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「定義する」のは危険なのか、必要なのか。編集者として考えていること。


 進捗どうですか? マイストリート岡田です。

 このnoteは、編プロ所属の編集者である岡田が、そのときそのときの思ったことを書き連ねていくやつです。

「ラノベ定義論スペース」を通して「定義する」ことに対する様々な意見が飛び交っていました。

 ライトノベルに対しては「ある程度のぼんやりとした枠組みや感性が存在するが、時代の流れや個々の作品によって柔軟に変化可能なもの」だと捉えています。ライトノベルは同時代小説でありエンターテイメントの良いところ欲張りセット&カウンター&レジスタンスなので、例外・突然変異が生まれやすい。なので「定義」も定めにくいと思っています。

 とはいえ。

 作り手側としてはある程度、作家やイラストレーターに共有したい、作品の完成像やイメージを定義づけておかなければいけないと思っています。

「クリエイターには定義とかお決まりとかテンプレとか意識させず、好きに書かせたほうがいい」という意見もありますが、なんの方針もなく好きに大海原へ飛び出していっても、うまくいくはずがありません。好きにやってうまくいくクリエイターは、そもそも自分の中で軸や方向性をしっかり持っているからだと思います。


コミュニケーションにおいて、定義は必要である


 僕が必要だと思っている『定義』はこれです。

一般にコミュニケーションを円滑に行うために、ある言葉の正確な意味や用法について、人々の間で共通認識を抱くために行われる作業。
引用――Wikipedia

 ツイートでも例として出しているのですが、「お好み焼き」という言葉を出したとき、同じ言葉かつぼんやりとイメージは同じだとしても「大阪風」と「広島風」では食材も作り方も異なってきます。両方とも広く一般的に「お好み焼き」と認識されているので、同じ言葉を用いたとしても齟齬が生まれてしまうのです。

 下手に「大阪のがお好み焼きで、広島のが広島焼きでしょ?」なんて言ってしまったら「なんだァ?てめェ……」と、争いが発生してしまうでしょう。

 同じ言葉で括られるくらいには似ていて、けれど相違点がある。そういった物事のほうが、全く違う物事よりも争いが起こりやすいのです。

 ここで大事なのは、以下のことかな、と。

①言葉はコミュニケーションの大事な要素だが、複数の意味・異なったイメージを持つ、と認識すること。
②自分にとって“当たり前”の認識を、相手も共通のものとして持っているとは限らない、と意識すること。
③場合によっては、些細な違いでも相手の信念やポリシーを傷つけてしまうので傾聴を怠らないこと。

 自分の考えていること、イメージしていることを他者に伝え、共通認識にすることはとても難しいです。難しいからこそ、編集者は打ち合わせを通して明確な言葉でもってクリエイターと話し、互いのイメージをすり合わせていく必要があるのです。


ヌルヌル話法にご用心


 編集者側にある程度の枠組みを決めた「言葉の定義」がないと、ヌルヌルとしたものになってしまい、クリエイターも困ってしまうことになります。ここでの「定義」は「コンセプト」と言い換えてもいいですね。

 編集者は依頼を出す際に「これを共有しよう」という軸とか核になることを持っていて、そこからズレないようにコミュニケーションを取っていくはずです。

 コミュニケーション内で言葉の定義を定めず、なんとなくかつ場合によって変更させてしまっていると、それは「ヌルヌル話法」と呼ばれるものになってしまいます。

 よく見る「売れる作品を作って」「○○みたいな作品を作って」というのは、ある意味コンセプトはあるのでしょうけど、漠然としてしまっていて具合案がないのです。雑なオファーは後々になって「なんかちがうんだよな~」を量産することになり、害悪です
 これがヌルヌル話法です。

 これとは逆の、「○○はNGです」のような排斥も気をつけなければいけません。編集者側は「この要素はウケない」「ライトノベルでこのジャンルは売れない」などのNG要素を言いますが、これは自分たちの持っているデータと照らし合わせています。面白い作品ができあがればそれがヒットに繋がるかもしれませんが、負ける可能性が高い戦に挑める体力のあるレーベルは減ってきていると思います。

 このNGについても根拠に基づいて言えればいいのですが、無根拠・印象での排斥は害悪です。「なぜ?」を明確にできずなんとなくでNG判定してしまったら、それはヌルヌル話法です。
 僕は設定やストーリー、文章表現にNGを出す場合、「なぜそれがダメなのか」を説明できるように心がけています。「なぜNG?」を感覚ではなく明確な言葉にするのは難しいですが。


自他の認識を明確にするコミュニケーション、難しい


 要するに、コミュニケーションを行う場合は「言葉の定義」について明瞭にしておく必要がある……なので「定義」自体は危険ではないし、共通認識を得るためには必要ですよね、というお話でした。

 人間、疲れていたり、親しくなりすぎると、自他境界が曖昧になって、「言わなくてもわかってよ」となってしまいがちです。

 ツーカーになって「なんとなく」で話してバッチリなものが上がってくるのが楽ではあると思うのですが、そんなことができるのは稀です。

 基本はアサーション(自己主張)をしなければ、ぼんやりとした意思疎通になり、解釈を相手に委ねることになります。委ねるところは委ね、ズレてはダメなところは直す。そういったバランスが大事。

 大変ではあるのですけど、「言葉の定義」をしっかり持って、自分の中にあるなんとなくのイメージや完成形を、相手にも共有できるといいですね。

「ラノベ定義論スペース」もイメージの共有としては有意義だったと思います。互いの認識の違い、信念の違いを理解しておければ、無用な争いを避けることができるのです。


■参考


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