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#03_自社ブランドの誕生。

1986(昭和61)年。28歳になり、父から会社の経営を引き継いだ金子はこれまで個人経営だった会社を法人化。さらにその翌年、初の自社ブランドの眼鏡フレームを発表します。企画・デザイン・小売、さらには製造までを一貫して自社が手がけ、現在の金子眼鏡のひな形となる改革は、まさにここから始まりました。

孤独な営業活動の日々、大手商社の製品を分けてもらい卸す二次問屋のままでは、この先も現状から抜け出せないであろうことを痛感。様々な模索を続けながら、金子は自らの商売の未来に向け、眼鏡の新しい価値の創造を決意しました。

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折しも、その当時は大手ライセンスブランドのブームの真っ只中。眼鏡メーカーが有名アパレルブランドに対し高額なライセンス料を払うことで、そのブランド名(ロゴ)を眼鏡に刻んで販売するスタイルが主流でありました。

そんな市場の風潮を、金子は懐疑的な目で見つめていました。目を惹くようなデザインを感じるものは極めて少なく、形もクオリティーもほぼ一緒。違うのはロゴだけという、無個性な眼鏡が売場を埋める光景を見ながら、金子は「もし自分が眼鏡をつくるなら、こうしたい」という、眼鏡の理想像を次第に思い描くようになります。

この時代、金子の最大の武器は「目」でした。全国津々浦々、ありとあらゆる小売店をまわり、次第に眼鏡を見る目が研ぎ済まされ、ファッションにおけるコーディネートアイテムとしての眼鏡のあり方に対し確信を持つようになりました。

観察と検証と思考。その積み重ねの末に誕生させたのが、初の自社オリジナルブランド『BLAZE』(ブレーズ)です。
この商品を武器にいよいよ地方から長年の夢であった東京に、とりわけ渋谷や原宿を中心としたファッション感度の高い街で人気だった眼鏡店に売り込みをかけます。とはいえ独学でデザインしたブランドを立ち上げて最初の1〜2年は、営業先の小売店から「こんなの全然ダメだよ」と厳しい言葉とともに突き返される日々が続きます。そのつどデザインを修正し持ち前の目利き力とクリエイションによってブラッシュアップを重ねた結果、3年目以降は誰もが認める商品をコンスタントに生み出せるようになります。

ものづくりにおいて、金子が現在にいたるまで大切にしている「オリジナリティー」と「感性」はこうして磨かれていきました。


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激変する眼鏡業界の中、独自の路線をひた走る。

オリジナリティーの確立を目指し、完成させたブランド『BLAZE』は軌道に乗り、デザインとファッションを重視したトレンドブランドとしての地位を獲得しました。また、ライセンスブランドの販売が主流である一方、デザイン性の高い眼鏡を取り扱う小売店も出現し始め、業界の状況も少しずつ変わり始めていきました。

1997(平成9)年、金子はBLAZEよりもさらに先鋭的な新ブランド『SPIVVY』(スピビー)を立ち上げます。BLAZEがオリジナリティーを追求した眼鏡だとすれば、SPIVVYが目指したのは独自性を超越した「いまだ誰も見たことのない眼鏡」。初めて手に取ったユーザーにカルチャーショックと感動を与えるようなパワーをもった眼鏡です。フレームを磨いて角をまるく落とし光沢を生むという従来の製法とは逆の発想で、磨きながらあえて角を出すエッジの立ったプラスチックフレームをはじめ、その斬新なデザインと手法が人気となり、現在まで続く金子眼鏡の代表的なブランドへと成長していきます。その後も革新的なデザインを携え、グローバルな展開を開始。海外の主要な展示会へ出展し、欧米においても予想を超える支持を得ることができました。

これにより、金子眼鏡は自社ブランドの商品開発と、それらの商品に特化した卸売業へとシフト。ライセンスに頼らない、自らの企画・デザインによる商品開発を推進したことで独自の販路を確立することになります。懸命に地方営業に奔走しながら、最後列の戦いから抜け出すために苦しみもがいて15年以上。金子はようやく「改革」への足がかりをつかみました。


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