骨嚢腫という病気になった話
1.ドッジボール
小学校3年生から小学校を卒業するまでの4年間ドッジボールクラブに所属していました。
ドッジボールの大会で好成績を収めることはできなかったものの、4年間で忍耐力や精神力は身についたと思います。
2.違和感
小学校5年生の夏頃、ドッジボールの練習中にボールを投げた瞬間、右腕辺りに一瞬だけ痛みが走りました。それまでに痛みを感じたことなど一度もなかったため、嫌な予感はしましたが、普段の生活には何の支障もなかったので、ずっと放置していました。それ以来、ボールを投げた瞬間だけ強烈な痛みが走るようになりました。
しばらくは湿布を貼り、なんとか我慢していましたが、あまりにも痛かったため、近くの病院へ行くことにしました。
レントゲン写真を撮った結果、痛みが酷かった右腕辺りには、黒い影のようなものが映っていました。精密検査が必要ということになり、大学病院を紹介されました。
3.骨嚢腫発覚
大学病院で精密検査をした結果『骨嚢腫』という病気であることが判明しました。「良性」と「悪性」があり、私の場合は良性でした。
『骨嚢腫』がどういう病気かというと・・・
「骨の内部に空洞のようなものができ、そこが水が溜まったような状態になり、骨の内部の密度がスカスカになるため、骨が脆くなり、ちょっとしたことで折れやすくなる」
こういった病気です。原因は不明みたいです。
それからは月に一度、大学病院に通院することになり、経過観察することになりました。自然治癒も望めないということから、約2年後の中学1年生の秋頃に手術することが決まりました。
手術内容は「骨盤辺りの骨から骨髄を採取し、骨の内部に注入する」といった感じです。この手術を2回やる予定でした。
骨嚢腫と診断されてからは、右手で投げる練習は控えるようになり、ボールをキャッチする練習、左手でボールを投げる練習、体力作りが主な練習メニューになりました。
4.手術
それから一年程経った、小学校6年生の2月頃。
ドッジボールの練習が始まる前、体育館にテニスボールが一つありました。練習前ということもあり、ウォーミングアップもかねて、テニスボールを思いっきり投げてどこまで飛ばせるかという遊びが始まりました。私もそれに参加してしまいました。
ドッジボールのボールというのはテニスボールに比べて非常に重いです。テニスボールなら思いっきり投げても大丈夫だと考えた私は、何の躊躇いもなく、思いっきり投げました。その瞬間、「ボキッ」という骨が折れるような音が体育館に鳴り響きました。
右腕がダラーンと下がってしまい、上げることが全くできなくなり、すぐさま病院へ行き、レントゲン写真を撮り、骨折していることがわかりました。綺麗に真っ二つに折れていました。
骨折していることが判明し、そのまま入院することになりました。その日の夜は痛み止めを飲んでも、なかなか寝付くことができなかったのを覚えています。
その翌日、大学病院で私を担当していた先生が、診察をしにやってきました。「強引に骨嚢腫治しましたね」というような笑い話をしたのを覚えています。どうやら、骨折が治るとともに、骨嚢腫も治るということがあるみたいです。治るというニュアンスだと若干違うような気もしますが。
精密検査をし、手術の日程も決まり、後は手術を待つだけでした。
手術内容は「骨折した骨を整復して、ボルトで固定する」といった手術です。全身麻酔での手術だったため、前日の夕方頃から術後1日程は断食しなければなりませんでした。
手術前日の夜、親戚の兄さんが来てくれて、夜の8時9時頃まで話していたのを覚えています。手術に対しての恐怖感や緊張感が和らぎ、ぐっすり眠ることができたことを今でも感謝しています。
手術当日は朝から何も食べられず、水も飲めないため、手術までの時間が 退屈で仕方なかったのを覚えています。体の中の水分をできるだけ出しておいてと看護師さんに言われていたため、退屈だと感じたら、とりあえずトイレに行っていました。
12時頃、いよいよ手術の時間となり、移動用のベッドで手術室へ向かいました。右腕以外は至って健康で、足腰も丈夫だったため、なんだか申し訳ない気持ちにもなりました。
手術室に到着し「すぐに眠くなりますよ」と言われ、マスクをつけた瞬間に意識がなくなりました。傷口の痛みで目が覚め、酸素マスクで口元が覆われていて、煩わしかったという記憶がなんとなくあります。
5.手術後
術後1日目には、酸素マスクも外れ、病院食も食べられるようになりました。トイレに行こうと立ち上がって歩き始めたとき、足元がおぼつかない様子を見た母親が「おじいちゃんか」とツッコんできた事を覚えています。
術後2日目にはリハビリが始まり、このリハビリがとんでもなく痛かったです。肘を曲げる動作ができなくなっていたため、肘を曲げる動作を延々と繰り返していました。
術後3日目に退院をして、学校生活とリハビリ生活の両立が始まりました。
リハビリを始めて3週間後には、肘を曲げることもできて、右手で文字を書く、箸を持つといった日常の動作は、問題なくこなせるようになりました。
しかし、ボールを投げる動作はもちろんのこと、万が一腕にボールが当たって、再び骨折するといった懸念もあったため、3月にあった小学生最後の大会、最後の試合は外野からのスタートとなりました。私が所属していたドッジボールチームは、人数がぎりぎりだったため、人数合わせのために試合に出ざるを得ませんでした。特に活躍することもなく、私のドッジボール人生は終わりを迎えました。
その約1年後、中学1年生の冬に、ボルトを抜く手術をしました。この手術も全身麻酔で行われました。
前回の手術の時とは違うポイントが一つあり、下半身に違和感がありました。その違和感の正体は、局部の排尿用の管でした。これを見た時は、この管を抜く時の光景が目に浮かび、絶望しました。若い女性の看護師だったこともあり、とてつもなく恥ずかしかったことを覚えています。