えばそれまでなのだけれど、医師が患者に触れることなく、様々な検査によって考えられる他の疾患を除外した後でもなく、いつの時代だかの「自律神経失調症」とか「不定愁訴」と同じような感覚で片付けられている現実があるとすれば、それはそれで問題だ。
まずは、医療に携わる人たちの正しい理解がなければ患者は惑うことになるわけ…なのだが、そのあたりの格差是正は然るべきところへお任せするとして、我々患者側も、ある程度の情報・知識は得ておくべきだと思う。
重大な疾患が見落とされないためにも、心気症のような状態で必要以上に思い悩まないためにも、原因不明の疼痛が続いたら、「線維筋痛症」の名前が浮かんだら、是非、臨床研究の行われている設備の整った、大きな病院を受診してほしい。そう、思う。
自宅療養 その4
退院から10日、すでに気持ちは追い詰められていた。
この頃、37.5度 を超える微熱がずっと続いていて、それもまた「悩み」だった。
薬が効いて痛みがなくなれば平熱に戻るのか、それがいつなのか、この先ずっと続くのか。
何も分からないまま、ただ処方された薬を飲み、副作用に耐え、その効果が現れるときを待っているしかない。
岩盤浴、酸素カプセル、軽い運動
よさそうなものは色々試してみたい。
けれど、ココロもカラダも簡単には追いついて来てくれなくて、焦燥感が募った。
また、気分の落ち込みも激しくなった。
テレビの何でもない場面で突然、涙が止まらなくなったり、食事中、痛みで箸も持てない状態を見かねた夫が、背中に手を当ててくれた途端、大人気もなく嗚咽を上げて泣いてみたり。
精神的に、不安定な状態が続いた。
家族は皆、うつ状態が続き「自死」を選んでしまうのではないかと、気が気ではなかったという。
私自身も、気がどうにかしてしまいそうだった。
いまは静かに、ただこの「様子を見る」時間に流されていよう…と、自分に言い聞かせるのに必死だった。
たまに外に出かけると、誰かからそっと受け取った優しさに心の奥から救われる、そんな気持ちを味わう場面がたびたびあった。
エレベーターに乗り合わせた人が、扉を開けてずっと待っていてくれたり、スーパーの店員さんが、並んでいるレジの前へやって来て、カートに積んだ買い物カゴを運んでくれたり。
その人にとっては、ちょっとした「気遣い」、単なる「仕事」かも知れないことが、本当にうれしくて、ありがたかった。
このカラダになって「よかった」ことがあるとすれば、見ず知らずの人たちの「あたたかさ」に幾度も触れ、受け取った「うれしい」と「ありがとう」のバトンをまた、別の誰かに渡したいと思えるようになったこと。
誰かの見えない「痛み」を、本当の意味では理解できないのだとしても、分かろうとする努力はしたい。
例え片手が無くとも、もう片方の「手」があれば、すすんで伸ばせる、そんな人間でありたい。
心から、そう思えるようになったことだと思う。
だから、私はこの「病気」を恨まないし、やみくもに闘うこともしない。
ちゃんと向き合って話し合って、折り合いをつけたいと思っている。
その気持ちが、いまも自身を保つ、ひとつの要因になっているのかも知れない。
身近な人たちからかけてもらう「調子どう?」「よくなった?」という、ありがたいはずの言葉が、いつしか、ちょっとしたストレスになっていた。
「よくなってなんかないし!」と苛立ちを覚えたところで、それを相手にぶつけるのも違うし、「調子はずっと悪いんです」「よくならなくて…」そう言って、心配をかけるのも違う。
何と答えるのがいいのか分からず、結局「ぼちぼちですね」とか「まずまずです」みたいな返答になるものの、それもやっぱり違って、モヤモヤしたものが残る。
なので「いっそのこと、そっとしておいてほしい」そんなふうに思うことさえあった。
けれど思い返せば、自分自身も脳梗塞の再発を繰り返し、数年前から介護が必要になった父に会うたび
「お父さん、調子どう?」
そう、当たり前のように声をかけてきた気がする。
ゴールの見えない、アップダウンの激しい道を行くその人に、最近のコンディションや進み具合を尋ねるのは、やはり何か違うのだと思う。
相手が、色々余計なコトを考えなくていい「ことば」を選ぶことも「やさしさ」なのではないか。
随分、ときが経ってそう気づくのも、やはり自身の経験を経て…なのだ。
「お父さん、気分はどう?」
