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かの家に明かりが灯る日は

あと数日で祖父は逝ってしまうらしい。あまりいい状態ではなくなってきていたことは、前の年からわかっていたことだった。
母からのLINEはあっさりとしていた。
「じいじそろそろやばいです。でも帰ってこなくて大丈夫。」

昨年、父方の祖父を亡くした時もそうだった。「帰ってこなくていい」
コロナのせいもあって、葬儀に呼ぶのもかなり数を絞ったらしい。
オンライン葬儀だとはしゃいだカメラに端っこには、椅子に座って肩を落としている風に映り込んだ父がいた。
母はこんな時でも空気を読まない。

やっと実家に帰れた時には数ヶ月経っており、祖父のはちゃめちゃエピソードがより一層掘り起こされていた。
大学卒業と言っていたが「自分で卒業してきた」という「満期退学」だったし、祖母が生きている時から愛人がいたというのもなかなかパンチが効いている。しかも、私が幼い頃、祖父の元に預けられてた日は、愛人の元へ連れて行かれてたらしい。母も父もうっすらそれを知っていたらしく、大人になり祖母が亡くなってからそれを知ってめちゃくちゃ驚いた。
全身白い服でキメるし、車の中は原稿やなんやらでめちゃめちゃ汚いし、椅子がめちゃめちゃ低いし、嫌だって言ってるのにモリモリ早い速度で車走らせて「気持ちいいだろ!」って言ってくるし、お年玉袋に「いつ結婚するのかな?」と率直に書いてくるし、とんでもないジジイだとは思っていたが、とんでもないがすぎる。
でも、私が青い鳥文庫を読み終わってしまって次の巻を欲しがると本屋に連れ出してくれるような優しいジジイでもあった。ただ、医学者専門の書店には児童書はないぞ、じいじ。
ちょっと足りなくて、ヘンテコでとてつもなく憎らしいところもある彼を、祖母は微妙な感じに好きだったんだろう。

そんなはちゃめちゃな父方の祖父とは対照的に、母方の祖父は穏やかな男だった。タクシードライバーだったくせに、子どもから見てもわかるぐらいにあんまり話が上手くない。好きなことにのみ反応し、ポツリと好きなように話す、だけ。いつもおんなじ位置に座り、野球と相撲をこよなく愛する男。それが私ももう1人のじいじだ。
しかも、スナックのママをしていた祖母の尻にペッタリとなった座布団ぐらいの勢いで敷かれている。台風のように騒々しい祖母を毎夜スナックまで送り届けるのは祖父のお勤めだった。準備の間もひっきりなしに喋りかけてくる祖母とは対照的に、じっと相撲を眺めながら聞いているふりをする祖父。
また、もてなしたがりの祖母は、ご馳走を用意してはうちと母の妹宅をことあるごとに招集していた。そのとき祖父はいつもの位置で、父やもう一人の娘婿が祖母によってどんどん酒を飲まされてへべれけになっていくのをほんのり嬉しそうに見つめていた。
この夫婦は何がピンときてずっと一緒にいるんだろうかと思うような2人だったが、喧嘩しているのだけは見たことがなかったからそういうことなんだろう。

小学生の頃、いつまでも九九が覚えられず、祖父の家で練習していたことがある。
正確には九九が覚えられないのではなくて、先生の前で唱えて合格をもらい、次の段を暗記する方式だったのだが、「みんなにも聞かれているところでは緊張してうまくいかないし、うまくいかないのがショックだから並びたくない」のと、「単純に競争したくなくて、自分のペースで進みたかった」ということで友だちよりもかなりペースが遅かっただけ。
ただ、7の段だけは曲者でいつまでもクリアできず、不合格はとうとうクラスで私だけになってしまっていた。預けられている間も、九九を覚えてねと母が言うので、渋々じいじ相手に唱え続けていた。
最初は「49」とか「56」とか間違えるたび教えてくれていたのが、だんだん間違いには「ん」という反応を示すだけになり、西陽のさす居間の窓際で爪を切りながらぼんやり聞くようになった。
最後はちょっとめんどくさくなったのか「覚えてから、じいじに挑戦するといいよ」と相撲を見始めてしまった。覚えようとしながらもテレビの音につられて相撲を見ながら、じいじに唱えたら7の段は言えるようになっていた。2人して相撲を気を取られてたのがうまい具合に作用したのだろうか。
焦らすもなく、過度に親身にもなることのない、「じいじはじいじ」としか言いようのないあの感じにその後も助けられた。

そのじいじは近いうちに旅立ってしまうのだろう。最期までじいじな感じで去ってしまうのがいい。


葬式はあんまり得意ではないから、「帰ってこなくていい」というさっぱりとした母の言葉はこの時ばかりはありがたい。

大好きな祖母を早くに亡くした時、葬儀屋がとても大仰に「お祖母様の最後だから」とアルコールで祖母の手を綺麗にしてほしいと、断りをいれてもなおしつこくお願いしてきた。死化粧の締めは、孫に、という気持ちは理解できるが、動くことのない身体を前にどっと疲れてしまうような感覚があって、別れには、礼儀には、必要なことだと言われようともどうしてもまとまりのつかない思いだった。
まだ私にとっては記念にも、折り合いにもならない状態だったから。もう二度と私に笑いかけてはくれなくなった身体を持て余してしまった。
初めて大切な人を亡くした時がそんなもんだから、10年だった今でも死別は苦手なままだ。

葬儀屋だけではなく、周りの人からかけられる言葉も実はあんまり欲しくない。死を悼む気持ちは本当はあまり共有したくない。親ですら。
悲しかったり、寂しかったりする気持ちは故人と私を結ぶつながりだ。
ご愁傷様の言葉もお花も忌引もあんまりしっくりこない。社会人として受け入れよという気持ちはわかるけれど。
彼らを面白おかしく話すのは、私の話の中だけではいきいきと生き続けてほしいからだ。
「勝手を言うな、死は死だよ」ともしかしたら、どこかで私を諌めているかもしれない。


小学校の帰り道、父方の祖父のマンションが見えた。
冬のすっかり真っ暗な帰り道では、家に明かりが灯っているのがなんだか嬉しかった。
自分のことをいつでも歓迎してくれる人たち。生まれたその瞬間から私を愛してくれた人たち。明かりの先には彼らがいた。

今はもう灯らないその場所を見ることも無くなった。全く違うところで今を生きている。
無条件には愛されないことも、愛は続かないことも知った。私が愛しても、それがハリボテに感じられる空虚さも知ってしまった。

また一つ私を温かく包んでくれた一つの居場所が去ろうとしている。

自分のことを自分で決められなくなることもなく、静かに逝ってしまえることは喜ばしいことかもしれない。
ただ今日は少しだけ寂しいから、すきっ歯で空気が漏れるいつもの声で、もう一度私の名前を呼んでほしい。そう思っている。

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くまみ
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