京急の街「YRP野比」|自然要塞と電電公社と養護学校
自然要塞YRP
ちょうどもう一年前になる。
2022年7月の日曜日。YRPの研究施設群を歩いていた。
暑い。
白い地面が太陽を反射して、体力と水分が奪われていくのがわかる。
この研究施設群には見渡す限り人っこ1人いない。
そのだらしなく広がる空間が、手入れされていないくすんだ白のタイルを大きく見せる。
反射する光が自分を包み込んで、意識は遠のき、波立つような格好の施設は僕の視界まで捻じ曲げ、遠くを見るとほかの施設は蜃気楼のように見えた。
そもそも今日は体調が悪い。
腹痛だ。しかも、結構な。
今すぐトイレに行きたいのに、どこもかしこも廃墟のような佇まい。
人がいるとすれば休憩中の工事業者くらいだ。
NTT Docomo、KDDI、NEC。
建物には名だたる企業の名前が続く。
今日は休日だからこんなに寂しげな風景なのか。
にしても、この時間が止まったような感覚はなんだ?
明日には賑やかな雰囲気になるかと言われると、そんな気はしない。
しばらく進むと、少し雰囲気の違う並木道に差し掛かった。
吸い込まれるようにその中を歩く。
アガパンサスが咲いている。
それにしてもお腹が痛い。
冷や汗も出てきた。
と、そのとき、ふと右側に美しい花畑が見えた。
もう7月だというのに、色とりどりの花が咲き乱れている。よっぽど手入れをしないとこんな風にはならないだろう。
水色、黄色、オレンジ、赤、ライトグリーン、白。
こんな鮮やかなな庭はターシャテューダーのDVDでしかみたことがない。
あたりを見回しても誰もいない。花畑の向こうには広いスペースがあって、その奥には平屋の白い施設がある。
既視感。
なにかのSF映画でこんな光景を見た気がする。
周りの研究施設とは違う、でもその研究施設群の中にあってもなんとなく調和している、不思議な佇まいだ。
いったいなんの建物なんだ。。。
花畑に沿ってフェンスがずっと続く。
端まで来ると、いつのまにか山道になっていた。
「マムシに注意して下さい。」
花畑に感動してる場合ではない。
俺はお腹が痛いんだ。
ひどくなってきた。
今すぐ休みたい。
この小山の森を越えられるだろうか。
越えたところに公園のトイレだとか、コンビニだとか、
いつも見ているような安らげる何かがあるだろうか。
山へ足を踏み入れる。
が、間違いだった。
遊歩道は自然要塞の城壁を作るかのように
研究施設群を囲んだ山に沿って作られていた。
途中で気づいたが、
戻った方が早いのか
そのまま進んだ方が早いのか
もはや分からないから進むしかないのだ。
興味本意で来たのが間違いだった。
「助けて。。。」と言いながら、炎天下、1人山道を歩き続けた。
通信技術研究拠点としての歴史
YRP野比はKK68。横須賀中央、京急久里浜も越えた先にあるユニークな名前の駅だ。
品川から特急で1時間14分。逆に三崎口駅にはあと8分というところだ。
1963年、久里浜線の終点として開業。
1998年、横須賀リサーチパーク(YRP)の開業とともに現在の駅名に変更された。
ヨコスカ・リサーチ・パーク。
1972年 日本電信電話公社横須賀電気通信研究所が開業したことに端を発する。
その後、1986年横須賀インテリジェントシティ計画が発表され、YRPの構想が始まったようだ。少々長いが、公式ページからの概要を以下に記す。
しかし、YRPは別の名前も持っている。
「ヨコスカ・リサーチ・プリズン」
Chat GPTにこの言葉の説明を求めても何も返って来ないので要約すると以下のような話らしい。
日本に携帯電話が急激に普及した2000年代。ソニー、富士通、NEC、SHARP、東芝等各社電機メーカーがこぞって携帯電話端末開発を行い、NTT、KDDIなどの携帯電話もキャリアも急激に発展していった。
それを支える通信技術関連のエンジニアがSESから派遣され、YRPで無線基地局の通信テストまたは管理業務に従事したという。
