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星々の悲しみ

今から30年以上前の話。高校3年生の現代文の教科書で見つけた宮本輝の『星々の悲しみ』という短編小説が、今でも年に数度は無性に読みたくなる。今思い起こしても、いい思い出のまったくなかった高校3年生の1年間の中で、この短編小説との出合いだけが唯一の輝きを放っている。

この短編小説と出合う以前は、授業中はいつも教科書を立てて、その裏で英単語集などの受験参考書を読んでいた。しかし、高校3年になって、この短編小説を見つけてからは、立てた教科書の裏は受験参考書ではなく、きまってこの現代文の教科書となっていた。読むのが遅い私でも集中すれば、一回の授業時間で『星々の悲しみ』がちょうど最後まで読めた。そのため、日に何度も繰り返した。

それまで一度も小説を読み切ったことのなかった私が、これほどこの短編小説に夢中になるなんて。それは「好き」という言葉よりも、「中毒」という言葉が当てはまった。

どうして、『星々の悲しみ』にあれほど心惹かれたのだろうか。
物語の中で、一浪し、受験勉強はそっちのけで図書館でロシア文学やフランス文学に夢中になる主人公に羨望していたのは事実だ。


しかし、それ以上に物語の中に出てくる『星々の悲しみ』という絵画の中に、自分自身の姿を投影させていたのではないだろうか。
薄命の画家が、大木の陰で麦わら帽子を顔に乗せて眠る少年に込めたメッセージが、当時の自分の気持ちとぴったりと重なった。


当時の私は父親から「国立大学に受からなければ、就職しろ」ときつく念を押されていた。国立大学進学しか自分の未来を見い出せずにいたのだ。『今』のすべてを犠牲にして、志望大学に入れたとしても、『今』というときは二度と戻ってこない。それを痛いほど自覚しながら、18歳の無力の私は真っ暗闇の中で細い一本道を進むしかなかった。


そんな毎日に、常に現代文の教科書を机の中に置き、授業中に『星々の悲しみ』の世界に陶酔することだけが、日々のささやかな喜びとなり、自分の未来を信じる力を与えてくれた。この短編小説から溢れ出す言葉そのものに、私はただただ感動していたのだ。


大学に入学してから、宮本輝の小説をはじめ、様々な本を読み漁るようになった。素晴らしい作品に触れるたびに、「ものを書きたい」という衝動を押さえられなくなり、自分でも拙い文章を綴り始めた。


社会人になると、思い描いていた理想とは程遠い現実に悩み続けてきた中で、書くことだけが自分を癒してくれた。いや、癒されたというより心の支えだった。


幸か不幸か、自分の書いたものを読んで、プロの作家になれると勘違いしたことはない。ただ、フリーランスとして人並みの経験を積んだはずの大人として、一つだけ断言できることがある。


それは、どんな自己啓発書やビジネス書より一編の小説やエッセイの中で出合う言葉の方が、現実の世界で生きる人間の血肉になるということだ。私自身も、自分の一部となった言葉にいつも救われてきた。そして、そんな言葉は、プロの作家の特権ではなく、誰にでも生み出すことができると信じている。


高校時代の、あの常に息苦しさを感じていた日々は、夜空に輝く星々のように遥か遠くへ過ぎ去ってしまったが、『星々の悲しみ』との出合いによって私の心の中にたしかに灯った炎は、今も赤々と燃え続けている。

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