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何者かであるかが求められる世界

高校生の時は、何か大きなことをして、会社や大学などのブランド関係なくお金を稼げる人がすごいと思っていました。何者かになりたくて、どうすれば何者かになれるかをもがいていました。

しかし何者かになり、何者かであるにはアウトプットをする必要があることに気づきます。ですが当時の(現在でも)私にはアウトプットできるだけのインプット、つまり内にあるコンテンツが少なく未熟でした。にもかかわらず泳泳というアウトプットをし、わずかではありますが社会の中で認められ、山岡寛泳=泳泳という印象がつき、気がつけばアイデンティティーとなっていました。

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縦横無尽な学びを渇望していた17,18歳

そして自分の中に小さなインプットを足していこうと思い、本を読んだり知識をかき集めていたのですが、自分が集める情報というのは自分の中で何かしらの打算がありました。「役に立ちそうだから」という色眼鏡で情報を集めていたことに気づいたため、縦横無尽的な情報を浴びてインプットをしようと思い東京に出てきました。東京に行く前の自分は、自分のやっている泳泳などの自分のアウトプットなんぞ大都会では弾かれるアイデンティティーに過ぎないと思い、何者でもない場所にいけると少々の期待をし、ある種の生まれ変わりができると思っていました。

大都会でも生まれ変わることはできなかった

大都会に来たものの、若干隠していた泳泳の存在も気づかれ、アウトプットの部分を見られ、または求められるようになりました。そして、そのアイデンティティーもより東京に来る前より強調されて行った気がします。
しかし泳泳というアウトプットとアイデンティティーは過去のもので、どこか過去にしがみついているような気がして、自分としては情けなかったし、現在進行形でやっていることのアウトプットがないのかと多少しょげる時もありました。そこで考えたのは、泳泳はまあまあ大きなアウトプットだったし、結構頑張ったんだなと思うようになりました。

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アイデンティティーやアウトプットを生み出すのは大変

自分=〇〇というアイデンティティーを作り出してくのは時間がかかるし、それなりにエネルギーがいることだと学びました。そして、何でアウトプットをするか、何をアイデンティティーとするかは結構運なところもあるなと思います。

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アイデンティティーは増やすことができるし、変化していくもの

泳泳だったり、鯉のぼりの印象が強い山岡寛泳ですが、それらは高校生のときに戦略的に意図的に行った節が大きいです。
SNSで鯉のぼりや泳泳のことを発信し、自己紹介をするときも必ずいうようにして、周りの人にも鯉のぼりのブランド泳泳を作りました〜と散々言うことで、周りに山岡寛泳=泳泳、鯉のぼりという印象がついたのだと思います。
しかしここ最近は、なんだか多少のつまらなさと刺激のなさを感じ、新たなアイデンティティーが欲しくなっているのが実情です。そして、泳泳という狭い何かに自分が閉じ込められているような気がしていて、何者かでもない時の方が可能性と自由を感じます。

しかし過去のことをほざいていても、ついてしまった印象は消すことはできないので、新たなアイデンティティ獲得のため、これから行動していきたいなと思います。目指すはコンテンツが豊富な人間。




ということで、山岡寛泳の現在のアイデンティティーである泳泳は下記よりご覧になれます↓



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