『神様のボート』を読んだ。
さて、タイトル通り、神様のボートを読みました。なんか久しぶりにnote書く気がします。そうでもないですね。今見たら1週間前くらいにもなんか書いてました。
先に言っておきますが今回当然長くなります。
この小説を読み終えるまで、無駄に『他のネタでnoteは更新しない』と心に決めて、ここ数日はTwitterでスクショ大はしゃぎ野郎をやってました。その節は大変ご迷惑をおかけいたしました。その間に貯めていた兼近への熱いパッションと、兼近は全く関係ない私生活のストレスを、同時に、神様のボートという作品を通してここに全て吐き出したいと思います。あらすじについては特に書きません。兼近がこの動画の中で説明してくれていますので、それで充分かと思います。
私自身、この動画がきっかけで、どうしてもどうしても神様のボートが気になって、夜も眠れないほど気になって……それはもちろん嘘ですが、とにかく最も苦手な小説というジャンルの本を読んでみた、というお話です。(※手書きメモは全て本文からの引用です/『神様のボート』江國香織)
1 人の本質
人の本質とは一体なんなのでしょうか。
その人の言葉?性格?価値観?普段よく口にする言葉?よくやる行動?
私は、どれも本質とは少し違うのではないかと思います。
人の本質とは、その人が
『何に心を動かされるか』
ということなのではないか、と私は思います。
こういう経験をして悲しかった、辛かった、幸せだった、だから、こういう言葉や、音楽や、人に、心を動かされる、というような。
それぞれの根源にある核みたいなものを、人はみんな違う形で持っていると思います。心の奥の奥の奥の…もう全く見えないくらい奥の方に、ぽつんとある、その小さなかたまりみたいなものが、その人の『本質』と言えるのではないかと。
世の中には、自分でも自分の本質を自覚していなかったり、わかっていてあえて目を背けていたりする人がとても多いなぁと、よく思います。そのくらいわかりにくい、奥の方にあるものの話です。
そして他人のそれは、共感できることもあれば、もちろん共感できずに反発してしまうこともある。
そもそも、本当の意味でその人を『理解』して『共感』することなんて出来ないのに。どうしてか、好き嫌いに関係なく理解しようとしてしまう。そして、理解できないとなぜか反発してしまう。
だからこそ『色んな人がいて面白いのでは』と、私は思うのですが。まぁ友達いないけど。
2 葉子の恋愛観と兼近
ちなみに兼近関係なく、
まずは私が、単純にこの小説をどう解釈したかというと
『恋愛に狂って、男にイカれた女の人生を、嘘みたいに美しい言葉でもって見せつけてくる、ゾッとするような恋の話』
と解釈しました。
以上です。本当に以上です。
私はもうそれなりにいい大人なので、正直、人の考えた空想上の恋愛から学ぶものはあまりありません。既に自分でまぁまぁ学んで、自分なりに結論は出つつあります。
小説自体はとても素晴らしかったです。
とにかく日常の風景を描写する言葉の選択が素晴らしく美しい。きっとこの筆者にかかれば、私が座っているゴッチャゴチャのテーブルも、素晴らしく情緒を含んだ素晴らしく美しい言葉達で表現されることでしょう。そのくらい、美しいなぁ、言葉が、と感じました。
そしてそれと同時に、常日頃『ヤバい』『エモい』『しんどい』の三種の神器で全てを片付けている己の表現の俗さ加減に辟易しました。多分今日の私のnoteの言葉遣いはいつもの3割増美しいはずです。そのはずです。
その上で、この恋愛観については、『恋愛に狂った女の自己満足』であり、それ以上でも以下でもないと、何度考え直しても私はそう思います。主人公・葉子の気持ちはとてもよく理解できるけれど、完全に共感するのはなかなか難しい。でもすごく美しくて、貴い。そんな感じです。
兼近がこの小説を読んで葉子についてどう思ったのか、どこに共感して、何故そこに共感するに至ったのか、を私なりに考えていきたいと思います。勝手に。
まず、兼近は、この小説のラストをどう思ったのでしょうか。葉子は現実で、本当に、『あの人』に会うことが出来たのか?それとも、彼女は現実を諦めてしまって、『あの人』なんて本当は実在していなくて、葉子はその妄想の中に生きることを選んでしまったのか?はたまた、彼女は死に、『あの人』もすでに死んでいて、その先の世界で再会を果たしたのか?