しかし、多重請負による無理のある開発体制、急速な開発スピードによるエンジニアの疲弊、人員の激しい交代によるコミュニケーションロス、などを原因にその作業は過酷を極めていた。
その悪い噂が有名になったのは2004年。2ちゃんねるに「軍曹」という名前でその実体が事細かに書き込まれ、エンジニア界隈ではYRPは「ヨコスカ・リサーチ・プリズン」であるという悪評が定着したようだ。
確かに公式ページでもYRPは以下のような成り立ちなのである。
ヨコスカ・リサーチ・プリズンについて検索すると以下のような記事がある。
読むと恐ろしいとは思うものの、想像ができてしまうのが悲しいところだ。
さらに昔に遡ると、この章の冒頭で述べたとおり、元々は日本電信電話公社の研究所ができたことからこの研究施設群の歴史は始まる。これを調べてみると、面白い情報が公式ページにあった。
日露戦争頃まで、通信技術の研究開発は、現在の京急田浦駅にある東芝ライテックのほうで盛んに行われていたようだ。
以前に写真を撮りに行ったとき、若干不気味なほどに歴史が詰まっていそうな東芝ライテックの建物を見た。なにか凄まじい歴史があるように思えた。建物はそういう雰囲気を纏ってしまうから不思議である。(ただし、そのときは、昔何に使われていたのか分からなかった。)
1894年の日清戦争に勝利して依頼、10年間。日本の軍備は破竹の勢いで進歩していたのだと思うが、あの場所で缶詰になって無線研究がされていたのだろうと思う。
この研究の成果もあって、1904年日露戦争、日本はバルチック艦隊に勝った。横須賀中央から海に向かったところにある軍艦三笠内では、当時の詳細な様子がまるで軍艦に自分も乗っているようか感覚で体験できる。
なお、無線通信の研究拠点として横須賀を選んだ理由はYRPの公式ページで以下のように語られている。
そして1975年、汐入にあった「ガントリークレーン」(造船用の巨大クレーン)が撤去されると同時に、現在YRPがある場所に日本電信電話公社の横須賀通信研究所が建てられ、情報通信の研究拠点とされた。
以前は軍艦の建築と抱き合わせで、造船所が近いところで研究されていた無線通信技術。その場所での造船も終了し、情報通信はインターネットの大衆利用化を目指す中で、その技術を民間での利用に落とし込むにあたり、研究拠点を移動したと思われる。
それにしてもなぜそのあとにこの場所なのだろう。
この章冒頭の引用に
とこの場所を選んだ理由が語られていた。
たしかにそうなのだろうが、
電波以外もあらゆるものを閉じ込めてしまうようなこの空間は、居心地が悪く感じられた。
2つの養護学校
歩いてわかったのだが、YRPには擁護学校が2つある。
逆に言えば、この自然要塞の中には、研究施設と擁護学校しかない。
横須賀市立養護学校と神奈川県立岩戸擁護学校。
僕がふとたまたま訪れて、そのお庭に咲く色とりどりの花、その重なりの見事な美しさに吸い込まそうになったのは横須賀市立擁護学校の方らしい。
以下にこの学校を紹介している記事があるので紹介しておく。
障害を持った児童の教育には詳しくないから、この学校の中身については特に語らない。
とにかく、花畑は美しかった。
日曜日の誰もいないその時間。
この擁護学校の花畑だけが活き活きとしていて、「人」がいるのだ、とそのときにわかった。
この地域は「光の丘」ともいう。
電電公社の研究施設が立った頃から、情報通信の研究拠点として明るい未来を示す意味でもこの名前がついたとか。
現在はNTT Docomoとなったその研究施設に近いところに「光の丘公園」というところがある。
誰もいない、だだっ広い芝生の中に、長年風に吹かれながら耐えているような寂しい雰囲気の木が一本。
「ここが『光の丘』なのか」と、部外者の自分が勝手に憐れんでしまっていたところ、あの花畑に出会ったのだった。
そんな寂しい木も、美しい花畑も、こんな自然要塞の中にあっては外界には気づかれない、秘密の場所のように思える。