『植物に死はあるのか』稲垣栄洋氏
のなるほどと思った部分メモと感想。
(要約ではない)
①植物はどうして動かないのか
結論、自分で太陽光エネルギーで生きる為のエネルギーを作っており、動く必要がなく、むしろ動くことが無駄なエネルギー消費だから。
ただ、厳密に言えば、ソクラテア・エクソリザという植物は、根っこをタコのように動かして太陽の光の方に移動する植物(1年間に数十センチ程度だが)もいるので一概には言えない。
②植物と動物はどう違うのか
葉緑体があるかないか、細胞壁があるないか、が簡単な区別だが、これを横断しているウミウシやミドリムシがいる。つまり、葉緑体を持つ動物がいるということである。
ちなみに、なぜ細胞壁があるか、と言えば、大きくなる為である。つまり、上に重ねていった時につぶれないようにしていて、だからこそ木はとても大きくなる。
結論、区別は人間が決めているだけである。
③草とは何か
裸子植物から被子植物へ
これの何が進化だったのか・・・子孫継承スピードを上げた(変化に対応しやすくなった)
→裸子植物は、タネの元となる胚珠がむき出しになっている為、花粉が飛んできてから胚珠を成熟させ、受粉する。これには長くて数ヶ月から数年かかる。代表例はマツで、受粉から一年以上かけて受精の準備をして、受精したのちに松ぼっくりになる。
被子植物は、子房の中に胚珠を入れておいて、受粉する前に胚珠を成熟させ、受粉したら数時間から数日で受精できるような準備をしている。これは老舗の鰻屋と牛丼屋の違いと似ている。
誰もが長生きしたいのに、なぜ植物は木(長生き)から草になったのかと言えば、
長生きという選択肢もあっていいが、環境の変化に対応しきれない可能性が高い。
つまり、1000年の木も素晴らしいが、1000年の間に想定以上の変化が起きた場合、対応しきれない。しかし、一年や数年で世代を変え、場所を変え、常に世代をつなぐことでみんなで持続的にしている。つまり、一人で1000メートル走ってもいいけど、10人で100メートルずつ走ったほうが、強くないですか?という理論である。
だからといって、大昔から存在する裸子植物やシダ植物が消えている訳ではない。
つまり、発展したかどうかは分からないという問いが残る。
④木はいくつあるのか
植物はタネから育つと思われているが、街中にある木はそうではないケースが多い。
例えば、桜並木があるが、それは川沿いに桜のタネを植えた訳ではない。
多くの場合、挿し木や接ぎ木で植えられる。挿し木は、枝を土に直接刺すことで枝から根っこが出て活着することである。接ぎ木は、茎と茎をつなげる。
つまり、木は枝や茎から自分の分身(クローン)を作ることができる(このような増え方を栄養繁殖という)。
ちなみに、バナナや温州みかんには種がない。あれは遺伝子組み換えなどではなく、自然が作り出した結果である。
タネのなしバナナの仕組みとしては、そもそも染色体は、23組の染色体が対になって46個ある。それが受精する時に減数分裂して23個になって、それが雄と雌合わさってまた46個になる。このような染色体の状態を二倍体と呼ぶが、バナナは三倍体であり、つまり減数分裂を行わないため、子孫を残せない(タネが作れない)。
なぜ三倍体となるかというと、偶然、減数分裂をしないで二倍体の花粉と二倍帯の胚珠が受精するという現象が起きて、その個体は四倍体になる。その四倍体は、減数分裂できるので、二倍体となり、そこに一倍体の通常の花粉または胚珠を交配させたら、三倍体となる。
これを仕組みを応用したのが、種無しスイカである。
ちなみに、温州みかんは、突然変異で種無しの果実が生まれ、本来子孫が残せないはずなのに、人間にとって都合がいいので、栄養繁殖で今だにたくさん生き残っているというみかんである。鶏の無精卵的なイメージ。
ちなみに、彼岸花は、三倍体の植物であり、タネを作らない。球根による栄養繁殖で何年も存在している植物も多くいる。
ちなみに、竹も栄養繁殖である。
そして、竹は根っこが全て繋がっている。
一本一本を見て、竹の数を数えることができるが、根っこは全て繋がっている。つまり、この竹は、1つの竹なのか、何本も生えている竹なのか。
そもそも植物は、接ぎ木ができる。例えばキュウリの苗をカボチャの苗と繋げて植えることができる。そしてどちらの能力も兼ね備えることもできる。
これを最初の桜の話に戻すと、日本のほとんどの桜並木を彩るソメイヨシノは、ほとんど接ぎ木で育ったソメイヨシノである。根元を作る桜は、オオシマザクラなどの根張りの良い桜を選択し、根を伸ばしておく。そして、育っているソメイヨシノから枝を持ってきて、オオシマザクラを切って接ぎ木していく。すると、一気に大量のソメイヨシノのクローンを誕生させることができる。
