羽黒山伏と考える、答えが出ない「問い」への向き合い方① ~山伏は「つなぐ人」~
2018年12月12日に行われたイベント(「本の企画、一緒に考えませ科」会議vol.1 「感じる知性」を取り戻そう! 羽黒山伏と考える、答えが出ない「問い」への向き合い方)の内容、ほぼ原文そのままです。
○「山伏」って、何?
柏原:星野先達と渡辺清乃さんよろしくお願いします。
星野:はい。
渡辺:はい、お願いいたします。
星野:そうですか、どうぞ。
渡辺:私からですか?
星野:はい。
渡辺:はい。じゃあちょっと皆さんにお聞きしたいんですけど、山伏の修行に行ったとか、山伏、ちょっと知っているとか、星野先達のお話を聞きました、聞いたことが過去にありますって方、どれくらいいらっしゃいますか?(挙手)じゃあ、今日全く初めてという方が・・・(挙手)はい、ほとんどの方ははじめてですね。
星野:おもしろいね。
渡辺:はい、良いですね。
星野:新しい人が増えて。
渡辺:そうですよね。じゃあ、「山伏って何?」というところからちょっとお話をした方がいいですかね。
星野:そう、山伏、俺。終わりまーす(笑)。それじゃあ話にならないんだよといつも言われるんだけどさ。実際、「山伏って何?」と頭で覚えてもあまり意味がないと思うんだけどさ。だから「俺だよ」と言った方が早いんだよね、俺からすればね。
だけど、まあ簡単に言うよ。「山伏」って一言で言うとさ、まあ現代の山伏というのはね、「半聖、半俗」だよ。半分世俗、半分聖なる世界。よくお江戸へ来てさ、「先達は白装束は着ないんですか?」とよく言われる。俺、お江戸へ来る時は世俗だもん。ねぇ。なんで白装束にならなきゃならないの。山に入る時は白装束なのにさ。だから、お江戸に来た時はこのスタイル。これしかないもん。だから、基本的には半聖、半俗なの。
何する人?これは神様や神や仏と人をつなぐ人。それから自然と人をつなぐ人。それから最近なんかね、「命」というテーマで話している時に、食が命の素だということを皆忘れちゃっているんだよ。食は健康の本として置き換えられている。食べられなくなったら死ぬしかないんじゃない。食というのは命の素なんだよ。だから今、そういうことすらも忘れられている時代になっちゃっているから、山伏は食と人をつなぐ人、それも入る。それからもっと言うと、人と人とをつなぐ人。人と地域をつなぐ人。地域と地域をつなぐ人。そういう人は現代山伏でいいよ、俺から言わせれば。
だからここにも修行はしていないけれども山伏がいっぱいいるじゃん。清水昭先生(*編注:イベントに参加していたステキな精神科医の先生)なんかもう山伏中の山伏です。あの先生はね、人と人、地域と地域、地域と人をつなぐ権現様みたいな人だから。だから要は、「山伏って何?」難しいことないの。そういう「つなぐ」というコンセプト。そういう人達を山伏として捉えてもらえればいい。はい、終わりまーす。
渡辺:別に修行とかしていなくても、そういう活動とかそういう在り方をしていれば山伏だよ、という?
星野:「山伏的」と言うかな。修行をした人は「修験者」が付く。俺とかお前は山伏でもあり、修験者でもある。こういう捉え方でいいんだから。そのくらい緩やかでいいということだよ。大体、修験道なんてゆるやかなものなんだから。
修験道なんていうのは頭で考えたって分かりっこないんだよ、ハッキリ言って。修験道というのはね、自然の中に身を置いて、そこで修行した、修行しなきゃ分かんないの。頭で修験道が分かったからどうしたの? それは修験道と言わない、俺から言わせると。だから、修験道って一言で言うと、大自然の中に身を置いて感じたことを考える学問であり、哲学です。そういう言葉に置き換えられる。あとの話は追々と、でしょう。はい。
渡辺:あの、今ちょっと写真を出しながらお話していたんですけど、結構自然の中で修験(しゅげん)の修行をしていくわけですけど、お喋り、一切しないですもんね。
星野:いや、だからね、修行の仕方の問題なの。修行ではね、いろんな行法があるわけ。私の修行のやり方は、言葉を使わない修行のやり方をしている。だから修行中は言葉を発しない。全て基本は音。
まあ今、外国からもバンバン来るしさ。それから、もうブラジルに行って修行しなきゃいけないしね。
渡辺:言葉を使わないからできる?