それが正解かどうかは未だに分からないが、以降、父に会ったときはそんなふうに声をかけることにした。
自宅療養 その5
退院から、3週間が経とうかという頃、自身の社会復帰にはいろんな「ギャップ」や「弊害」があることを、何となく感じ始めていた。
「痛み」に対する苛立ちは、日に日にひどくなり、自らを傷つけてしまいたくなる衝動も「なかった」とは、言えない。
そんな様子を知りながら、家事や生活動作に「援助」を求めることなく、何でも自分でしようとする妻に、夫は夫で苛立ちを覚えていて、夫婦関係はどこか「ギクシャク」したものになっていた。
ある日、このままではいけない…と、どちらからともなく話し合いの機会を持った。
夫の口からは、案の定「もっとオレを頼れ」という言葉が出てきた。
私は、常に痛みを必死に耐えている状態だ…ということ。
少しでも気を抜くと、いまにも寝ついてしまいそうな、そんな「恐怖」を感じていること。
いまは、日常生活の中にも「自信」を得たい。
結果的に「できない」ことは、それ以上無理をせず夫にお願いするので、とりあえず自分で「やってみる」ことを許してほしい。
そんなようなことを伝えた。
夫からはさらに、私からの連絡がないと仕事中も気が気じゃない…ということで、携帯電話への着信ひとつ、メッセージのひとつでもいいから連絡を入れてほしいと言われた。
「家族」の存在が、私を支えてくれていることは言うまでもない。
退院からひと月が経った頃、私はこのカラダ、この病気と上手く付き合う「術」みたいなものを探っていた。
ずっと敬遠し続けてきた「ロボット掃除機」を、ついに購入し、家事の負担軽減を試みた。
食器用洗剤は、本体をギュッとにぎるタイプの「スクイズボトル」から、ポンプタイプの「ディスペンサーボトル」に変更。
外出時の荷物は、できる限りの軽量化を図ることにした。
財布は 100g 以下のものに変え、バッグは 400g を切るものを買いそろえた。
それでも重さが負担になるときは、ショルダーバッグやボディバッグだったものを、「ウエストポーチ」に変えてみた。
靴も足に負担のかからないものに買い替え、春の「足音」が聞こえるまで、服は軽くてあたたかいものを選んだ。
日常生活の、ちょっとした「工夫」で痛みが軽減できること、多少の痛みであっても、それを和らげることができれば、ココロはずいぶん軽くなることなどを、身をもって感じた。
なくせる「ストレス」は、なるべく早く取り除く。
生活動作に限ったことではないのだろうけれど、それがこの病気との、お付き合いの「ベース」のような気がしている。
社会復帰についての考えも、徐々に変わっていった。
「回復」を待っていたのでは、いつ職場に戻れるのか分からない。
カラダに合わせて生活をするということが、私にとってはすなわち、越えらない「壁」をつくることのように思えた。
完治は難しい…というのであれば、いっそのこと早いうちに元の生活に戻って、「生活」にカラダを合わせていくほうが賢いのではないか。
そんなふうに思い始めていた。
あるとき、もしこの病気が治ったら、痛みを消すことができたら「やりたいこと」というのを考えてみた。
・かかとの高い靴を履いてお出かけ
・夫とバイクでロングツーリング
・国家試験に挑戦
・気合いを入れて家の掃除
・思いっきり背伸びをする
・お行儀よくごはんを食べる
・笑って過ごす
・毎日を楽しむ
考えれば考えるほど、切なさだけが残った。
同じ頃、「気のせい運動」というのをやってみている。
指先のこわばるような痛みも気のせい。
腕の肉がえぐられるようなのも気のせい。
背中に杭か何かが刺さっているようなのも
ひざの軋むような痛みも、全部気のせい。
しかし、どう思ったところで痛いものは痛い。
オマケに、現実との「ギャップ」に諸々追いつかず、さらに具合が悪くなる始末。
「運動」は、結局 2日 で終了した。
夫は私に「こんなにつらい思いをしているのに、自分は何もしてやれない」と言う。
離れて暮らす母は「かわいそうに…と案じるばかりで、代わりたくても代わってやれない」と言う。
私が「つらい」と言うと、大切な人たちが自分を責める。
きっと、見てるだけでも「つらい」から…と「見せない」ように努めても、それがまた周りを「つらく」させる。
「かわいそう」なのは、私ではなく、そばにいる家族のほうだと思う。
あるとき
