当たり前を問いなおすとは、禅問答(個人的解釈)
禅とは、日本的に大きく分けて、曹洞宗か臨済宗に分けられる。
禅の最初は、当然だがブッダがスタートであり、悟り(本質)の手段としてあったものだが、ブッダ自身が禅を正式な手段として指定した訳ではない。
どうしたら悟りを開けるのかを中国に仏教が渡って色々な人が考えた。
曹洞宗の道元さんは、座禅という姿勢が悟りに繋がる核なんだと信じた。
そして、儒教や道教とミックスしたことで、色々な宗派に分かれた。
臨済宗の栄西さんは、座禅を組みながら、師が出す問い(公案)を弟子が考え(感じ)、
師に応えて更に、その応えに対して、師が弟子に新たな問い(公案)を出す。
この繰り返しが、禅問答であり、栄西さんが行き着いた。
「そんなの禅問答や」みたいな使い方もされるが、答えが全く見えてこない対話に対して使われる皮肉だが、個人的にはこれを言われたら良い対話をしているということだと思えるかもしれない。
みたいな感じで禅問答の禅も生まれたが、
これらミックスされた時に、儒教的な倫理や哲学、道教的な自然との調和という要素が禅に含まれたことにより、一般的な今の自然の中で足を組むことでなんか人生を深く理解している感じのイメージが禅に出たんだと思う。一般的な理解かは分からないが。
ここで、自分たちとの共通点がある禅という意味では、臨済宗だろう。
ただただ頭を空っぽにして座禅を組むことが良いとした曹洞宗の方法の方が個人的には禅ぽい感じだが、禅問答は、実は非常にタネノチカラやイトマの問いの提供の仕方に近い気がする。
というのも、禅問答の本質は、対話や知識だけで見えてくることを前提としている訳ではなく、座禅を組むことで感性が研ぎ澄まされ、直感的に何かを“悟る“ことができ、それを問いの回答として出した時に、相手はそれを更に問いとして受け取り、座禅を組みながら感性を研ぎ澄ませて直感的に“悟る“ことを待つ。
ここで“悟る“というのは、仏性的な話が元々の目的ではあるが、現代的な意味合いで言えば、“やってみないと分からないことが分かるようになる“的な意味合いに近い気がする。
自転車の乗り方をいくら理論で説明されるよりも、練習して感覚的に乗れるようになったタイミングは、自転車の乗り方を“悟る“というみたいな。
話を戻す。
禅問答とは、その場で考えて答えを出そうとしたり、どちらが合っているかを決めるディベートとは違う。
一つの問い(公案)から、時間をかけて問いの解像度(問いと問い以外の世界を感じる精度)を上げていき、一人では上がりきらない部分を師弟関係で引き上げていくような感じ。
曹洞宗的な禅も、マインドフルネスとしてビジネス的にも科学的にも評価され始めているが、ここに禅問答の要素を入れることで、よりマインドフルネスよりも本質的な部分(悟る)ことができるのかもしれないと思う。
臨済宗の問い(公案)は、当然仏教に関連する問いだが、
いのち、自然、生きるなど、仏教にも通ずるが、宗教色を出来るだけ削ぎ落とした上で、体感と意識を通して問いを提供していくことで、その場で答えは分からなくても、ふと分かる時が来るかもしれない。
だからこそ、問いと禅を両方やる合わせる必要がある。
農的な中には、草刈りや畝作り、種まきなどの作業が禅的な要素としてふんだんに入っている。その中に、問いを提供することで、農的禅問答ができるのではないかと思う。
文章としてまとまりがなく、分かりにくい気がするが、とりあえず頭の中の整理として。