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江戸後期文壇を牽引した山東京伝について
後期江戸文学を代表する作家、山東京伝は、宝暦11年(1761)、深川の質屋、岩瀬伝左衛門の長男として生まれる。本名、岩瀬醒。
はじめは北尾重政に浮世絵を学び、浮世絵師、北尾政演として10代でデビューした。
黄表紙などの作家として活躍したのは天明年間(1781~1788)、20代のころだ。30代の寛政年間(1789~1800)にも活躍し、文化文政の文化が花開く、文化13年(1816)に没している。56歳だった。
江戸時代前期には、上方の井原西鶴(物語)、近松門左衛門(演劇)、松尾芭蕉(俳句)という三大作家が教科書に載っているが、江戸後期の山東京伝や黄表紙などという言葉は、教科書に載っていたかなあ、というぐあいにしか覚えていないだろう。京伝以降の「浮世風呂」(式亭三馬)や「東海道中膝栗毛」(十返舎一九)は教科書にも載っていたなあ。まあ、なんせ、現代において、黄表紙の評価は低い。それはなぜかとたずねたら、絵と文が一体となった「絵本」だから。文章としては物足りず、絵画としても物足りないと思われてきた。ところが現在、日本の誇る輸出産業は、アニメ、コミックスだ。絵と物語が中心となっている。黄表紙作家は、絵も文もできなければならない。もっと総合芸術である黄表紙が再評価されてもよいだろう。
黄表紙だけでなく、江戸の町の文学は、戯作と呼ばれた。「源氏物語」のような正統の作品に対して、戯れに書いた軽い作品ということで戯作と卑下した呼び方にしている。
こういう作品の最初のヒット作品のひとつとして、教科書のエレキテルでおなじみの平賀源内が「放屁論」というおならの話を書いていた。こんな内容なら戯作と呼ばれてもよいだろう。
江戸時代には、木版印刷の技術が発展し、本を印刷するようになった。
それまでの「本」は、筆で書いただけのもので、世界に一冊しかないのが本だった。それを他の人が書き写して、本の冊数が増える。書き写すのだから、写しまちがいもあり、同じ本のはずなのに、内容が違っていたりもする。
日本の印刷は、彫刻刀で彫る木版。小さな文字を彫刻刀で彫るので、技術も発展する。文字だけでなく、絵も彫刻刀で彫るので、そちらの技術も進み、色つきの浮世絵版画、錦絵ができ、髪の毛一本一本まで描く(彫刻刀で彫る)技術が確立した。
京伝は、最初は浮世絵師をめざしていた。実際、京伝は北尾政演として、多くの錦絵(色つき浮世絵)を描いている。浮世絵師としても有名だった。また、黄表紙の挿絵も描いている。黄表紙の方は、本文に色は付いていない。一枚の版木の木版画だ。画家の力量がもろに出る。有名な浮世絵師は、だいたい黄表紙の挿絵を描いている。
京伝が、絵師の余技として黄表紙を作り、21歳の頃出版した、「御存商売物」(1778刊)を大田南畝に絶賛され、作家として評価される。
身分社会の江戸時代には、遊里があった。遊里では、武士は刀を預ける。士農工商を証明するものがなくなり、他の階級と違いのないただの客となる。
遊女と床に入ると、服を脱ぎ、生まれたままの裸となる。士農工商のトップの「士」と、貧しくて金で買われた遊女が、どちらも同じ生まれたばかりの姿の人間となる。
遊里とは、女性を差別する墓場であるだけでなく、身分を越えた場所でもあった。
当時の文壇は、武士が中心であり、平賀源内や大田南畝も武士であり、武士の余技として戯作と卑下した言い方をしていた。そのうち、町人作家も増え、文壇においても、狂歌の集まりには、武士も町人も参加していた。身分を超えて武士、町人が一緒に狂歌を創っていたのだ。そんな中に、京伝もいた。
京伝は、黄表紙をたくさん創作し、物語中心の洒落本も描いた。その洒落本が風紀を乱したとのことで、30歳のころ、手鎖50日にもなっている(1791)。
京伝の作品は、ストーリー重視ではなく、カタログのような作品が多い。その作品の中に、いろいろなものを詰め込んでいる。西洋の遠近法や、「解体新書」の解剖図なども取り入れる。斬新なものはないけれど、いろいろなものを取り入れて、一つのまとまった作品としている。
24歳の頃に描いた黄表紙の代表作「江戸生艶気樺焼」(1785刊)の現代語訳の中に、他の黄表紙作品も紹介しているので見てほしい。
「南総里見八犬伝」の曲亭(滝沢)馬琴は、作家になりたくて京伝に弟子入りを志願している。弟子はとらない京伝は、出版社を紹介し、その後、馬琴は職業作家となる。
職業作家といったが、戯作は当初、武士の余技であり、原稿料なんてなく、出版社は、宴会一回で原稿をもらったりしていた。それを原稿料をもらうようにしたのが京伝である。京伝のおかげで、後の作家は、原稿料がもらえるようになった。書くことしか能のなかった馬琴は、それで生きていくことができた。
そのような面もふくめ、もっと評価されるべき作家が山東京伝だろう。
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