友人・知人から「病気」を打ち明けられて、自分だったら、相手に何と伝えるだろう。
そんなことを考えていた。
久々に連絡を取った友人に、自身の体調について話した際、彼女が少し間をおいて発した最初のひと言に、衝撃を受けた。
「ちゃんと、寝られてますか?」
数々の「ことば」の中から選ばれ、出てきたであろうそのプロセスを見つめながら、私にはこの「病」を通しても学ぶべきコトがあるということを思い知った。
職場復帰 その1
2020年4月
まだ早いんじゃないか…という、医師と夫の心配を押し切り、二か月の自宅療養を経て私は職場へ復帰した。
それまでの、カラダとの「対話」中心の生活は一転。
イスに座っているだけでも汗がにじんで、気の遠くなるような痛みは容赦ない。
カラダの声を聞く「余裕」なんていうものは、まったく無かった。
働くことって、こんなに大変だったっけ…
それまで「当たり前」だった生活は、すでに「当たり前」ではなくなっている。
その「現実」から逃れることはできなかった。
とは言え、社会復帰は自らの選択。
命を落とす病気ではないんだし「死ぬ気」でやれば何とかなる
半ば「捨て身」の覚悟で目の前の仕事に食らいつきながらも、負けず嫌いな自身の性格を恨んだ。
それでも、復帰からひと月が経った頃には多少要領を得て、対外的にも自身の中でも居心地のいい「ポジション」のようなものをつかみつつあった。
絶妙なバランスで保たれる、その「領域」にたどり着ければ、きっと世界は軽くなる。
極めれば、線維筋痛症の「プロ」。
そう、この頃から私は「プロの患者」を目指していた。
職場復帰 その2
職場復帰から、3ヵ月。
自身の状態や働き方への理解について、会社の上層部と、直属の上司との間で、大きな「隔たり」があることに悩む。
無理のないように、ゆっくりしてもらったらいいですから。
職場の理解については心配いりません。
これからは、病気の人でも働ける環境を作っていかねば。
そんな上層部に対し、実際に身を置く現場では、どこか冷たい視線とか冷めた雰囲気なんかを感じていた。
以前は、冗談を言っては笑いあっていた上司とも、ほとんど会話がなくなり、いつしか関係はギクシャクしたものになっていった。
2ヵ月半も、仕事に「穴」を開けたのだ。
このくらいの「風当たり」は、当然。
そう思って納得したものの、やがて会社側からも「本音と建前」とでも言うのだろうか、聞いていた話と何だか違うことが、ポロポロと出てくるようになった。
いつの間にか、勤務は通常モード…どころか、誰よりも早く出社して、帰りは深夜。
土日祝日も出勤…という日が続いていた。
そんな「努力」の甲斐あって、夏のボーナスは、本来ならば「寸志」程度のところを、8割 支給してもらえるらしい。
いまのような調子で働けば、会社側は何の「文句」もなくて、冬は「満額」出せると言う。
どこまで頑張ればいいのか。
どこまで頑張っても、頑張っても頑張っても、きっと足りないのだろう。
そして、あるとき私は、上層部から受け取った「きれいなことば」に期待して、甘えていただけの自分…というものに気づく。
「病気」を抱える人間は、会社にとって「リスク」「お荷物」でしかない。病人は、血を吐く思いで働かなければ、社会からは必要とされない。
自分を守るために、持つことにしたその「認識」は、いまも変わってはいない。
誰にも後ろ指は指させない。
這っても転がっても、私は私のやり方でこの「壁」を乗り越える。
「不屈」の精神が私を強くし、また、苦しめた。
人生はおおむね、見えない「敵」との知られざる「闘い」だ。
職場復帰 その3
復帰から半年。
大丈夫、体調は必ずよくなりますから。
みんなにはこちらから話しておくので、職場の理解についても心配いりません。
一緒に頑張っていきましょう。
退院当時、そう言ってくれていた上層部の人間も、なかなか「快方」に向かう様子を見せない従業員に呆れはじめたのか、徐々に「風当たり」は、その強さを増していった。
毎日のように「大変ですねぇ…」と何か言いたげな笑みを浮かべ声をかけられる、その雰囲気が、何だかとても「不快」だった。
話し合いの「機会」を得れば、自身が患う「難病」のこと、少し前に緊急オペをしたという、別の「病気」などについて、こと細かに聞くこととなった。
私の病気は「命」にかかわる病気でね。
あなたの病気も「命」にかかわるんですか?
