昔取った杵柄でイングリッシュが話せるか
何年も車に乗っていない人が、十年ぶりにハンドルを握っても、車の運転はできる。車の話は怖いから、自転車でもいい。久しぶりでも自転車に乗れる。
車の場合は、ずっと運転をしていた人は、すぐに久しぶりのハンドルに慣れるが、免許を取った後、ペーパードライバーだった人は、久しぶりだと、ちょっと運転に自信が持てない。自動車学校で何時間も練習したはずなのに、その程度の練習時間では、運転を忘れる。免許を取ってから何年も自分で運転してきた場合は、身体が覚えている。自転車も覚えた後、何年も乗って身につけたから忘れない。
何が言いたいかというと、英語の話だ。
日本では、中学校から英語を学び、高校でも学び、大学でも学ぶ。社会に出てからも英会話の本を買い英語を学ぶ。それなのに英語が話せない。そこで、早くから学べばいいだろうと、小学校でも英語を学ぶことになった。それでどんな結果が出るのだろう。みんなペラペラと話せるようになるのだろうか。
何年も英語を学んだ自分は、英語が話せない。身につくまで覚えていないからだ。
でも、何十年も昔に何度も聞いた英語の歌は今でもスラスラ歌える。
When I find myself in times of trouble Mother Mary comes to me Speaking words of wisdom Let it be (Lennon & McCartney 「LET IT BE」)
歌の意味はよくわかっていなくても、曲と歌詞を一体として覚えている。スラスラ歌えるのに意味はわからず、英語は話せない。歌として覚え、言語としては覚えていないからだ。
「昔取った杵柄」は、いろはかるたの中のことわざの一つで、昔身につけた技量は、年をとっても衰えないという意味。本当に身につけたものは忘れない。
餅は、杵(きね)でつくが、その杵の、手で持つ柄(つか)の部分を杵柄(きねづか)という。
餅つきは、力でつくのではなく、タイミングでつくのだが、そういうものはなかなか忘れない。ぺったんぺったん同じ動作を何度も繰り返す。言語ほどの時間をかけた練習をしなくても身につく。
杵柄の意味もわからなくても、ことわざとして「昔取った杵柄」と覚えていて使う。
いろはかるたは、子どもも遊ぶので、「犬も歩けば棒に当たる」「一寸先は闇」「一を聞いて十を知る」と子どもも覚えて、日常でも使う。「子はかすがい」とか、意味がわからなくても覚えている。
ちなみに、いろはかるたは地域によってことわざが違う。「犬も~」は江戸、「一寸先~」は京都、「一を聞いて~」は大阪のかるただ。
いろはかるた以上に、百人一首はもっと難しい。
いろはかるたは遊んでも、百人一首は難しいので遊ばない人が多い。では、百人一首をする人は、意味がわかっているかといわれれば、そうでない人もいる。意味もわからない子どもでも暗記して覚える。
ちはやふる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは (在原業平)
「ちはやふる」と言われれば、「はい」と「からくれないに」を取る。「ちはやふる」が「神」にかかる枕詞だと知らなくても、覚え、日本語として使う。それが「ことば」だ。こうして日本人は日本語を覚える。
日本が好きで来日する外国人も多いが、だいたい日本の何かにはまっている人が多い。アニメが好きな人は、何度も好きなアニメを繰り返し見て、そこで日本語を覚える。
日本語を話せず来日した人でも、日本が好きな人は、時間があれば日本語検定の勉強をする。漢字検定の勉強をしている人もいる。そういう人は、すぐに日本語を覚える。
大人になってから学ぶ難しい言語であっても、それだけ努力すれば日本語を覚える。
自分は、英語にそれだけの努力をしていない。英単語は、テストのために何度も書いて覚えたので、今でもスペルを覚えているものがある。でも、言葉としての英語は覚えていない。だから話せない。
何年も、何十年も英語の勉強をしてきたのに話せない人は、どれだけの努力をしてきたのだろう。
小学校から英語を学べば、誰でも英語が話せると思わないでほしい。努力のないところに結果は出ない。言語とは、そんなに簡単に身につくものではない。
小学校の英語学習は、もう始まっている。だが、学習の基本は忘れないでほしい。「主体的・対話的で深い学び」も大切だが、単純な暗記も必要だ。日本語の学習も必要だ。時間は限られている。基本を学んではじめて応用ができる。応用だけ学んでも力はつかない。