その際に、上半身のソメイヨシノと下半身のオオシマザクラのどちらが本体なのか、という疑問が出てくる。咲くのはソメイヨシノだが、栄養を吸っているのはオオシマザクラ。
植物の本体とは何なのか。という問いが残る。
⑤木は生きているのか
木は、生きている細胞と死んでいる細胞が合わさっている。
表面が生きている細胞で、中心部分に近い硬い部分が死んだ細胞であり、死んだ細胞の蓄積が年輪であり、それを建材として使っている。つまり、堆積的には体の大部分は死んでいるのが木である。逆に人間は、表皮や爪、髪など、表面が死んだ細胞で守られている。つまり、植物と内外は逆だが、死んだ細胞と生きた細胞を組みわせることで生きている。
私たちの細胞は、1か月から1年で全取っ替えされる。皮膚は45日、脳でも一年で全部変わる。だとすると、全取っ替え前の私と後の私は同一人物であるという証明はどこにあるのか(動的平衡的な話)。
ローマ帝国時代のテセウスの船という課題に似ている。
テセウスの船が作られてから老朽化し、老朽化した部分から新しい部品に変えていった結果、最終的には元の部品がなくなり、全て新品に取り替えていた。この船はテセウスの船だろうか、という問題である。
ここから考えられるのが、「私」や「心」はどこにあるのか、という問いである。
⑥植物は死ぬのか
元々、生命に死はなかった。なぜならアミノ酸の塊に死はない。
そして少し進化した単細胞生物にも死はない。なぜなら半永久的に(数十億年)ずっと分裂を繰り返しているものもいる。この生物は死んだとは言えないのではないだろか。
ちなみに単細胞生物の中でもゾウリムシは死ぬ。生涯分裂回数が決まっていて、他の個体と出会って遺伝子が交換できると、生涯分裂回数がリセットされる。つまり、出会えば半永久、出会えなければ死ぬというのがゾウリムシである。
つまり、生物は進化の過程で、少しずつ「死」を手に入れた。
なぜ生物が「死」を手に入れたことが進化と呼べるかといえば、変化に対応できるようにするためである。変化に対応できていない個体が生き続けて交配されてしまうと非常に困る。つまり、変化に対応できている新世代だけが交配可能な環境を作っていくために、旧式は消えていく必要がある。それが死である。
永遠であり続けるために、生命は限りある命を作り出したのである。
老いも同様であり、細胞分裂を可能にする“テロメア“という部分が有限であり、これがなくなっていくと細胞分裂ができなくなり、細胞が再生されなくなる。これが、老いや死を作り出す仕組みである。
これは感想だが、会社や社会にも言えることな気がする。というのも、老いも死も変化に対応し、持続的ないのちを繋いでいく仕組みなのに、老いも死も否定し、次の世代に譲れない組織は破綻していくのだろう。
これは言い換えたら、秩序を保つために死ぬことができない人(細胞)である。
そして、秩序を無視して増殖を続ける細胞が、がん細胞である。がん細胞は不死の細胞である。HeLa細胞という細胞は、ヘンリエッタ・ラックスさんのがん細胞であり、1951年に亡くなった際に採取されたものだが、いまだに細胞分裂を繰り返している。これは紛れもなく、ヘンリエッタさんの細胞から生まれたものであるが、これでヘンリエッタさんは生きていると言えるんだろうか。
植物も人間も、細胞が生きている、死んでいるという定義もできない中で、死をどう定義するかという問いが残る。
⑦植物は何からできているのか
植物は、葉や茎、根などでできていると言えるだろうが、それは何からできているかといえば、もちろんあらゆる原子、分子からできており、それらはどのように作られたかと言えば、138億年前にビッグバンが起き、陽子一個の水素と二個のヘリウムが生まれ、それらがぶつかり核融合することで高温となる。高音となって1億℃を超えると、炭素が生まれる。ちなみに太陽は300万℃であり、この熱さの核融合だとヘリウムしか生まれない。
太陽のような恒星は、年を取ると膨張し、巨大化する。すると、内部の圧力が増して温度が上がり、1億℃に達するとヘリウムが結合し、炭素ができる。
そして最終的に爆発し、それが宇宙空間に離散する。
それらが集まって地球のような星が作られ、炭素を使って生命が生まれた。
これからもわかるように、私たち生命の源は、星の死によって作られたものである。
そして私たちもいつかは太陽が膨張した結果飲み込まれ、最終的に爆発した結果、他の新たな星の炭素となる。
そう考えると、宇宙の果てまで自分の一部がいけるかもしれないし、それが新たな生命になっているかもしれない。
私たちも植物も、星の死によって生まれた有機体であり、老いて死ぬというのも、当然の話だと思える。
つまり、植物も私たちも、星のかけらでできている。