『今現在』のモードを巡って②
前回は、近代短歌と現代短歌のモードを論じた穂村の議論を踏まえながら、穂村自身が語り尽くさなかった今現在のモードとはどのようなものなのかを考えていく、という本稿の主題を確認した。
今回は前回の整理を基に、今現在のモードを反映しているであろう「棒立ちの歌」の意味するところを精査することから始めよう。
1. 穂村による 「棒立ちの歌」解釈
穂村は2000年代以降(現代と対比する上で「今現在」としよう)の短歌には、以下のような「棒立ちの歌」が増えていると指摘する。
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって 中澤系
牛乳のパックの口を開けたもう死んでもいいというくらいに完璧に 同
リモコンが見当たらなくて本体のボタンを押しに寝返りを打つ 斉藤斎藤
自動改札を眺める駅員のくちびるうごく みんな よいこ 同
たくさんのおんなのひとがいるなかで
わたしをみつけてくれてありがとう 今橋愛
一読して分かるこれらの短歌群の質的な差異(作風の素朴化•修辞の放棄…)は何によるのだろうか。穂村は、「うた」が個人の想いより高次の概念とされていたそれまでの短歌と比較して、2000年代以降の想いと「うた」の間のレベル差が消失していることを指摘する。
(棒立ちの歌を指して)このような例は、「うた」の文体以前の、世界の捉え方そのものの変化を示していると思う。
自己意識の強まりに対して「うた」意識が弱まっているのではなく、自己意識そのものがフラット化しているように見えるのだ。 『棒立ちの歌』
穂村の上記の議論を整理すれば、自己意識=想いがフラット化したことにより、「うた」にもそれが波及していったという理解になるだろう。
さらに換言すれば、「うた」を高次、想いを低次とする上下関係は緩やかに固定されながらも、想い(=自己意識)がフラット化により地盤沈下する。それによって、「うた」もまた従前の高次の地位を保証されなくなった。こんなところだろうか。
確かに部分的に納得はできるものの、何か腑に落ちない感がある。
だとすると、何故今現在のモードに浸る彼らは敢えて修辞を引き剥がしたような素朴な作風を取っているのか。
穂村の議論では、この疑問には答えられない。「私」性が大衆社会の到来により失われ、個人意識がフラット化したとして、それが何故「うた」に波及せねばならないのか。そこに穂村は言及していないように思われるのである。
波及経路が分からなければ、「うた」の表現形態への議論まで辿り着くはずもない。
恐らく穂村の議論がこのように展開せざるを得なかった背景には、個人の想いより構造的に高次のものとして「うた」を暗黙のうちに仮定している点がある。そうでなければ、個人意識の変化で、「うた」の変化を語ることはできないはずだ。
彼らが修辞の資産を放棄して、このように過剰に棒立ちとなることを選択している背景を問うべきなのだ。
上記の議論をもう一度、表現形態の観点から考え直してみよう。
2. 表現形態からの再考
「棒立ちの歌」の理由を個人意識の側に求める穂村の議論に対し、何故そのような表現を取らざるを得なかったのか、という表現形態の観点で考え直すことが以降の狙いである。
そもそも、棒立ちの歌以前では、何故修辞が必要とされたのだろうか。
近代のモードが通底する時代においては、取り換えの効かない「私の」生を歌うからこそ、そこでは他人と異なる修辞•技法が必要とされた。表現や技法はただのテクニカルな問題ではなく、「うた」を「うた」として存立させるために必須のものだった。つまり、ここでは修辞や表現のレベルで「私」性を捉えようとしていたといえよう(「私」性の修辞的解決)。そうして、最小限界差異を模索していくような息苦しい「私」性を巡る格闘の果てに、生身のものもモノとして扱う「言葉のモノ化」が生じる。この点で、いかなる修辞を駆使しようと、挙句言葉をモノ化しようと、それは修辞的な解決であることに変わりはない。
では棒立ちな歌は、個人意識に根拠を求めないとすれば、「修辞を放棄したという修辞」「素朴な作風という修辞」であるに過ぎず、相変わらず近代のモードに拘束されているのだろうか。
私は、近代→現代→今現在とモードが移り変わって来たのではなく、決定的な分岐点は「現代と今現在の間」にこそ存在していると考える。
一見『修辞の資産を放棄した』とさえ見える棒立ちな歌は、言葉が生と密着しながら主題化される新たなモードに入ったとは言えないか。即ち、『言葉と密着した生の主題化』という現象である。
これらの歌を読む時、言葉が言葉として自立空転し唸りを上げている感覚とでも言おうか、修辞という幻惑を乗り越えて、原初的な形態に立ち戻っていく言葉の荒々しさを感じるのだ。
彼らの作品が、如何にべったりと生を描いていると見えたとしても、言葉無くして生を描くことはできないことをもう一度思い出すべきだ。そして、先程述べた言葉の原初性とは、「物事を平坦かつ無表情な世界から区別し屹立する能力」そのものだ。
それは、(これらの作品の一見持つシニカルさやアイロニカルな見た目とは裏腹に)荒々しく暴力的な作用に他ならない。言葉自身の強靭性•暴力性のありのままの提示だ。
3. 今現在のモードを巡って
その観点から、近代以降のモードを振り返ると、修辞という形式により言葉の暴力性を抑えることで、生を描くために従属させていたという構図が浮かび上がる。繰り返すが、「言葉のモノ化」とは、主題に対する言葉の従属性については変わらず、味付けを変えたという程度でしかない。その面では、言葉の復権という観点で、棒立ちな歌は塚本のモードの一直線上にあるだけでなく、進化系と言える。
穂村の言うところの「修辞の資産の放棄」を敢えて行うことで言葉の荒々しさが立ち現れる。私の私しかなし得ない生の一回性は、他人との差異で区別されるのではなく、修辞を付与しない表現で提示するからこそ、逆説的に十全に表現される。
修辞的でないからこそ、どんなに見窄らしくとも(或いは見窄らしく、特別でないからこそ)、歌を歌う「私」の生であることが立証される形式となっているのではなかろうか。
そこには最早特別な主題•イベント•状況もないが、斎藤茂吉や塚本邦雄のモードが目指した「私」性をいとも簡単に手に入れているのだ。
だからこそ、穂村の言うフラット化した個人意識などここにはなく、あいも変わらず近代のモード(生の一回性)が通底している。
だとすればこの新たなモードは、これ以上の進化を望めないような完璧な形態なのだろうか。そう考えてみると、正直なところこのモードの持続性には疑念が拭えない。
即ち、棒立ちな歌を歌う以上、歌の歌い手としての「私」の特権的地位に依拠する安易な歌と、極めて難しいバランスを強いられ続けるからだ。私が私であることを言葉の暴力性で勝ち取ったとしても、歌を歌い得る沢山の「私」が遍くいる、という事実に逢着せざるを得ない。
この時、次のモードとして私たちは修辞を選ぶのか、或いは特権的な歌い手である「私」を選ぶのか。
恐らくこれは選択の問題だ。
小さめにきざんでおいてくれないか口を大きく開ける気はない 中澤系
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