秋の朝顔繁茂
街を歩いているとツタがびっしり繁茂している建物があった。うっすらからまるのではなく、まさに繁茂して緑があふれていた。あれっ。よく見ると、緑の中に紫の丸い点がある。あれあれっとよくよく見ると、ツタだと思っていたのはアサガオの葉だった。アサガオの葉が茂っている中に紫の花がぽつぽつと咲いている。
朝顔は夏の風物詩のように思っている人もいるが、実は俳句では秋の季語になる。夏が終わって秋に咲く花なのだ。
アサガオは、ヒルガオ科サツマイモ属の植物で、サツマイモの仲間だ。アサガオの葉っぱとサツマイモの葉っぱを並べると、同じような形をしている。この辺りでは滅多に咲かないが、サツマイモの花は、白っぽい薄紫のアサガオと同じ形の花だ。私は今まで2回しか見たことがない。鹿児島や沖縄の暖かい所ではよく花が咲くそうだ。
昔、田舎の杉の木に、秋になると木の高い所まで小さな花を咲かせるアサガオが伸びていた。
その花を見ながら、アサガオって秋に咲くのだということと、アサガオは植木鉢に1本だけ植えて観察するものではなく、本来はこんなに大きく育つものだということを知った。
大きく伸びたアサガオを見ると、水耕栽培のトマトを思い出す。普通のトマトの苗を水耕栽培し、根を自由に伸ばさせると、1本の苗が巨木のようにどんどん伸び、たくさんの実をつける。1株で17,000個も実をつけるそうだ。
根にストレスがかからなければ、植物はどこまでも大きくなる。
人間も、身体や脳にストレスをかけずに成長していけば、無限の可能性を持っているだろう。
街で見たツタのようなアサガオは、葉はたくさんあふれているけれども、かんじんの花が少ししかない。
植物は、栄養が多すぎると葉をたくさん茂らせるが、花が咲かなくなる。花が咲かないという場合、養分のやり過ぎがけっこうある。
花は種をつけるために咲くものだ。一年草は、花を咲かせ種をつけ、枯れていく。花は、次世代へつなげていくものなのだ。自分だけが満ち足りていれば、わざわざエネルギーを使って次世代のための花を咲かせる必要もない。種を作る必要もない。自分はもう先がないと思うから、次世代を残すために花を咲かせる。
過酷な思いをしてサケは川を上り、産卵すると死んでいく。死ぬために必死で川を上る。死ぬことが目的ではない。次世代を残すために川を上る。それがサケの生き方だ。
花も寿命に近くなり、養分が不足し、命がなくなりそうになるから花を咲かせる。
花を育てる時に、まちがった育て方をすれば花は咲かない。葉っぱが茂るだけだ。花をたくさん咲かせようと思って、いくら栄養を与えてもそれは逆効果になって、花はますます咲かなくなってしまう。
人も同じだろう。塾や習い事をいくらたくさんさせたとしても、それが身につくかどうかは別問題だ。特に幼い子どもにたくさんの習い事をさせるのは、芽が出たばかりの苗木に肥料をたくさん与えるようなものだ。
まちがった教育、育て方では、いくらモノを与えても子どもは育たない。
ストレスなく自由に育てるということを言ったが、好き勝手我儘放題させることが子育てではない。ヒトは植物のように本能だけで生きているのではない。学習しながら、脳の回路を増やしながら育っていく。ヒトが他の動物と違う特徴だ。回路を増やすには、適度なストレスも必要だ。ストレスに耐える力もつけなければ脳が暴走してしまう。自分一人の世界にとじこもってしまう。社会に生きるヒトは、社会のルールも学ばなければならない。
適度なストレスを与え、不必要なストレスを与えず、必要な養分を与える。不必要な養分を与えがちな親である自分を律すれば、子育てがもっと楽になるのではないだろうか。
人間は自然の中の一部でしかない。我々は、自然から学ぶことが多い。
繁茂している朝顔を見ながら、そんなことを思った。
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