あなたの病気に比べたら私の病気なんか全然で、大したことはないんですけどね。
そんな話が、続く。
線維筋痛症が、命を落とすような病気でないことは、もちろん知った上で…である。
もう、何を言われても何を聞いても、何の感情も湧かない…そんな状態だった。
直属の上司には、挨拶・会話はおろか、目も合わせてもらえなくなった。
担当する案件は、なぜか厄介な問題が多く、それもまた私を追い詰めた。
そんな状況は、周りから見ても明らかだったと思うが、救いの手など、どこからも伸びては来ない。
心を無にして、ただ目の前の仕事をこなしていく…にしても、分からないことはやっぱり分からない。
結局、上司に判断・指示を仰ぐしかないものの、厄介な部下が持ってくる厄介な相談が歓迎されていないことは明白で、当時の私は、精神的にもギリギリの状態だった。
職場復帰 その4
同じ年の年末
体調を崩し、連れて行かれた救急病院で、そのまま「入院」となる。
胃腸炎と胆嚢炎を起こし、病院でも10日ほど、食べ物をまったく受け付けることのできない状態が続いた。
それまで、勤め先の状況を知りながらも「仕事をしたい」という、私の気持ちを尊重してくれていた夫だが、さすがに、これには黙ってはいられなくなったのだろう。
退院したら「会社」を辞めろ…と言った。
からだの「痛み」のみならず
疲労や精神的「ストレス」に、ただ耐えるだけ
あの日々から、解放される。
救いの神でもやって来たような、そんな「気分」だった。
二週間の「治療」を経て職場に戻ると、担当していた案件はすべて、他のメンバーに割り振られていた。
それまでの「経緯」も、現在の「状況」も、誰から聞くことも、引き継ぐこともなかった。
すでに「居場所」を失ったような状態ではあったけれど、返って退職の意思も切り出しやすく、結果オーライ。
翌年1月
惜しまれることもなく、私は当時の職場を去った。
職場復帰 その5
退職を決めた頃から、ウソのように調子のいい日が続いた。
それまで手放せなかった「杖」もいらなくなって、小走りだってできるほどに回復する。
この調子なら、通院も必要なくなるかも知れない。
そう思うくらい、強い「痛み」から解放され、いつしか、それまでのつらい記憶もあいまいになっていた。
まさに、喉もと過ぎれば…のソレだった。
そんな状態ではあったものの、何となく「手放し」で喜ぶには、まだ早い気がして、二週に一度の通院は欠かすことなく続けていた。
ある日私は、会計待ちの「ロビー」で行き交う人たちをぼんやりと眺めていた。
特殊な杖
歩行器
見たこともない形の車いす
歩くことでさえ「困難」を抱える人が、こんなにも大勢いるんだ。
予約患者のみ…といえ、外来だけでも一日 3,500人 が通う大学病院。
この中に、自分も含めて「生産性」と言われるモノを持ち合わせている人が、どれだけいるのだろう。
そんなことを考えていた。
「生産性」がない
そう言われる人たちが、世の中から「必要」とされない…のであれば、ココにいる多く人たちが該当してしまうのかも知れない。
この中にいる人たちに限らず、もしかしたら社会に「必要」とされている人なんて、思っている以上に少ないのかも知れない。
だとすれば、「生きがい」や人生の「豊かさ」って、どうすれば得られるものなのか。
私は「医者」じゃないし、ココにいる人たちの「ケガ」や「病気」を治すことはできない。
でももし、私に「できること」があるとすれば、それは一体何なのだろう。
その頃から、ひとり自問を繰り返していた。
転職 その1
退職までの、残された出勤日を消化していた頃、風の「ウワサ」を聞きつけて…と、一本の連絡があった。
電話の主は、少し前まで同じ職場で働いていた先輩。
再就職先である「いまの会社」で、また一緒に働きませんか?…と言う。
願ってもない、お誘い。
数日後、社長を交えた面談を経て、あれよあれよと言う間に転職が決まった。
新しい職場は、技術系の本業だけでなく、事務・雑用も何でもやらなくてはならない。
けれど、むしろその方が自由がきいて、カラダと相談しながら、費やすエネルギーの「配分」を考えられる。
私にとっては、実にありがたい「環境」だった。
また「線維筋痛症」自体についてはどうか分からないが、「難治性の病気」だということを、周りに理解してもらっているのは大きい。
「転職」するのであれば当然…と、報酬も上乗せしてもらった。
今後、仕事量が増えるようであれば、給与はその都度「見直し」をする…そんな話まであった。