もっと違う解釈もあるのかもしれない。
兼近は、どう思ったのだろう。
もしかして彼はそこまでは考えていない?
…否、絶対に考えている。と、思う。
カードの絵柄ひとつ、上の句ひとつであそこまで壮大な解釈(妄想)を広げられる感受性の持ち主が、あの超絶匂わせラストの描写を受けて、その意図に思考をめぐらせないはずがない。
はぁ、気になる。超気になる。誰にも言わないからこっそり教えてくれないかな。
しかし彼はそこについては何も言っていないので、それこそ彼がどう解釈したかは私に委ねられている。
あと、兼近はラストがどうこうというよりも、主人公である葉子の恋愛観や、人生観に強く共感をしているのではないかと思いました。もちろん、娘である草子にも。それぞれ、別の意味で、別の視点で共感しているのではないでしょうか。
まず兼近はこの小説について、youtubeの動画上でこの様に言っていました。
「これはねぇ、本当の恋愛と言うか。
俺が、なんか、本で共感する事ってあんまりないんですよ。でもこれは、どっちかっていうと“あるある〜!”の方で読めちゃう本。」
これを聞いて、実際に神様のボートを読む前まで私は「へ〜、きっとさぞかし素敵な純愛小説なんだろうなぁ、気が向いたら読んでみたいなぁ」などと軽く考えていましたが、全てを読み終わった今、私はこう思っています。
“あるある〜!”の方で読めちゃう…?
本気で言っているのか、兼近。
皆さんもそうだったのではないでしょうか。もしくはそこまでは思わず、「純粋だなぁ」と思っただけの方も多いのかもしれない。そしてもちろん彼自身は本気で言っている。彼はいつだって本気だ。結構な頻度でテキトーな事も言うけれど。
ここで一つ。
以前私は、兼近の恋愛観について独断と偏見で記事を書いています。
更にもう一つ。
兼近の純粋さ、についても書いています。全部私の自己満足です。
一体どれだけ書けば気が済むのだろう。
それはさておき、どちらも馬鹿みたいに長いので、死ぬほど暇な人は読んで頂いても構いませんが、正直あまりおすすめはしません。私自身も何を書いたか細かいところは覚えていないくらいだからです。
一応、この二つの記事を無理やり一言に要約すると
「一見純粋なように見える兼近の恋愛観、人生観は、実はかなり歪んでいて」
今回の記事に寄せた言い方をするならば
「主人公・葉子の狂った恋愛観と人生観、ほとんどそのまんま」
ということになります。
とても素直で、まっすぐで、一見純愛のようにも思えるそれは、同時に狂気も孕んでいる。
なぜならこの物語の主人公・葉子は『あの人』以外の万物に、何一つ価値を見いだしてはいないし、見いだそうともしていない。葉子の世界のすべては『あの人』で作られているし、唯一『あの人』以外に依存の対象としているひとり娘の草子でさえ、基本的には物語後半で草子が母親離れをするその時まで、『あの人ありき』の愛し方しかできていない。しかもそのことに気付いていない。というより、気付こうとしていなかった。子を持つ母親が読めば、「いくらなんでも草子という一人格を無視しすぎでは…」と複雑な気持ちになるに違いない。子供のいない私でさえそう思ったくらいだ。
そんな狂った話を、
「あるあるで読める」
と言ったのだ。私の推しは。
だが、それでいい。
だからこそ私は兼近にこんなにも惹かれているのだ。兼近がヤバイ男であればあるほど、沼はどんどん深くなるし、泥の粘度は上がって抜け出せなくなる。それがいい。最高に楽しい。
兼近は、今日もどこかで生きている。
いつになるかわからないけれど、いつか、きっと、(ライブとかで)会える。そのタイミングは(お金さえ払えば)いつか必ずやってくるのだ。
私はそう信じている。疑ったことは一度もない。
そう思うだけで日々の生活も、価値のあるものに思えてくる。兼近がどれだけメンヘラだろうと、極論を振りかざそうと、ラーメンを食べながら歯を磨こうと、私はそれでいい、それがいい、兼近が兼近でなければこんなにも好きにはならなかった。
