僕が写真をやめた理由
お久しぶりです。
2年間、タイトルの疑問が解決しなくてnote書けなくなってました。
そして約2年悩んだ末、僕は街撮りに取り組むをやめました。
街撮りスナップを撮る人、見る人はこんな疑問を感じたことはないでしょうか。
ジャーナリズムとして撮影しているなら別です。
自己表現として、アートとして取り組むのってどうなんだろ、と疑問に思っていました。
そして最近、それは大変勝手なので、これからは撮るのやめようと思いました。
今日はあえてその勝手だと思う表現を載せながら、自分の考えを語ろうと思います。
※※あくまでも「僕の撮影行為に関しては」の話です。「街撮りスナップ」一般について書いているものではありません。※※
街の風景(とくに人の姿)って撮っていいのだろうか?
この話は、街撮りスナップを撮る人の間ではよく出てくる話だと思います。
こんな感じでまとめてくれています。
肖像権の侵害にあたるもの、被写体(ものや空間でも)が嫌がるものは撮ってはいけないということですね。
今日はここは本筋ではないので、前提として軽く書くに留めます。
そもそもそれって撮る必要のあるもの?自分の表現手段として適切なのか?
さて、ここからが問題です。
ジャーナリズムとして撮っていない場合、それは自分の表現だと思います。
自分を表現するのに、自分以外を映す。ある意味本質的かもしれません。外の世界なしに自分は語れない、もっと言えば外からの影響の積み重ねが自分というものなのかもしれません。
でも、逆にいえば、その結果は自分自身なわけで。そういう意味で自分を語るなら自分を映すのが一番手っ取り早いです。セルフポートレートとはそういうことだと考えています。
素材が持つ元々の意味も考えたりします。写真の素材に街の風景を使うのは、彫刻で粘土や鉄を使ったり、絵を描くのに絵の具を使ったりするのとは違います。粘土や鉄や絵の具はそれ自体に意味がほとんどない。でも街や人はたくさんの意味を帯びています。
はたして街を撮るという方法は適切なんでしょうか。
街の風景に自分の思いや考えを投影する(自分を表現する)のって勝手じゃない?
表現しようとするものがポジティブならまだいいかもしれません。でもネガティブなものだったらどうでしょう。
僕は自分のコンプレックスや不条理に感じることを街に投影して撮影していました。
振り返ってみるとそれは、そのネガティブの原因を外に求める行為というか、簡単に言うと「お前のせいだ」を探し歩くような、そんな気持ちだとも言えます。
たしかに、コンプレックスや不条理の原因が外の世界にあったっておかしくありません。むしろそういうことのほうが多いのではないでしょうか。
ただ、普通に存在してるだけなのに、勝手にそんな表現として撮影されたらたまったもんじゃない、と感じる人やもの、空間も多いでしょう。
だからといって、その意味づけまでいちいち説明しながら撮影するのもナンセンスな気がします。
と、そんなことを思った段階で、僕は街撮りスナップを撮る気持ちを失いました。それと同時に、写真自体を撮る動機を失いました。
どうしても表現に意味を求めたくなる性分なので、それが適切な方法でないと自覚してしまうと、どうにも進みません。
一旦写真はおしまいです。
僕が写真を再開するときは、以下の3つの可能性があると思っています。
ポジティブな表現に振り切ろうと決めた場合
ジャーナリズムに取り組もうと決めた場合
伝えるべきメッセージを発見し、いくら勝手だろうともその表現に写真が最も適切だと考えた場合
たぶん3番目が来ないと、ないと思いますが。。。