しかし、入社してふた月が過ぎた頃から「痛み」がぶり返し、元の木阿弥となってしまう。
「杖」を頼れば、以前の状態を知らない人たちを驚かせてしまい、何だか申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「そこまで」とは知らなかった会社側は、雇った人材をどう思うのだろう。
悶々とする日がしばらく続いた。
転職 その2
入社、3ヵ月を過ぎた頃…だろうか。
すっかり「ごまかし」の利かなくなったカラダのことを、きちんと「会社」に伝えておこう、と決めた。
重い「口」を開く私に
自身の「体調」を、一番に考えてもらったらいい。
できないことは、上の人間がカバーする。
新しい「上司」は、そう答えた。
これ以上の「環境」なんて、ないんじゃないか…心からそう、思った。
平日、二馬力のわが家は、いつも大体、夫が先に家を出て先に帰宅する。
職場を変わってからというもの、仕事帰りにスーパーで買い物をした日も、そうでない日も、家に着くと車まで、必ず夫が迎えに出てくれるようになった。
そして荷物のすべてを持って、手ぶらの私を中へと招き入れる。
飼っているモルモットの部屋の「掃除」は、いつしか夫の仕事となっていて、人目を気にする私がなかなか首を縦に振らなかった「ゴミ出し」も、いまでは深夜早朝の人目につかない時間帯に夫がやってくれている。
「何もできない」どころか、私にとってはもう十分で、感謝の気持ちしかない。
転職 その3
世の中には、社会人としての自分の「代え」なんて、いくらでもいる…と思っている。
自身を「超える」人材も、しかりだ。
40歳 を過ぎ、一般的には組織の中でも「要らない」部類の世代に近づいている。
年金もアテにならない…と言われる時代。
年を取って「必要」とまでは言われなくとも、「まぁ、そこにいてもいいよ」と言ってもらえるくらいの「人材」であるためには、自分自身に何らかの「付加価値」をつける必要がある。
「持っている」に越したことはない、20代・30代 でも苦戦する国家資格に、このカラダで挑もう…としたのにも、そんな理由がある。
しかし、予行演習…として臨んだ民間資格の、わずか 2時間半の「設計」試験ですらもたず、痛みで嘔吐しながら受験する…というありさま。
国家資格の 6時間半の「設計」試験はもちろん、それまでの「過程」についても、俄然、自信をなくしてしまった。
職場での業務内容についても「設計」という仕事には、ほど遠いものとなっていた。
おそらく、私のカラダを思って「無理をさせないように」という、会社側の配慮であり、ありがたく思わなくてはならないところ…なのだと思うが、自身の「存在価値」みたいなものを見失った、そんな状態が続いた。
この先、新たな「経験」を積むことのないまま…なのだとすれば、建築士としての私の「未来」は、どうなってしまうのだろうか。
とは言え、いまの私は健康面でかなりの「減点」を食らっている。
並みの「努力」では、到底挽回できないだろうけれども、自身のカラダを言い訳にするような人生は送りたくない。
未来の自分のためにも、いま、やるべきことは何なのか。
そんなことを考え始めていた。
いまおもうこと その1
「線維筋痛症」を知ったとき、何だかタダならぬ病気だ…と思った。
知れば知るほど、痛みを「直視」してはならないような、他人事のように眺めるくらい…でなければ自身を保てないような、はらむ「危険」みたいなものを感じた。
いっそ、死んだ方が楽なんじゃないか。
「行動」までは考えずとも、いまでも、アタマをよぎることはある。
しかし、この「痛み」に比べれば…そう思って乗り切れることというのは、随分と多くなった。
この先、自身の状態がどう変化していくのかは分からないが、おそらくこの「病気」との付き合いは、一生続くことになるのだろう。
もし仮に「完治」したとしても、私は、ただの「病人」で終わってはならない。
いや、終わらせてはいけない。
いつからか、そう強く感じ始めて「今日」に至っている。
いまおもうこと その2
私には、ひとつ気がかりがある。
それは、この病気の原因が、ストレスを溜めやすい「性格の問題」と思われがちだということ。
現に、インターネットでちょっと検索すれば、線維筋痛症を発症しやすい性格として
真面目・几帳面・完璧主義・責任感が強い
肉体的・精神的ストレスなどが引き金となって発症する
そんな記述がいくらでも見つかる。
これが「完璧主義な人がストレスを抱えて発症する病気」という極端な解釈を招き
周りのせいだと言うのか!