兼近を好きになるのに言葉など必要なかった。兼近を前に、言葉など全く意味を持たなかった。誰になんと言われても気にならなかった。現実を見ろと言われても、周りの言うところの『現実』とやらに、興味はなかった。
なんだか、ずいぶんしっくり来るな。
そう、もちろん私にも葉子っぽさはあるのだ。
きっと、誰にでも少なからずあるものだと思う。
「本気で言っているのか、兼近」とさっき言ったが、兼近が本気で言っているのはわかっているし、最後まで読んだからこそ、本気で言っているという根拠が、逆にしっかり腹落ちしている。私にも葉子っぽさはあるし、母と娘、という側面で見たときの私には草子っぽさもある。だから兼近が「あるあるで読める」と言ったことそれ自体に対しては、本当のところはなんの違和感もない。そうでしょうね、わかります、といった感じだ。
ただ、その点について彼はあまりにも言い切りすぎているのだ。きっとそこが私を含む皆さんが、多少なりとも感じた「兼近マジ?」の原因だと思う。
とは言うものの、私は正直、そこについてはなんとなく、兼近が言い切る理由がわかる気がするのだ。
それは恐らく、兼近の恋愛経験が、私たちの大半よりずっと少ないからだ。
あと元々の性格として、0か100かくらいの極端な判断をしがちなことと、感受性が強すぎること、わりと思い込みが強く『こうだ』と思ったらそれに向かって突き進む性質を持っていること、なんかも大きく影響していると思う。
本当はそこまで極端なことは思っていないのに、つい断定的な物言いをしてしまって、後になって『いや、別にね、あの〜、そこまでは思ってないんスよ、その考えも全然、うん、アリだと思いますよ、うん、いや、マジマジ。』というフォローをするようなことが多いのではないだろうか。
彼の恋愛経験の件について話を戻すが、彼は自身の恋愛経験を『濃厚な3、飛田新地込みの軽率な2』と言っており、もしそれが事実だと仮定するならば、その『濃厚な3』とは『15歳まで』の3で、おそらく頭数には入れていないであろう『今も尚続く片想い』は濃厚カテゴリー「プラトニック編」に裏で1カウント入っているはずだ。濃厚な3の方の頭数に入ってたらごめん。もしかしたらちょっと見栄張って盛ってる可能性だってあるかもしれないとさえ思う。
それほどまでに『たったそれだけ』なのだ。
しかしまだまだうら若き、清い世界を生きている少女が、万が一私みたいな荒んだアラサーのnoteを読んでいるとしたら『別にそのくらいの数が普通じゃないの?しかもかねちー風俗行ったことあるの?なんかやだァ〜』と思ってしまうかもしれない、それは兼近にとても申し訳ないので分かりきったことをあえて言いますが、
かねちーのスペックで、この経験の少なさは、やっぱり異常です。
そのへんにいる有象無象ならまだしも、愛嬌も男気もある優しくて明るいイケメン芸人が、多少引きこもり傾向にあるとはいえ、恋愛に関するデータが風俗を含めても5件しかないのだ。ありえなさすぎる。どのくらいありえないかと言ったらギネスに載るくらいありえない。なんなら、そのへんの有象無象の方が、まだ豊富なデータを持っている。
そして、しつこいようだが彼はガチガチのイケメンな上に、社交性もある最高にかわいくてカッコイイお笑い芸人だ。(贔屓がエグい)
更にそういう古き良きやんちゃな風習が一般社会よりも根強く残っているお笑い業界の人間なのだ。それでいて、濃厚な3と飛田新地込みの軽率な2だと?軽率なのが、風俗込みで、2しかない?にわかには信じ難い。しかも全体の経験の60%は中学生までの話だ。
そんなことって、あるのか。
ここでひとつお聞きしたいのですが、今これを読んでいる私と同年代以上の皆さん、自分が中学生の時の恋愛のこと、覚えていますか?
