きっと刻々とわたしたちは進んでいく 『さらざんまい』
先日、大学時代からの友人と渋谷で久しぶりに飲んだ。彼女が結婚してからは初めてのことになる。
出会った頃は先輩後輩としてだったけれど、古くから友人みたいな大きな安定感があり、いつも何かにつけて会いたくなる。この日も声をかけると、いつものようにさくっと日程を組んでくれた。
彼女は思慮深い。まろやかに年上への気遣いもありつつ、さほど気にしない様子でフランクにさっくりと切り込む大胆さがあり、それでいて様々な物事に柔らかな眼差しを向ける、そんな人だ。
そういうおおらかで豊かなところがある反面、愛情の向ける先のままならなさに懊悩としたり、時折ままならなさをさっぱりとまっすぐ受け止めたりする人間臭さみたいなものがある。そこが付き合うにつれ、より細やかに見えてきてとても素敵な人だ。
彼女が大好きなのだが、今回は会うまでにちょっとだけ、悩んだ。彼女が結婚したことにより、うまく話せるだろうかと、お互いに楽しめるだろうかという思いがよぎったから。
結果的には、そんなのまーったく気にしなくてよいほど楽しかったのだけれど。
ただこの感覚ってどうしたものか、と思う。
そんなはずはないのに、なんだか勝手に分断されたような。「ごめんね。もうお家に帰る時間だから、今日は終わりにしようね。」と帰りの時間を促された子どものような気持ちに勝手になってしまう。まだ遊んでたい。けど、だめなんだって。と。
新しい生活に、誰かと関係を構築する段階にあるのは、なんとなく一段先へいっている気がしてしまう。大事に思う相手もなく、誰かと共有しようという時間もなく過ごすわたしと居るのは、つまらなくなってしまうんじゃないかと思ってしまう。
ふわふわと誰かとの間を渡り歩いて、なんとなく面白さや好奇心を満たすために誰かを消費してしまう自分と釣り合わない感じがしてしまったのかもしれない。気が引けてしまったと同時に、彼女がわかってもらいたいだろうことや感じた喜びや感動を私が十分に理解できないかもしれない、そんな後ろめたさみたいなものも感じていたのだろう。
でも彼女にとってわたしは選ばない(選べない)選択肢のひとつだ。それは当人たちのどこで釣り合いが取れるかもわからないし、理解できるかなんて相手任せになる。すると、そんなに躍起になってわたしたちをすり合わせなくてもいいのかもしれない。
そう思ったら少し気が楽になる。わたしは彼女が教えてくれる話のひとつひとつが愛おしいし、これからも会いたい。それで十分。
もしかしたら、あったかもしれない選択を互いに見てるのかもしれない。それいいなって思うものかもしれない。選びたいかもしれない。選んだかもしれない。選べなかったかもしれない。無数に広がる未来の中で、ひとつひとつを選び取る。時には、選ばざるを得ないこともあるかもしれない。
その様々な選択の中で、結婚した彼女と、転職する彼女、転職したわたし、今は一人が楽しいわたし、その時々にそのままのわたしたちで会う。
途切れてしまうより、つながることを選ぶ。
簡単につなぐことができるようになった時代に生きるわたしたちは、いろんな人とつながっているのに、そのつながりにぼんやりとしてしまう。いつでもつながっている気がして、当たり前に関係を流してしまっていく。
わたしたちはそれぞれを選び取りながら刻々と進んでいく。きっと選び取ったものたちはバラバラで、共通の言語も失われていくかもしれない。だけど、選び取ったバラバラなものたちを広げあって、それぞれの選択に目を輝かせながら顔を付き合わせて話せる時間が長く続くといいなぁと思う。
つながっていけるように、架け橋をかけ続けてこれから先の人生を楽しんでいけたらいいなと思う。
つながりたいから、さらざんまい。
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