あなたの性格の問題ですよね
ストレスに弱い人
自業自得
そんな周囲の「反応」を産んでいるようにも思うのだ。
この「ストレス」とは、医学で言うところの「ストレス」であり、「メンタル」に係る部分に限らず、事故や手術、感染症などの「肉体的」なものも含まれる。
私が見聞きした範囲で言えば、むしろ後者の方が多いような印象だけれど、「ストレス」というと、聞く側はやはり「メンタル」的なイメージを持ってしまう。
想像の域を出ない話ではあるが、前職においても、そんな解釈の「ズレ」によって、上司や周囲との「溝」が深まってしまったのだろう。
いまとなって…ではあるが、そんなことも考えてみる。
いまおもうこと その3
線維筋痛症と、しばしば「合併」が認められる病気がある…という。
「慢性疲労症候群」
実は、私にもこの病名がついている。
ややもすると「慢性疲労」と間違えられたり、「怠け病」ととらえられたり、線維筋痛症同様、誤解を受けやすい病気のひとつである。
カラダはいつも「鉛」のように重く、朝の身支度、少し休んだ後などは、次の動作に移るのが大変で四苦八苦する。
仕事のある、平日は「気力」だけで、もっている。
最近になって、主治医からこんなことを聞いた。
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いまとなっては「憶測」に過ぎないが、(私の場合)まず「慢性疲労症候群」を先に発症して、その後、感染症にかかったか何かをきっかけに「線維筋痛症」の症状が現れはじめたのではないかと思っている。
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「ほんとう」のことは分からないが、主治医から「日々のストレスが原因だ」と言われなくて、ホッとした自分がいた。
「原因」を取り除けばよくなる病気も、きっと少なくはない。
しかし「原因」が分かったからと言って、よくなる病気ばかりでもない。
患者自身も、どうしてこうなってしまったのか分からない。
カラダの「痛み」は容赦ない。
ここぞというときに、踏ん張りがきかないことも、少なくない。
頑張りたいのに、頑張れない。
いつも自分の中で葛藤があって落ち込んで、日々思い悩むところへ、周りの「認識」がボディーブローのように効いてくる。
「症状」もさることながら、この「認識」はときに「ことば」となって突き刺さり、その人を苦しめるのだ。
近年の、先行きの見えない「生きにくい」世の中では、不調をきたし、「線維筋痛症」でなくても、原因不明、治療法も見つかっていない病気に苦しむ人も多いものと思う。
中には「病名」すら分からず、更なる苦しみを味わう人たちも大勢いる。
その「つらさ」を消し去ろうとすれば、一番はやはり、病気に対する治療法が確立される…ということなのだろうけれど、人間のカラダはなかなか複雑だ。
医学をはじめ、様々な研究が進んだとしても、人間の力では解明できない、どうにもならないことがあって何ら不思議ではない。
とは言え、その「症状」や「病気」自体が命を落とすようなものではないのに、治療法がないが故、絶望の淵に立って「死」を選ばなくてはならない、そんな人生は非常に悲しい。
いまおもうこと その4
世間には、「いのち」に関わる病気もたくさん存在していて
「死なない」病気ならいいじゃないか。
何を甘えているんだ。
そんな「声」も、あるのかも知れない。
しかし、線維筋痛症の痛みは「末期がん」患者の苦しみに相当するとも言われる。
原因不明、治療法もない病気というのは、ある意味「生き地獄」のような感がある。
その上、まわりの理解・協力が得られなければ、患者は計り知れない「絶望感」を味わうことになるのだ。
「線維筋痛症」においてもその危険があることを是非、知っておいてほしい。
そして、もうひとつ。
これまで中年以降の女性に多いと言われてきたこの病気だが、近年「若年性」線維筋痛症というものが、児童の不登校の原因となっているケースもあるという。
また、日本では欧米に比べて男性の罹患率が高いとも言われている。
推定患者数 200万人超。
「若年性」線維筋痛症を加えると、この数字はさらに大きいものとなる。
誰しもかかりうる「身近な」病気として、認識が広まることを願いたい。
いまおもうこと その5
しかし如何せん、症状がすべて本人の「訴え」でしかない、理解されがたい病であることは事実だ。
20世紀 の話だが、痛みをあらわす世界基準がISOで認定されたという、チェーンメールが出回ったことがあったらしい。
以下は、その一部である。
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<日本経済新聞11月16日>
(ジュネーブ発 西山 章宏)
