セミの叫び
高3の夏休みというと、大学受験の天王山と言われる。
私にとって高3の夏休みがそれほどの意味があったかどうかはわからないが、その高3の夏休みの大半を、いやそのすべてを私は広島県立図書館で過ごした。図書館の開館日は1日も休まずに、朝9時から夜の9時までいた。
県立図書館はもう移転してしまって当時の面影は全くないが、当時はまだ縮景園の隣にあり、緑に囲まれ、建物も古く犯しがたい威厳があった。
塾は嫌いだった。養殖の鯛のようだと思っていた。
みんなとは少し違った夏休みを過ごそう、1人になってとことん自分を見つめてやろうという気持ちがあった。だから、県立図書館を選んだ。
広島市には、もう1つ市立図書館があったが、塾の時間待ちの生徒の憩いの場所だったり、冷やかし同然のカップルのデートの場所だったりと俗世そのものだった。
図書館という所は、慣れてしまえば実に居心地のいい所だ。大きな平らな机に皆がキチンと並んで座っていながらも、それぞれがそれぞれの世界に熱中している。
ここにいると、自分はこの世で1人っきりではないんだという当たり前の安心感がこみ上げてくるのを感じていた。
疲れて席を離れ、隣の狭くて古い書棚に入ると、なんとも言えない威厳のある匂いがした。人類の英知が詰まったこの空間に憧れ、私と同じようにこの空間で同じ空気を吸い、自分の大切な時間を使って読んだ人々が書物につけていった手垢の匂いといったところか。
私は片っ端から目に付いた本を開き、しばしその本との出会いの意味を見つけ出そうとした。大学に入って、図書館にあるすべての本を読んだら、さぞ偉くなるだろうなとも考えた。
勉強の方は順調に進んだ。誰も私の勉強を遮る障害はなかったし、毎日通うことで、当時の私をぐるぐる巻きに包んでいた受験のプレッシャーから次第に気持ちが落ち着いてくるのを感じていた。
毎日、夜8時を過ぎた頃から、人もめっきり少なくなり、窓の外は暗い闇に包まれてくる。だが、窓の外では、まだまだセミの鳴き声が聞こえてくる。
いや、昼間より不思議に大きく聞こえてくるのである。そして、古い木枠で囲った刷りガラスにセミが何匹もものすごい勢いで当たってくる。
ガラスに当たった瞬間に、セミがなんとも痛そうな叫びをあげるのだ。
私はその悲痛なセミの叫びを聞く度に、鉛筆を止め、地面に落ちたセミのことを考えていた。おそらくこんなことを繰り返したら、セミの1週間しかない寿命はさらに短くなるだろうと思った。それでも、彼らはまたガラスにぶち当たる勇気を持つだろうか、それでも明るい世界を求めてくるだろうか、そんなことを思った。
すると、きまって今の自分の置かれている状況を思い、苦笑した。いつの間にか大学に入るしか、18歳以降の自分の未来は開かないような気になっている。だから、ひと夏ここで、ただただ『大学に入れてくれ、大学に入れてくれ』と叫び続ける自分がいる。地面に落ちたセミと同じだと思った。
そして、本当に大学に入ってしまえば、今ここで叫んでいるセミたちと同じように今の自分も存在しなくなって、こんな自分がいたことも忘れてしまうかもしれないと思った。
高3の夏、私は多くのセミが生まれては死んでいくまでの叫び声をたしかに聞いていた。
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