私は正直あんまり、覚えていません。薄らぼんやりと記憶にはあるのですが、大人になってからの経験と比較してしまうと、おおよそまともな恋愛と呼べるような代物ではなかった、と記憶しています。皆さんはどうでしょうか。その頃からずっと同じ人と付き合って結婚したとか、そういう特殊な経歴をお持ちでもない限り、大体同じようなレベル感なのではないでしょうか。
友達と誰々が好きだと暴露大会をしたり。行事にかこつけて告白したりされたり。一緒に帰って、手を繋ぐだけで大騒ぎだったり。キスなんてとんでもないと思いながらも、その先のことにも実は興味があったり。何かしらのきっかけであっさり別れて、数日後には別の人と付き合っていたり。
中高生くらいまでの恋愛は、少女漫画を教科書としている基本のキ、いろはのイ、なのだ。
『そんなものは恋愛じゃない』とは思いません。正真正銘、それも恋愛だと思います。そういう可愛らしい経験を積み重ねて、大人になってからのハードな恋愛の糧としていく、それが成長です。そしてまたの名を老化と言います。
ただ、もし、その美しく気恥ずかしい思春期の思い出のまま、私の恋愛経験が止まっているとしたら?いろいろな事情により、長い片想いをせざるをえない状況で、そのまま多感な時期を過ごして大人になり、そんな中でこの『神様のボート』を読んだとしたら?
もしかして私は『兼近と全く同じことを言っているのではないだろうか』とも思います。
兼近が『これが本当の恋愛だと教えてくれた』と言っていた理由は、これで概ね消化できたのではないでしょうか。『彼にとっては、今でもそうなのだ』というだけの話なのだと思います。しんどい。しんどすぎて死にそう。
しかし、兼近さんは自分の話は照れちゃってできない割に、『他人の恋愛の話』はだいぶお好きなようにお見受けします。自分は恋愛してない絶食系アラサー男子のくせに、人の恋愛相談に乗るのは大好き。なにそれバチクソ可愛い。そして、そういうときに彼が出す回答は概ね、何故か芯を食っている。振り切りすぎている時も多々ありますが。
それにしても、まともな恋愛経験がほぼゼロに等しい男が、なぜそれっぽい事を言えるのか。
それはひとえに『頭がいいから』だと私は思います。
頭のいい人は、自分がわざわざ経験しなくても、見たり聞いたり、勝手に考えたりしたことから推測して、当たり前のように学んで、自分の中に知識として蓄えることが出来る。更にそれを自分用にカスタマイズして整理することも出来るので、違和感なく自然な形でアウトプットすることができる。
自分自身は人並み以下の経験しかなかったとしても、恐らく、多感な時期の彼の周囲はそうではなかったはずだ。複雑な家庭環境で育った上に、それなりにやんちゃな世界で生きていた彼の周囲の人達は、男女を問わず性的にも結構やんちゃだったはずだ。そしてそのままお笑い芸人という、芸能界でも屈指のやんちゃな部類に入るであろう業界に、足を踏み入れている。
彼自身は純粋でも、彼に言わせれば『不純』な恋愛はきっと周囲にありふれていて、それを嫌という程見てきたはずだ。そういう周囲のあれこれを見て、色んな本を読んで、自分の中で彼なりに解釈して、考えて、それに見合う結論を出してきたのだと思う。
そして私が思うに、その辺に転がる有象無象の男性たちは、そのほとんどが『恋愛=セックス』に直結するような価値観を有している場合が多いと思う。どれだけ表面上は草食ぶっていてもだ。もちろん女性でもそういう人は、沢山いる。女性の『言わなさ』が尋常じゃない、というだけだ。メリットないからな。
そもそも、恋愛感情の大元は性欲という本能から来ているので、そういう意味では間違ってはいないのですが、『気持ち』に重きを置く兼近は「それは違う」「そんなものは恋愛じゃない」そう言いたくなってしまうのではないでしょうか。
なにも、兼近だって「セックスなどの不純な動機が少しでもあったらそれは恋愛ではない!」なんて荒唐無稽なことを言っているわけではないはずです。もしそうだとしたら彼は本物の童貞です。ペロペロハウスにも出ていません。『童貞じゃない』という時点でその理屈はありえない。初手で矛盾してしまう。