スイスの保養地、ダヴォス・プラッツにて 11月10日 から 14日 まで行われた世界知覚認識会議(ミシェル・ポーター会長)で、北海道大学医学部の斎藤教授が提唱した痛みをあらわす「hanage」(ハナゲ)という単位を、世界共通の単位とすることが承認された。
本来、痛みは個人差が大きく、同じ刺激でも主観によって感じ方が異なるため、客観的に数字であらわすことは不可能であると思われていた。
しかし、斎藤教授は「鼻の粘膜は人体の中で一番個人差が小さい」ことに着目して研究を進めた結果、「1cm の鼻毛を 1N(ニュートン)の力で引っ張るときに生じる痛み」を「1hanage」と定義できることを発見し、今学会で単位として承認された。
斎藤教授によると、足の小指を角にぶつけたときの痛みは、2~3Khanage(キロハナゲ)、お産のときの痛みは 2.5~3.2Mhanage(メガハナゲ)になるのだそうだ。「痛みを数値で表すことにより、正確な治療に役立つ」(斎藤教授)そうで、今回の発見は大変画期的とのこと。
「日本人の提唱する単位が世界で認められるのは非常に珍しい」(京都大学・横田昌平教授)そうで、日本発の「グローバルスタンダード」は、驚きをもって迎えられている。
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もちろん、これは真っ赤な「ウソ」だ。
そもそも、そんな「単位」など存在しないし、同様の場面・状況であっても、諸条件によって痛みの感じ方は様々である。
ケースごとに定められた「数値」もきっと、大きな意味はなさない。
けれど、痛みを「数値」であらわす、そんな術があれば、どれだけの人が苦しまないで済むだろう。
90年代の「ギャグ」から、そんなことを考えさせられた。
いまおもうこと その6
数十年の「キャリア」を持つ方もいる中で、患者歴数年の私が、この病気のすべてを知ったかのように語ろうとは思っていない。
症状は人それぞれ。
治療法は十人十色、置かれた環境も百人百様、向き合い方だって千差万別だ。
しかし、ここ数年の期間を必死に歩み、この病気と向き合ってきたからこそ、伝えられること…というのがあると思っている。
まずは、「線維筋痛症」という病気への理解を広めたい。
必要ならば、自身の公表もいとわない。
また、線維筋痛症に限ったことではなく、世の中には様々な病気や障害・境遇などによって、苦しんでいる人がたくさんいる。
そのことを、一人でも多くの人に知ってもらいたい。
「社会」という場所に、出たくても出られない、「つらい」ことをつらいと言えない、それすらも許されない人たちに、目を向けてあげてほしい。
それらを叶える「活動」を、私の「ことば」で、私の「カラダ」で、使えるものすべてを使って始めたい。
そう、考えている。
いまおもうこと その7
世の中には「原因」も「治療法」も、分かっていない病気が、数多く存在している。
普段、直接関わることはなくても、「障害」を抱えている人、「病気」を患っている人…というのは、思いの外、身近なところにたくさんいるものだ。
五体満足であること自体「奇跡」みたいなものだとも、思う。
明日、自分が「障害」を負うことになるかも知れないし、重い「病気」が見つかるかも知れない。
いつ誰に「当事者」としての「未来」が訪れても、何ら不思議ではない。
大人も子どもも、皆が「それぞれの人生」を受け入れることができれば、差別やいじめは無意味なものになるだろうし、偏見だって持たなくてよくなる。
「当事者」自身が、自分を卑下する必要だってない。
「障害」「病気」自体は悲しいことだけれど、当事者は誰しも「かわいそうなひと」ではない。
「かわいそうなひと」にしては、いけない。
そういう「理解」も、必要だ。
近年耳にする「ダイバーシティ」の真髄は、障害者雇用を促すことや、産休育休明けの職員が働きやすい環境を整える…ということではないと思っている。
認め合い、想い合える、やさしい世の中が叶うことを願いたい。
いまおもうこと その8
そして、もうひとつ。
「建築」にたずさわる者として、「障害」や「病気」を抱える人たちにも、日々の「くらし」の中で幸せを感じ、安らぎを味わっていただける…そんな仕事ができればと思っている。
それは、単に「基準」を満たすだけではない。
バリアフリー・高齢者住宅・介護改修
すでに提供されている、これらの「サービス」では未だ十分に行き届いていない、その先の「ニーズ」を拾い出し、より「快適」な空間の提供を叶えたい。
自分のチカラでは、なかなか外に出られない方にも、せめて家の中、普段のくらしの中では「自由」を感じてほしい。
生活における問題・不自由は人それぞれではあるが、味わう「つらさ」であれば、私にも少しは分かる。
そこで暮らす人の「不自由」に、 一歩踏み込まなければ知り得ない「ほんとうに必要なもの」を見つけ出し、「自分らしい」くらし、「自立」した生活を手に入れるためのお手伝いをしたい。