星野:まあ通訳もつくけど。
○すべてのことを「うけたもう」
渡辺:修行中って喋っちゃいけないんですけど、1個だけ喋っていい言葉があって、「うけたもう」なんですね。私は去年の9月に初めて行かせていただいてハマって、今年5月にやらせてもらって、本山で9月に修行して。
星野:5月、淡路島でね。
渡辺:そうですね、淡路島でやらせてもらって、そして今年9月に本山に修行して山伏の名前頂いたんですけど、先達のところの修行は喋っちゃいけない、それで1個だけ言っていい言葉が「うけたもう」、まあ「うけます」ということなんですね。何があっても「うけたもう」ですよね。
星野:そうです。はい。委ねることだよ、全て。
渡辺:文脈がおかしくても「うけたもう」ですもんね。
星野:そう。まあ、だけども、何と言うかな、「うけたもう」という言葉の底には「信頼」という言葉がちらついている。だから、「うけたもう」という世界でも、なんか非人間的なことは出てこないから。
渡辺:非人間的な……。
星野:うん。まあ、人間社会において「それはダメだよ」ということは出てこないじゃん。ただ、人間も自然の流れる中にいたんだよという発想の下で。山や川や海や、草や木や、岩や人、これ、繋がっているものじゃない?ねえ。
だからさ、山伏だとか修験道だとか修行だとかそんな話をする時に、難しいんですが、現代社会の中で暮らしている状況の中で話をしても、それはね、頭で理解までなんだよ。頭で理解したからどうなの?なの、ハッキリ言って。さっきも言ったように。
自然の中に実際に身を置いて、そこで感じ取った音が答えなんだ、と。山に入って修行する。そして山から出てくる。これは修行した人しか分からない。
この、山に入って修行して、山から出てきた時の「おー! 修行が終わった!」という、あの清々しさ。あの清々しさが「生まれ変わったような気がする」につながるんでしょう?
出羽三山は生まれ変わりの山だって言うよ。これは頭で考えた生まれ変わりの山じゃないんだよ。山で3日も1週間も修行して出てくると本当にもう清々しくて生まれ変わった気がする、感じがする。それをあとで整理すると、山というのは生まれ変わったような気にさせるんだね、と。だから出羽三山は「生まれ変わりの山」と言われている。それも、より頭を使って、現世と過去と来世という時空間を全部超えるように3つの山をしているわけ。羽黒山・月山・湯殿山。これ最初から修行をしない人がこんなこと考えられない。修業した人たちがそういう現在・過去・来世、それが羽黒山が観音だから現世利益だと、月山は亡くなった後の世界だから、阿弥陀さんだから亡くなった後に世話してくれる山だと。湯殿山は大日如来を祀って、来世に世話をしてくれる山だと。それはあくまでも物語の後付けだろう?
「後付け」これが大事なの。最初から頭で考えてこんなこと分からない。それは、出羽三山の山で修業をすれば生まれ変わったような気がする、それがベースで物語が後付けになって、羽黒山・月山・湯殿山を回ると生まれ変わる山として物語を作っちゃった。そういうことなんです。
渡辺:全然説明がないですもんね、修行の時。
星野:修行の時? 当たり前じゃん。もう自分で感じ取ることしかさせないんだもん。
渡辺:あの、「こういう日程ですよ」とか、「プログラム内容はこうですよ」とか全く何のアナウンスもなくて、全部いきなり、当日「行くぞ」と連れて行ってもらうという。
星野:ほら貝1つ。
渡辺:そうですね。ほら貝で起こされて、朝。
星野:ただ、ほら貝吹いて、2つ目のほら貝を吹いたら外へ出ろと言って来たら、その2つ目のほら貝をプーっと吹いて、「今から月山斗藪(とそう)を催行する」
渡辺:「うけたもうー!」と言って、こういう感じです(笑)。
星野:だから、普段、説明しすぎだよ。普段、説明しすぎなの。言葉がありすぎ。これ邪魔。だから、おせっかいな人が来ると修行の邪魔なの。よく、おせっかいおばちゃんが来る。だから俺、それはね、おせっかいおばちゃんには事前に言うの。「お前な、おせっかいは修業の邪魔だからね」と。じゃないとおせっかいしちゃうから。
渡辺:こうだよ、ああだよ、と教えてあげるから。
(第2回へ続く:(仮)「現代人は説明しすぎ?」)