更に、主人公の葉子も、「あの人」とのセックスに馬鹿みたいに依存しているし、言ってしまえば不倫を美化して自己陶酔に浸っている極めて自分勝手で幼稚な恋愛なのだ、葉子の恋愛は。
そして、兼近は、作中の定義で言うところの最もインモラルなその二点を、当然のように許容している。
つまり彼は、『モラルあるプラトニックこそ純愛』と言っている訳では無い。そこにその人なりの、最大限に相手を尊重する気持ちと、真っ直ぐな『好き』という想いがあれば、『それが恋愛だ』という基準を持っているのではないかと、私は思います。しんどいですが、兼近は本物の童貞なわけではない。ちょっとロマンティックすぎるだけなのだ。
3 葉子の生き方と兼近
恋愛観についてひとしきり触れたところで、葉子の人生観、というか生き方についても触れていきたいと思う。
読む前は恋愛についてだけ書くつもりだったのですが、読み進めていくにつれて葉子の生き方そのものも兼近の琴線に触れたのではないだろうかと思うようになった。
主人公・葉子は、娘の草子をつれて『あの人』を探す旅をしている。
一つの場所に長く留まることはせず、その土地や人に慣れそうになると、また次の住処を探して旅をする。慣れてしまわないように。慣れてしまったら『あの人』には会えない、というのが葉子の妄想であり、葉子にとっての人生のルールだからだ。
いつか必ず『あの人』に会えると信じている、そう思い込もうとしている。痛々しいくらい必死に。そんな葉子は夫である桃井先生との離婚を機に東京を離れ、それから親にも、友人にも、誰にも連絡を取らず、ふわふわと、雲のように現実逃避を続け、最終的には16年間さまよい続けた。
この葉子の浮世離れした生き方を見て、私は条件反射で兼近を連想してしまった。
自分は死んだことにして地元を離れ、全てを置いて東京に出てきたと言っていた。なかなかできることではない。相当な覚悟がなければ、途中で苦しくなって心が折れてしまうだろう。
そして、覚悟もさることながら度胸もすごい。りんたろーに口説き落とされる直前までは、タイに行こうとしていたくらいだ。
地に足がついていない、というと悪く聞こえるかもしれないが、私はなんだか憧れてしまう。きっと葉子や兼近にとっては地に足をつける必要なんて全くないし、つけたいとも思わないのだろう。
だからこそ彼は、ずっと片想いをしているのだ。
葉子のように実在するかどうかもわからない『あの人』を探す旅をしていた訳ではないけれど、私には彼が、『居場所』を探す旅をしているようにも思える。
自分にできること、自分が求められる居場所を探す旅。
そう思うと、恋愛観だけではなく、葉子と兼近は生き方についてもどこか通ずるものがあるように、私には思えて仕方がない。
とてもたくましいのに、繊細で、どこか脆くはかなげに見えるのだ。いつ消えてしまってもおかしくない、なんとなく、そんな感じがするのだ。
4 草子と兼近
ここまで『葉子と兼近』について書いてきたが、ここでは葉子の三つ目にして最大の宝物である『草子』と兼近について書いていきたいと思う。
娘の草子は、母である葉子とは対照的にとても聡明なリアリストだ。それでいて、現実を突きつけることによって母を傷つけてしまうことに心を痛める、思いやりのある心優しい少女だ。
まず前提として、葉子と草子は母娘にありがちな共依存関係にある。
離れたくても離れられない、離してあげたくても離してあげられない。
葉子の望む夢の中を一緒に生きてあげたい、という気持ちと、地に足をつけて現実を生きていきたい、という自我の間で揺れ動く草子の心は、きっと誰しも感じたことのある思春期特有の親へのもどかしさをそのまま表している。
