分からないということを分かるために分かろうとする必要がある
偶像崇拝はするなという規律があるのに偶像崇拝をする。
文字化するなという規律があるのに文字化して経典にする。
お金の恩恵、お金があることを前提としているにも関わらず、お金を無くそうとする。
布教するためには
活動を継続させるためには
お金を信仰の対象から外すためには
色々な理由があり、それがやり方が間違っているとは言わないが、どうしても分からない。
分からないということは分かっているが、
分かっていると思っている人は本当に分かっているのだろうか
分かろうとすればするほど分からないことが分かる。
だから本気で分かろうとする人は皆謙虚だと感じる。
分かったと思っている人、分かろうとしない人、分からないと開き直っている人はみんな偉そうである。
“分かりやすく“、“分かった気になる“情報が溢れるこの社会において、
分からないことを分からないと受け入れつつ、でも諦めずに分かろうとする過程の中に、分かるがほんの少しあるし、それを共有できる仲間がいるということが、分かりたい本質な気もする。
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