そんな夢を抱いている。
私自身、いまなお「治療」の最中であり、痛みにもだえたり、気分が落ち込んだりすることも少なくない、ひとりの「患者」だ。
それでも私は、このカラダを「味方」にして、自分の中でも、対外的にも、「プラス」に変えられる人間になりたい。
この「想い」が私の「原動力」であり、社会で生きる私の「すべて」だ。
あとがき
2021年 秋
いつか、自らの経験・想いを伝える、その日のために…と、この「手記」をまとめました。
職場で任される「業務」は、ほぼ「事務」仕事となり、対外的にも「事務担当」として対応することが多くなっていました。
組織の中の「自分」に付加できる価値
社会人としての「自分」の価値
叶えたい「夢」
叶えられなくなった「夢」
自分にできること
自分でなければできないこと
現在のカラダの状態
今後の病状
カラダとの付き合い方
ココロとの、向き合い方
それらを考えていた 2021年 の終わり、勤め先である、設計事務所において、メインとなる「工場・倉庫」の建築設計に加え「住宅」等、新たな分野への参入が検討されていることを知ります。
意を決して、いつか「カタチ」にしたい仕事を伝えたところ、会社側も「興味アリ」とのことで、情報収集についての「許可」を得ることができました。
年の瀬、世間はせわしなく「とき」が流れていましたが、早速、当事者の方やご家族、支援者や各機関の方々にコンタクトを取り
とにかく、色んな立場の方の
生の「声」を、聞きたい
その一心で、直接お話を伺う「機会」をいただくよう、アチコチお願いをして回りました。
諸事情によって、最終的には勤め先による「新事業」参入とは、なりませんでしたが、たくさんの「声」を聞く中で、世の中に潜在している「ニーズ」を確信した私は、会社側の了承を得て
2022年2月
inclusive design 彩榮(インクルーシブデザイン いろは)を創業します。
inclusive design 彩榮 で展開している事業の「柱」のひとつに「SOVANY(ソバニー)」という、ブランドがあります。
障害や病気などによって、様々な身体「特性」を持つ方に向けた空間づくりをご提案する、オリジナル「ブランド」なのですが
身体障害のみならず
知的・精神障害をお持ちの方にも空間的な「サポート」ができるはず
そんな「想い」から、書籍・論文などを読みあさり、ある日「スヌーズレン」というものにたどり着きました。
スヌーズレンのお部屋では、専用「機材」や、感覚刺激の「おもちゃ」などが多く用いられます。
しかし、これらの「環境」を整えれば、スヌーズレンの「完成」ではありません。
障害を持つ方(対象者)と関わり、ともに過ごす中で関係性を深めることのできる「パートナー」なくしては成立しないのです。
住まい「空間」においても、同じようなことが言えるのではないかと思っています。
「ハード」をそろえて終わりではない。
「ソフト」面にも作用する空間づくりをご提案し、その必要性を感じていただきたい。
「スヌーズレン」の理念は、私の行う空間づくりの考え方にも通ずるものと考えています。
そして、もうひとつ。
ある日突然、重い病気が見つかったり、障害を持つことになったりして、それまでの「社会」の中での「ポジション」が保てなくなる未来…というのは、いつ誰に訪れるかも知れません。
正社員からパート・アルバイトへ「働き方」を変えたり、違う業種・別の職種へ「環境」を変えたり、あるいは「働く」こと自体、不可能となる場合だって、あるかも知れません。
ダイバーシティ
インクルージョン
日本でも、様々な取り組みが始まっていますが
病気や障害を抱えた後に、それまでの「生活水準」を維持できる人がどれだけいるのだろう
そんなことを考えます。
傷病手当金
障害年金
働きたくても働けなくなった人たちを救う、公的「制度」も設けられていますが、それらの「補償」だけでは、必要な「出費」を十分にまかなえない、生活していけない…というのが、実際のところではないかと思っています。
また、障がい者や指定難病などの「基準」に満たないために支援「制度」が受けられないという「ケース」も、少なくありません。
その結果、悔しくも「病気」や「障害」を伏せて、あるいは、無理を押して働かざるを得ない人たち…というのも、出てきてしまいます。
社会には、このような状況下で頑張っている方もたくさんいる…ということを知ってほしい。
そんな世の中に少し目を向けて、考えてみてほしい。
今回、このような「想い」もあってこの手記を掲載させていただきました。
稚拙な文章にも関わらず、最後までお付き合いいただきました皆さまには、この場を借りてお礼申し上げます。
ありがとうございました。
あなたの「人生」にもし、病気や障害を抱える「未来」がある…とすれば
そこにやさしい「世の中」が、待ってくれていることを、心から願って止みません。
~完~