草子は、年齢の割に大人びた考えを持った少女で、母親である葉子のことを『ただの女性』として見ている。もちろん『ママ』としての葉子にはしっかり依存しているのだが、それとは別に、ママにも『ただの女性』としての人格があることを明確に理解している。草子が小さい頃から何かにつけて『あの人』の話をする母を見てきたという客観的な事実と、草子の背後に『あの人』の影ばかりを追いかけて、一向に草子自身を見てくれない母への諦め、という一種の自己防衛のようなものがその主な要因ではないかと感じた。
ここまで書けばもう私が何を言いたいかはお分かりだろう。
兼近は葉子でもあり、草子でもあるのだ。
彼も草子も親を、特に母親を一人の女性として見ている。
特に、複雑な家庭環境で育つと親の『ただの人間』としての部分を目にする機会が普通の子よりも多くなる。親自身がすべてに余裕がないからだ。
親は万能ではない。親にも感情があり、できることとできないことがある。何事にも限界があるのだ。それを何不自由なく生きてきた子供たちより、理解するのが少しだけ早いので、それに伴って精神的な自立も早くなる。私は別に、それが良いこととも悪いこととも思わない。
それが、ただの現実。その子にとっての、事実なのだ。
その環境と現実を受け入れて、その上で自分は何を選んで、どう生きていくのか、決めるのも、行動に移すのも、結局は全部自分なのだ。そしてそれがわかっている子は、何一つ親や環境のせいにはしない。親も自分と同じただの人間だということがわかっているからだ。だからこそ草子も、兼近も親を思いやることができる。できることなら悲しませたくない。そう思う気持ちが、普通の子よりちょっとだけ強い子供だったのだろう。
兼近がただの夢みがちチェリーボーイではなく、力強くたくましい一面を持っていることはファンなら誰もが知っているはずだ。
そんな力強さとたくましさは、きっと彼の中にある『草子っぽさ』が理由なのだろうと思わずにはいられなかった。
5 最後に
ようやく最後のパートに入れます。お疲れ様でした。私も疲れました。これ書くのに3日くらいかかっています。後半テンションが低いのはシンプルに疲れてきたからです。こんなに長い読書感想文を書くことになるとは思いもしませんでした。
兼近恐るべし、神様のボート恐るべし。
恋愛小説だったので、恋愛観についてのパートが異常に長くなっている上に、私の経験に基づく主観的な意見がふんだんに盛り込まれているので、話半分くらいにお読みいただければ幸いです。
そして、ここまで感想文が長くなるほどに私がこの物語に心を動かされたのは、私の本質に触れてくる物語だったからです。
冒頭にいきなり小説と無関係な本質の話をしたのはそのためです。
これまで兼近の話ばかりしてきましたが、私自身についていえば、草子に感じるものがとても多かったように思います。父親の不在による自分のアイデンティティの不安定さや、そんな不安から、母を大事に思っているのに、気持ちが言うことを聞かずに傷つけた過去、ここだけの話、母を泣かせてしまったことなど数しれずです。
もちろん葉子について感じるものもたくさんあった。好きになってはいけない人を好きになってしまったり、それを正当化しようとしている自分に気付いて心の底から自分が嫌になったり。明確なビジョンなんて何ひとつないのに、ありもしない理想を追わずにはいられなくて、結局どこで折り合いをつければいいのかわからなくなって困り果ててしまったり。今はもうそんなことないですけどね。
それで言ったら私の方が葉子より精神的に大人なのかもしれないね。
そんな感じで、色々やらかし、やらかされてきた私にとっては、この小説は正直言って他人事ではなかったし、兼近にとってもそうだったのではないかと思うのです。
そのあたりに通じるものがあるから、私は兼近にここまで強く惹かれているのだと言うことに改めて気付かされた読書週間でした。
ほとんど勢いで書いているので、読みづらいところがあったらすみません。言いたいことがありすぎて私史上最高に長い記事になってしまいました。読むのもしんどかったと思います。書くのもしんどかったので許してください。
結局たぶん、ギリ1万字いかないくらいで収まりました。
葉子と、草子、
そして兼近に、幸あれ。